記事に「#ネタバレ」タグがついています
記事の中で映画、ゲーム、漫画などのネタバレが含まれているかもしれません。気になるかたは注意してお読みください。

映画カラオケ行こ!で鑑賞を重ねて気付いた3つの意味~宇宙人が『狙えなかった』助手席を中心に~

今回は、原作と映画で異なる『宇宙人が衝突したセンチュリーの席』を中心に、自分が鑑賞を重ねて初めて気付いた映画カラオケ行こ!内の3つの意味について整理したいと思います。



■運転席の意味①――原作では助手席に衝突していた宇宙人の車が、なぜ映画では運転席に衝突していたのか?

映画カラオケ行こ!には当然ながら原作カラオケ行こ!とは異なる部分が多様にありまして、その中でも観客が共通の感想や疑問を抱くポイントはいくつかあります。そのひとつが、「原作では狂児のセンチュリーの助手席に衝突していた宇宙人の車が、映画ではセンチュリーの運転席の方に突っ込んでいる」という点でした。
助手席は『いつも聡実くんが座っていた席』であり、そのため原作では、宇宙人は聡実くんを狙って事故を起こしたと見る説が有力でした。映画でわざわざその席が変更されたということは、何らかの目的や意図があってのこととなります。
これについては映画がヒットし始めた位から様々な解釈がなされ、以下のような説があったと記憶しています。

①助手席(いつも聡実くんが座っている席)に衝突させるのは、実写内ではショッキングすぎて忌避された
②助手席を狙われて狂児がキレる=ブロマンスより恋愛の印象が強くなるため、映画では運転席に変更された
③衝突のシーンを映像で入れるとなると、運転席に突っ込まないと緊迫感が出ない(助手席だと狂児が衝突点から遠くなる)から、変えたのかな?

*自分の記憶によるもので上記が主説という訳ではありません

また「理由が②だったなら、原作は恋愛、映画はブロマンスで、その差異を席移動で表しているのだろう」という意見もあったかと思います。(X上のつぶやきだったと思うのですが、元投稿は辿れませんでした)
③は単に私の感想です。同意見の方がいらっしゃったかどうかは分かりませんが、「もしくはいつもあの向きで車停めてるから運転席しか突っ込めなかったのかな……」とかアホめな事も考えつつ、①や②も同程度の可能性で考えつつのまま、20回くらい映画を見に行っていました。

それが根底から覆ったのは、確か2024年5月5日の、成田狂児大生誕祭イベントの時だったかと思います。

■運転席の意味②――映画の宇宙人は、助手席を『狙えなかった』。そうすれば現実に近い映画の中の狂児は、宇宙人を『殺さなければならなかった』から。

それに気付いたのも大体聡実くんのソプラノと同じ経緯でした。おそらく狂児誕生祭の頃には20回以上も見ていながら、やはり20回以上見たはずのカラオケ店前の事故のシーンで、突然に目から鱗が落ちました。
「……そうか! 事故が運転席側になったのって、変更してもしなくても良いようなフワフワした理由じゃないんだ!! 助手席に突っ込んでたら、映画の狂児は宇宙人を『殺さざるを得なくなる』から、運転席にするしか無かったんだ!!
だって、原作を読んだ時も、自分は同じことを考えたじゃないか!!!


解説します。
それまで完全に忘れていたのですが、そもそも自分が初めて原作を読んだとき、整合性でいうと結構引っかかる部分はあったのです。

「なんで聡実くんはヤクザについてっちゃったの?」
「なんで危ないって言われた場所に行っちゃったの?」
「宇宙人が助手席(聡実くん)を狙ったなら、宇宙人が生きてる限り、聡実くんは危険じゃないの? 暴行止まりで大丈夫だったの?」
「狂児から連絡がないと言っても、事務所やスナックの場所は聡実くんも知ってるんだから、訪ねてみれば連絡つくんじゃないの?」

和山やまの世界観を何も吸収しておらず、完全にフラットな状態で挑んだとき、漫画『カラオケ行こ!』は、必ずしも論理的一貫性を持った作品ではなく、上記のような疑問を私は抱いていたのです。

では何故それを忘れてたかというと、「あ、この作品はそこが論点じゃないんだな」と理解した後、多少の矛盾はどうでもよくなっていたから。

そうです……ここでも立ちはだかっていたのです、先入観という名の罠が……!!!(※『ここでも』の詳細は拙note別記事をご覧下さい)
おそらく初見で似たような疑問を抱いた方はいらっしゃると思うのですが、それでもファンになった方々は、同じく無意識のうちに、それら矛盾にはフォーカスしなくなっていったのではないかと思います。
だって和山やま世界の魅力はそこじゃないんですもん。和山先生作品を楽しむにあたり、いつまでも主旨と違うとこ気にしてられません。

