格差社会の原因と処方箋:  「階級「断絶」社会アメリカ」(チャールズ・マレー(著)2013

この本は、橘玲のベストセラー「言ってはいけない」のネタ本。本の主旨と、私の意見をメモにしておく。

最近なにかと話題の「格差」は、「知的能力」の差異により生じる。
ちょっと直球すぎますが、個人の実感とも符合する。

・・・ 最近の高額所得者は、頭が良い方々。

新上流階級は、知的能力が高いことを特徴とする。概ね高学歴の両親のもとに生まれ、一流大学や大学院を卒業し、同類の配偶者と結婚し、特定の地域に住み、週末に山や海に行き、食事に気を使い、肥満は少なく、子供の教育に熱心で、新聞を読むがテレビを見ず、仕事やプライベートで世界中を飛び回る。経営者、技術者、法律家、科学者、学者、会社幹部、行政の高官、ジャーナリスト、コンサルタントなど、情報処理を仕事とする「頭脳労働者」である。

新上流階級となるために必要な「知的能力」は、遺伝により決定される割合が高いため、近年の50年+で「階級」として固定化されつつある。

リベラルが主張する教育機会の均等化・無償化で、この問題は解決できない。これは、知的能力が遺伝によりかなり決定されてしまうという、生物上の特性に起因する。橘玲の「言ってはいけない」においては、教育により改善できる知的能力が、相対的に小さいことも論拠をもって指摘される。遠い将来では、数学力、記憶力、言語能力などを改善するテクノロジーができると解決するのかもしれないが当面は難しい。

また、社会主義的な政策である所得の再分配政策によっても、この問題の解決は難しい。新上流階級は高い税制の国を単に避ける行動をとることができるため、世界の別な地域で仕事ができるインフラをすぐに手に入れる可能性が高い。

私見:中国でも同じ現象は起きているはずだが、比較的うまくコントロールしている可能性がある。エリートを強制的に自国の利益に縛り付け協力させる一方で、低所得層や被差別民などが社会不安を起こさぬようにウイグル人や農民戸籍の国民を力で抑え込むみ、メディアもコントロールすることで、この問題に起因する国民の分断を防いでいる。自分は決して住みたくないし、日本に生まれてよかったのですが・・・。

話を戻すと、マレーによれば、米国の建国の美徳は、勤勉、正直、婚姻、宗教の4つであった。

米国の低所得層では、いずれの4要素も崩壊しつつある。失業が増え、就業時間が減少し、勤勉に働く機会を得られなくなっている。犯罪も増加し、婚姻も減少し、宗教も大幅にその役割を減じている。一方、高所得層では、これらの4要素が、現在にいたるまで維持された状態となり所得階層が世代にわたって固定化されるなかで、孤立している。

生計を立てられない男性+母子家庭+コミュニティから孤立している人の割合:下位30%のうち35%+。 非常に多い。

私は「社会からの孤立。」というキーワードは、少し身につまされる。

まあまあ安定した収入もあるし、妻も子供もいるが、年齢を重ねるごとに孤独感を感じる今日この頃。友人やご近所さんと、連絡を取ることも減少している気がする。これから、ますます子供も大きくなり、みんな独立していく中で地域のコミュニティとの関わりは減るだろう。できるだけ引退しないことが解決策かな・・・。

配偶者との関係は、今後どうなっていくのであろうか? 趣味も意見も少し異なる我が家。子育てという共同プロジェクトが終わりつつあるいま、二人で生きていくための新たな価値を見つける必要があるかもしれん・・まあ、格差社会の問題ではない贅沢な悩みなのだろうか・・・

格差社会の解決策について本書の結論。
マレーは、リバタリアン。ヨーロッパ型の福祉国家を目指すべきではないと言う。ヨーロッパの福祉国家は、自尊心、他社との親しい関係、自己実現を見つけられない政策と喝破する。福祉国家政策では、仕事は自己実現の場所ではなくなり、自尊心を得られる場所とならず、家族や夫婦の関係すら阻害する。人生における挑戦ややりがいを減らす政策である・・と。

彼の結論は「アメリカン・プロジェクト」への回帰である。勤勉、正直、結婚、信仰が、その実現のための根幹となる美徳となる。

「アメリカン・プロジェクト」とは「建国の父たちの理念に基づいた国民生活のこと」「人々が互いに傷つけあうことの無いように抑止するが、それ以外では、人々がそれぞれ自由に勤勉と向上を図ることができるようにする(略)それが良い政府の心髄。」(トマスジェファーソンの第一次就任演説。

「必要なのは、政府援助ではなく、守ろうとしている価値観や道徳規範を認めること、それでいいのだと後押ししてくれる力である。」

「多くの人が、とりわけ新上流階級の人々が自ら実践していることをほかの人々にもすすめればいい。」

「アメリカの例外主義は、想像の産物ではない。建国の父たちが築いた制度によって生み出された文化資本の産物である。 == 「人には自分にふさわしいと思う人生を生きる自由があり、同時に自分の行いが招いた結果は責任があると主張する制度」「人を本人の行為から守るのは政府の仕事ではない」と考える制度」。

マレーが最後に書くのは、「新上流階級の人に早く気付いてほしい。豊かな暮らしは快適だが、よくよく考えてみると、もっと実りのある、そしてもっと愉快な生き方がある。それは山あり、谷ありの人生を送ることであり、山あり、谷ありの人生を送っている人々の中に自分も身をおくことである。」

マレーは、なかなかの熱い男である。この最後の部分には、非常に共感する。勤勉は正しく、挑戦しない人生は面白くない、失敗することのない人生もつまらない。

 一方、勤勉であることを他人にも勧めることの是非は難しい。わたしは子供には強く勧めてしまう。妻は、この点は快く思わないようである。

会社では、もっと難しい問題となる。説得して行動を変えられる相手は多くない。まあ、簡単に解決できないから大きな問題として残っているのは、当たり前か・・・!

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