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暗闇のマリア(習作『暗闇の丑松』より)#004 我慢

#004 我慢

「しかしお前はいい女だなあ」
「何するんですか!」
 徳さんの手が胸にねじ込まれた。
 普段、絶対そういうことをしないチーフの徳さんがそんなことをするなんて思ってもみなかったので油断した。
 手当たり次第にそこらにあった物を徳さんにむけて投げたので、たまらず徳さんは部屋の奥に追い詰められた。
「ごめんごめん、出来心だよ。そんなに怒らないでくれよ」
 いつもならもうちょっとうまく逃げられるのに、自分でも自分がどうしちゃったんだろうと疑問に感じた。今夜は嫌な予感がして落ち着かないのだ。また甘くて焦げた匂いがした。
「俺がこんな事したのをオーナーには秘密にしといてくれよ、誠にもな。すまんすまん、ほんのつい出来心なんだ。そうしてくれれば、また俺がお前の味方についてやるから」 
 女は弱みを見せると際限なく落とされる。手を出せる女だと思われるから、こんな目に合うんだ。早く誠に来てほしかった。
「誠待ってるのか?」 
返事はしなかった。
「信じられるのは誠だけか、羨ましいことだね。しかしオーナーも誠が帰ってくるの見ておいてくれとか、こっちを見張れとか、お前のことをどうしようって言うつもりなのかね?」
 ガシャーン!下から食器の割れる音がした。「どうした?何があった」
 徳さんが階段を駆け下りた。

 静かになった階下から荒い息が聞こえてくる。
 怖くて扉を開けて下を見ることができない。 
 何が起きたか、なんとなく分かっている。 
 見たくない。

 少し足を引きずって階段を上がってくる音がする。
 扉の向こうに多分誠がいる。
 ドアのノブが回った。
 血だらけの手が反対側のノブをつかんでいた。
 見上げるのが嫌だった。
 でも見上げるしかできる事は無かった。
 やっぱり、その血だらけの手は誠の左手だった。

 一本一本包丁から指を引き剥がした。
 誠は私が渡したペットボトルの水を、一気に飲み干した。

 誠はそういう我慢ができないタイプだった。私は何を言われたって平気なのに、誠は道理に合わないことが許せないのだ。そしてやり過ぎてしまう。
 なんでこんな事したの?という言葉は出せなかった。下の様子は見てないけど、大体は想像できた。
「人殺しになっちゃったよ。」 誠の血走った目は中空を見つめたまま、突然こう言った。
「マリアは何もしてないんだから、ここから今すぐ逃げろ。何も関係ない顔して。幸い誰も見てない」
「そんなことできないわよ、誠置いて逃げるなんて」
「大丈夫だ。俺は自分の事くらいなんとかする。お前は四郎の兄貴のところに行ってかくまってもらえ。何食わぬ顔で普段通り過ごしてりゃいいんだ。四郎の兄貴に任せておけば絶対大丈夫だ。事情は分かってくれる。」
 誠は私の方を見ず、手ぬぐいで手についた血をずっと拭き取っている。
 私は外につながる窓を開けて街の様子を見てみるが、今夜もこの街は何も変わらない。どこかの店から嬌声が響いている。
「誠はどうするの?逃げるの?」
「逃げる。あいつらのせいで人生棒に振るなんて嫌だ」
「じゃ私も一緒に逃げる。誠となら逃げ切れる気がする。誠死んじゃうつもりじゃないよね」
「いいやダメだ。必ず迎えに行く。四郎の兄貴は、俺がつらい目に遭ってたことも一番分かってくれてた人だ。お前一人のことくらいなんとかしてくれる」
「じゃこの窓から屋根伝いに逃げようよ。死んだらダメだよ。」

 誠がうなづいた。
「分かったよ、手を貸せよ」
 誠が綺麗に血を拭き取った手で私の手を血の気が引くくらい握った。
「いざという時が来たら、俺の手をぎゅーっと握れ。俺もお前の手を握るよ」
「分かったよ。そうするよ」
「もし二人が死ぬ時にはそうして死のう。俺たちはずっと一緒だ」
 私たちは二人手をつないで二階の窓からとなりの屋根に出た。
 不安定な屋根で私は足を滑らした。
 すると誠は私の肩を抱いて支えてくれた。
 誠は何も言わず暗闇の中の遠くを指さした。

第1幕 了