でも、そんな読者が無意識下に押し込めた違和感を、稀代の脚本家・野木先生を始めとする『映画カラオケ行こ!』制作陣は、砂の一粒たりとも見逃さなかったわけです。

「なんで聡実くんはヤクザについてっちゃったの?」
には透ける刺青と、傘の忘れ物という理由をつけて。
「なんで狂児は今になって歌をがんばり始めたの?」
には万年最下位アニキの裏切りという理由をつけて。
「なんで危ないって言われた場所に行っちゃったの?」
には後輩が壊したビデオデッキという理由をつけて。
(*この辺は別の拙noteもご参照頂ければ幸いです)

そうして漫画『カラオケ行こ!』を、現実世界の『カラオケ行こ!』にするため、矛盾や根拠不足を解消し、登場人物の存在・動機・言動を合理的なものとして再構築した映画制作陣が、単なる読者の私ですら一度は思い浮かんだ、
「宇宙人が助手席(聡実くん)を狙ったなら、宇宙人が生きてる限り、聡実くんは危険なんじゃないの?」
という疑問を、無視するわけが、無視できるわけが、なかったのです。


※ここでしっかり確認しておきたいのですが、矛盾があれば作品の価値が落ちるわけではありません。
ジョジョだって明らかな後付け設定山ほどありますし。それでも面白い。また野木先生ご自身も、シナリオブックのあとがきで「原作こそが至高であり我々は二次創作に過ぎない」と仰っています。
その二次創作が神なんですが……とは思いつつ、それを前提に本記事もお読み頂ければと思います。


……さて、ここから先は完全に想像ですが、映画の狂児は運転席に衝突された時、最初は宇宙人が『自分だけを狙ったのか、聡実くんがいたら聡実くんを狙うつもりだったのか』、判らなかったのかもしれません。
だからもしかすると、引きずり出した宇宙人に、直接聞きさえした可能性もあります。
誰を狙って突っ込んできた?と。
(目的を悟られないよう、訊き方に注意は必要だったでしょうが)
その時狂児は、回答によっては、宇宙人を殺さなくてはいけないと考えていたかもしれません。
だって、もし聡実くんを狙ったのだとしたら、宇宙人が生きている限り、聡実くんが危険に晒されるのだから。
例え宇宙人自身が二度と動けない身体になったとしても関係ありません。意識さえあれば、他者に加害を依頼する事だって出来るのですから。
しかしおそらく、映画の宇宙人は聡実くんの事はあまり眼中になく、狂児だけを狙っていた事が何らかの形で明確になったのではないでしょうか。
映画の宇宙人にとっては、「なんかカワイイのを見つけたのに狂児に取られた上ブン殴られた」程度の認識だったのかもしれません。深く考えなかったのが、彼にとっても幸運だった訳です。
宇宙人が運転席に突っ込んだからこそ、狂児は殺人者にならずに済んだ。
そこに選択の余地はありません。映画の懸念ないハッピーエンドに繋げるには、宇宙人は、『助手席を狙ってはならなかった』のです。

合理性を追求していくと、あるストーリーを選んだとき、必ず特定キャラクターが特定の行動を取らなくてはならなくなる事があります。助手席に突っ込まれていれば、限りなく現実世界のリアリティラインに即していた映画の狂児には、宇宙人を殺す以外の選択肢は無かったでしょう。

また逆に『宇宙人が聡実くんを狙っていなかった場合』、殺しまでしてしまうとそれはそれで損益が釣り合わなくなります。
本当に聡実くんが狙われていたなら宇宙人を殺す利益はあるでしょうが、聡実くん狙いではない宇宙人を『念のため』殺すことは、例え狂児自身が司法から逃れたとしても、それを知った聡実くんのショックや人生に落とす影の大きさの方が重いでしょうから。
なので、宇宙人の真の目的が誰であれ、狂児(と観客)に聡実くんが狙いだと『誤解される』リスクを避けるには、どう理由をつけても助手席は狙えなかったのだと思います。
狂児に宇宙人を殺させず、かつ暴行で済ますには、運転席に車をぶつけるしかなかった。
あの事故に関しては、それが唯一の選択と結果の組み合わせだったのではないでしょうか。

……と言って、もし聡実くんが乗ってたら危なかっただろ!って事で、自分狙いだと分かっていてもあそこまで血塗れにしたのなら、それも中々なキレ方ですが。
求められるリアリティ水準が異なるとはいえ、そう思うと原作の狂児が助手席に突っ込まれて暴行で済ませたのは、だいぶ優しい気がしてきました。
原作の狂児は狂児で、聡実くんが居なかったからまあ許すみたいな線引きがあったのかな。

