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【ミニ小説】 ヴェネツィアのトレヴィーゾ 〜Racconti italiani イタリアのほんの小さな出来事〜

狼男にスーパーマン、男装の麗人に女装の……ともかくこの車両は異常だ。ダ・ヴィンチの絵画にあこがれてミナがイタリアに来てから3カ月。トレヴィーゾに来たついでの観光にと乗ったカーニバルへ向かう列車は、もう異次元の世界だった。

前日に見学したヴェネトの特産野菜トレヴィーゾの生産者は、絵に描いたように誠実な生活を営むイタリア人ファミリー。そのファミリーが栽培するトレヴィーゾは「冬の華」と呼ばれる美しい野菜だ。畑で栽培したものがそのまま売れるのではなく、アルプスの雪解け水を引き込んだプールで、中心部の葉が白く肉厚に成長するのを待って出荷される。美しさは基の白さと葉先の赤紫の色のコントラストから生まれ、サラダに、グリルに、リゾットにと応用範囲の広い、北を代表する高級野菜だ。

美術館の学芸員をしているミナが海外研修でミラノを選んだのは、ダ・ヴィンチが最も幸せだった時代を過ごしたミラノの空気を感じたいと思ったからだ。ダ・ヴィンチにひかれたのは、『モナリザ』でも『白貂を抱く貴婦人』でもなく、『洗礼者聖ヨハネ』を見たからだった。とても聖人を描いたとは思えない、とてつもなく人間臭い顔。あのレオナルド・ダ・ヴィンチが、一説には盗み癖のある弟子のサライをモデルにしたともいわれている。晩年のダ・ヴィンチが、なぜ聖人らしくないヨハネを描いたのか。清らかすぎて脂臭が抜けたような宗教画の中、別次元のこの絵は、ミナの心に焼き付いて離れなかった。

ミナをトレヴィーゾの生産者見学に誘ったのは、美術館ばかりまわっていて日常のイタリアに興味を示さない彼女に「それはちょっと違うよ」と言いたかったから。だっていくら至高の芸術家でも食べるものは食べていたし、それが彼らを支えていたはず。暗黒のの中世だって、修道院の中ではしっかりとワインやチーズが伝承されていた国なのだから。「食を見ずしてイタリアを語るな」である。

ミナを連れて行った生産者は、そろそろ終わりかけのトレヴィーゾの出荷作業中だった。農場主の息子が畑、栽培プール、下処理の様子を丁寧に説明してくれる。イタリアの生産者が親切に見学者を迎え入れてくれるのは、きっと自分たちの仕事に誇りを持っていて、アピールするのがうれしいからなのだろう。
見学中は気乗りしなさそうだったミナの目が、事務所に通された途端、急に輝き始めた。「あのー、この衣装、ヴェネツィアのカーニバル用ですか」壁に掛けられている赤紫の豪華な衣装と、同じ色の角が沢山ついてる布製の帽子を見た時だった。「あ、そうですよ。うちはトレヴィーゾの生産者だから、そのイメージで作った衣装です。これに仮面をつけてカーニバルに行くんです」「あら、見たいわ」……そこからの話がどうなったのかは知らない。夜の列車でローマに帰らなければならなかった私は、彼女を残して出発してしまったのだから。彼女が帰るのはミラノなので、遅くまで列車はあるはずと。

狼男たちのひしめき合う列車から、観光客然とした普通の格好のミナがヴェネツィア駅に降りた時にはもう夕方になっていた。トレヴィーゾ農場の息子ジョヴァンニと待ち合わせをしたのだが、姿を見つけようと駅前の広場に出た途端、列車を降りる人と歩いている人の作る流れに巻き込まれて、引き返すことなどできなくなっていた。

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750字
西欧の神話にはオリーヴ、月桂樹、アーモンド、小麦などがシンボルとして描かれていて、どんなストーリーがあるのか。 リゾットの歴史と地方性やニョッキはどこから来たのか。 そして過去に書いたエッセイなどを掲載します。

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