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暗闇のマリア(習作『暗闇の丑松』より)#010 躓き

#010 躓き

「人殺し…俺やっぱ人殺しなんですよね」
誠はそう言って目線を落とした。

 この躓きから逃れるにはどうしたら良いの?放っておけば、この子は四郎のところに行くに違いない。そうしたら私はどうなるの?四郎に何かあったら、私ってどうなるの?
 えっ?もしかしてこれって躓きじゃなくてチャンスなの?
 この子が四郎を殺っちゃったら、今あるものは私のものになるの?
 あのマンションも、あの車も私のもの?
 どっちが得なの?
「仕方なかったっての、私は分かってるよ。でも普通の人のすることじゃない。闇に落ちちゃうよ。」
 止める?止めない?
 私はぐっと誠を抱きしめた。
「マリアの敵討ちするのかい?」
「敵討ち?」
「四郎を殺って敵討ちするのかい?そうすりゃ気が済むんだろ?」

 私は着ていたシャツから両腕を抜いた。ラ・ペルラが血の色を想像させた。
 身体を使って凌ぐ。私は、そんな馬鹿な方法しか知らない。どんな男とだって、こうやって乗り越えてきた。私のような女は、これしか無い。
「敵討ち、古い言葉っすね」
 誠は中空を見てそう言った。
「そうだね、昭和だね」
 誠からも獣の匂いがした。獣と獣。私の体の奥がぐっと締まった。
「四郎さんをかばうんですか?」
「かばってなんかいないわよ。かばうだけでこんな気になれないわよ」
誠を味方にするんだ。そう思ったらいつの間にか私は誠にすがりついていた。私もやり方が古い女だね。
「お前、俺のことが怖くなって、その手で助かるつもりなんだな」
「お前って誰よ、私のこと?」
 誠の汗が一度に冷えた気がした。誠の肌はザラザラとした鱗で覆われた蛇のようだった。悪寒を感じた私は、誠の胸に差し込んでいた手を反射的に引いてしまった。
「俺、分かりましたよ。今、ようやく、ちゃーんと分かりました。女のこころなんて、みんなそうなんだ。眼の前の強い男に抱かれて、己が助かりたい。マリアもそうだったんだ。」
 その時、左の腰がぐっと暖かくなった。
 その熱はだらっと腰から内ももを伝って広がった。その温かい部分に目をやると、私にはぴったりの真っ黒い血が大きくどろりと広がって垂れていた。左腰には誠の拳がぴったりつけられていて、今、脈々とそこから新しい血が流れ出始めていた。その血の色はびっくりするほど鮮やかな赤だった。私にもこんな綺麗な血が流れてるんだと思ったら、ちょっと救われた気がした。
 誠が拳を私の腰から離すと銀色の鈍い光とともに、ナイフが私の腰から生えてきた。その先は、すうっと細くなるとなんの抵抗もなく抜けた。
「俺はそれが憎い。女のその汚え所が憎いんだよ。あーたまらねえ。マリアだって結局そうだったんだからなあ」
頭をかきむしる誠が見えたと思ったら視界から消えた。

 目の前に震える誠の足元があった。
 結局、つまづいっちゃったな、私。やっとここまで上り詰めたのに。上り詰めたっていうのかな?もしかしたら違うか、四郎についていればセレブになれるって思ってたのになあ。初めて成功してる人の集まり見た時に、私もこの中のひとりになりたいって、いつもこういう場にいられる様になりたいって。きらびやかな世界にいられるようになったと思ったのになあ。

 私が最後に見た景色は、誠がまた玄関を出て走ってゆく後ろ姿だった。

第3幕 了