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透明の檻

ずっと、スナフキンやチャトウィンのように誠実で自由な香りのする生き方をしたかった。

気づけば、もう何年も移動しながら暮らしている。さすらいや放浪といえば気楽に響くかもしれないが、旅暮らしの実態は映画のようにはいかない。大変なことや面倒なことの方が多い。

それでも流れ続けるのは、たぶん強さがほしいからだ。出会うはずのなかった未知の景色や人、感情、価値観と出会う機会が増える。それが自分の考える強さと深く関係している。

普段の生活で頻繁に触れる情報について、それが常識やあたりまえであるかのように勘違いしてしまうことがある。webに莫大な情報が転がっているとはいえ、自ら取りにいける情報は、本人がそもそも知っていることか、その周辺だから、結局は自分の常識の延長線であることの方が多い。

しかし、現実世界は人間ひとりが考えているより何倍も多彩で、広大で、今この瞬間も変化している。

そのことに無自覚でいると、気づかないうちに目に見えない檻の中に閉じ込められる。

常識を疑えなんて言葉は何度も聞いたし、頭では分かっている。みんなそうだ。けれども、実際に頻繁に日本中、世界中を移動してみると、気づかないうちに自分が勝手に作り上げた常識、当たり前、ルール、枠組み、思い込みがこんなにもあったのかと心底おどろく。

移動の最大の恩恵は、そういったことに自然と自覚的かつ敏感でいられることだ。毎日、出会う人が、見える景色が、過ごす時間がいやでも大きく違うからだ。その中で理解を超える人や出来事との遭遇を繰り返すと、当たり前がひとつも無くなって、自然と問いが溢れてくる。

移動によって物理的にも精神的にも大事なもの以外が削ぎ落とされ、純度が増し、純度が増した状態で引き寄せた出会いは良質で、大切な気づきを与えてくれる。

そういったことの積み重ねによって、対象について精通しているのではなく、対象を選ばない態度を私は思い出す。

それは疑い深くなることとは違って、世界に対してひらいている感覚。実はそこには懐かしさがともなう。なぜなら、世界に対して対象を選ばず無限に問いをもったり気づきを得る行為は、幼い頃にみんな持っていた感覚だからだ。

問いが溢れ出し、対象について考えていたつもりが、翻ってそれは自分を見直す機会になる。出会うものに対して反射的に否定・拒絶することが減り、その背景や複雑な関係性に目を凝らし、まだ自分の知らない世界、見えてないものあるだけではないかと考える余裕が少しだけ生まれる。

それでも、どうしても受け入れられないこと、わかり合えないことももちろんある。そんな時はいちど離れるか、思い切って真正面から対話を試みる。

新しい何かに出会い、それを受け入れること、わかりあうこと。あるいは、わかりあえずとも歩み寄って確かめあうこと。その繰り返しで、ひとつ、またひとつ人は強くなる。

強いと優しいはきっと同じ意味だ。

いつかの旅の宿に置いてあった漫画。お婆さんが孫に言って聞かせる「この世に強い人なんておらん。強くあろうとする人、おるのはそれだけじゃ」という台詞が気に入っている。

強い人になれるかはわからないが、強い人であろうとし続けようと思う。

流れ流れて。


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