なお原作の宇宙人が聡実くんを狙っており、その後生存していたとしても、聡実くんの身辺に危害が及ばなかった未来は確定しています。
高校三年間を無事過ごし大学生になった聡実くんが『ファミレス行こ。』で確認できるからというのもありますが、だって『和山やま世界の焦点はそこじゃない』んですもん。
原作の宇宙人は改心したのかもしれないですしね。

■ソプラノではない『紅』の意味――映画の聡実くんが捧げたもの

ふたつめのこれは先日独立して別noteにて解説してしまいました。お手数ですが下記ご参照頂けますと幸いです。


■つかない煙草の意味――『ハートに火をつけて(Light My Fire)』

みっつめは、冒頭とエンディング後の狂児の煙草についてでした。
もはやお決まりのパターンですが、最初と最後にのみ狂児の喫煙描写(未遂含む)が出てくることについて、私は最初ぼんやりとこのように考えていました。

「最初に火のつかない煙草が出てきて、最後に火のついた煙草が出てきたってことは、聡実くんがお兄ちゃんになったってことかな……。中学生の前では煙草吸わなかったけど、聡実くんがもう煙草吸ってもいいくらい歳月が経ったことを表しているのかな。」

……しかしこれも、後から思えば大ハズレ野郎でした。確かにNEW MINAMI HOTEL OSAKA(*上映期間中の公式クイズのためフルで記憶しました)は完成まで三年か四年かかると栗山くんが言っていてですね、ラストシーンでまだ建設中なら三年くらいの月日が経って聡実くんが大学生になってると考えられますけどね、
大学一年生(18歳)は、まだ20歳(喫煙可能年齢)ではないんですよ………。
そりゃ2022年4月1日以降から18歳は『成人』にはなりましたけど……!!どっちみち喫煙可能年齢ではないですし……!!!

じゃああの煙草はどういう意味なのか? まあ聡実くんが『成長した』という意味では、間違いでもない気がするけど……。
それに気付いたのは確かやっぱり成田狂児大生誕祭の時でした。一日三回くらい見たはずなので、運転席とは別の回で気付いたのかもしれません。
最後のスタッフロールが流れ、ぱっと切り替わったスクリーンに狂児の腕の『聡実』と火がつき煙たなびく煙草が映った瞬間、再び心に雷が落ちました。

「すっっっごい簡単な暗喩じゃん………。これ、そのまんま、『ハートに火がついた』ってことじゃん………。」


引用:https://lyrics.lyricfind.com/lyrics/the-doors-light-my-fire-1

『ハートに火をつけて』― Light My Fire, The Doors
言わずと知れた、ドアーズの大ヒット曲です。めちゃくちゃ有名なのに、曲は知らずとも知らない人はいないフレーズだろうに、なんで20回も見て気付かなかったんだ………。(*和訳は翻訳や検索を適宜ご利用ください)
おさらいするまでもないですが、冒頭の演出と比較すると……。市民ホールで森丘中学校の合唱に出会う前の狂児は、(直接原因は雨に濡れたせいですが)煙草の火をつけようとしても、つけることが出来ませんでした。
しかし曲リストをもらい、屋上があり、紅を経てエンディングのさらにその先に辿り着いた狂児は、既に火のついた煙草を『聡実』の刺青が入った右手に掲げています。

ああ……。冒頭ではついていなかったハートの火が、ラストシーンではもうついてるって事なんだね……。

そうして通算3回目の雷に打たれたところで、深い納得に沈みながら、私の成田狂児大生誕祭は終わりました。

■終わりに:どれもすごく明瞭な映画『カラオケ行こ!』の演出。気付かないことで先入観や思い込みに気付かされた。

ここまで別記事含め3つの演出あるいは暗喩を追ってきましたが、基本的に映画カラオケ行こ!内のそれらはどれも明瞭で、難解な読解や暗号のような考察を必要とするものではありません。
実際、作中ではしつこい程にわかりやすく「愛」が語られ、これは愛の物語だということを全編で叫んでいます。それらに逆張り的な解釈はちょっと馴染みません。(ももちゃん先生、映画カサブランカ、鮭の皮、紅の和訳……等)

しかし、それでも10回や20回以上鑑賞を重ねるまで私がこれらに気付けなかったのは……。
なんか、「もっと純粋な目で世界を見ようよ」と、あのピカピカして輝かしい映画世界に言われているようで、ウッ…と胸に矢が刺さったような気持ちに少しなってしまうのでした。
心の瞳でみつめるべきってことなんですかね……。

同時に映画『カラオケ行こ!』の制作陣の、プロとしての瞳のクリアさが伺えるようです。心の視力、10.0くらいあるんだろうな……。
ここまでお付き合い頂き、誠にありがとうございました。
また目から鱗が剥がれた時には、文章にしたいと思います。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?