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条件は言い訳を作る
今日も、「アフターコロナの恋愛はどうなる?」シリーズの続きを書こうと思ったけど、一休みする。
ちょっと気になったことがあったもので、忘れないうちにメモ代わりの投稿。
* * *
北海道ではそれほど強く言われていないのだけど、東京ではとくに「三密」ということが、連日謳われているでしょ?
余談だけど、僕なんて普段仕事が仏教がらみなもので、「三密」と言われたら仏教用語にしか聞こえなかった。密教でいう、「身・口・意」の三密というね・・まあ、それは良いんだけど。笑
つい1ヶ月前くらいには、三密を検索すると仏教の説明がトップに出たんだけど、今は、時事の三密の方が検索結果のトップになったね。
今、三密といえば、「密閉」「密集」「密接」のこと。
もう、言わずもがな、こういう場所は感染リスクが高いって話ね。
その前提が浸透してきたのは良いことだと思う。
だけど、ちょっと気になっていることがあるんだ。
「三密を避けるために・・・」って言い方がすごく多い。
外出するけど、密閉された場所に行かない。
ちょっとした集会をやるけど、こまめに換気はする。
人数制限や交代世制にして、密集しないようにする。
一見するとそれはとても良いことのようだけど、「三密」という条件を作ってしまったがために、「三密にならなければいいんでしょ?」という解釈をする人が多い。
だから、みんなマスクして、席を離して、こまめに換気をしてるから集まっても大丈夫だよね?というパターン。特に田舎ではけっこう有るような気がする。
だから、集まるなっつーの。
* * *
こういう条件を付けてしまうのって、あまり良い事じゃないということを感じている。
例えば、子ども達に「勉強したらゲームをやってもいい」というような条件を付けると、勉強を盾にするようになる。
これは、子どものタイプによるかもしれないけど、うちの長男なんかは、こんな条件を付けたら、アホみたいに勉強に励んで、ゲームをやる権利を獲得する。
勉強したんだから文句ないだろう!と言わんばかりである。
プログラムの場合は条件分岐で次の動作を判断させなければいけないのだけど、それって、人間がやるととてもレベルが低い気がするのだ。
それさえしなければいいんでしょ?
それさえやればいいんでしょ?
人間の行動って、もう少し高い目線でトータルで最善な方法を考えたときには、それほど単純じゃない。
ゲームをやりたいがために、勉強という労力を支払っているのだったら、それは実にくだらない。
三密にしても、感染リスクの高い環境をわかりやすくまとめているのであって、条件ではないのだ。
大事なのは、感染しない、そしてさせないことであり、三密じゃなければOKという意味ではない。
* * *
ライフスタイルが急激に変化して、自分がどう動いて良いのかわからない人も多いと思う。
そんな時は、回りから言われたことを条件のように行動を決めつけると、行動の責任を他人のせいにできるから楽なのだ。でも、それは社会をよくしない。
そうではなくて、冷静に自分で考えて、それぞれ最善の行動をするように心がけたい。
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