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仏教とインド映画

  ── 人は、見たいものしか、見えない ──
大天竺。悠久の国。喧騒と混沌の世界。
仏教への関心からインドを訪れる日本人の多くが、つい見落としてしまう‥‥或いは故意に目を向けようとしない‥‥ことの一つに、
《現実のインド民衆は何を楽しみとしているのか》
がある。敢えて言ってしまえば、そもそもそのこと自体に興味が無いのだ。あくまで日本人にとっての仏教、漠然とした〝お釈迦様のイメージ〟など、いわば「日本製の窓枠」からインドを覗いてみたい、というだけである。
勿論それは間違ったことではない。忙しい生活から資金と時間を捻出し、はるばる6000キロも旅して行くのだ。消費の当事者として、関心の幅まで他人からとやかく言われる筋合いはなかろう。だが、いや、だからこそ、見落としたり目を向けないでいたりするのは〝損なやり方〟ではないだろうか?
かく申す私も、1992年に初めてインドを訪れた時は、そうだった。そして現地の青年から聞かされた言葉に、横っ面を叩かれた気がした。
「ブッダもいいけどボリウッドを見ろ。見なきゃインドは分からないよ」
ボリウッドとは、ボンベイ(現ムンバイ)で製作されるインドの娯楽映画を指す。米国映画産業の向こうを張り、ボンベイ+ハリウッド=ボリウッドだ。
インドが、年間数百本もの製作数を誇る〝映画大国〟であることは、今さら言うまでもない。映画館のチケット代も安く、庶民から最も親しまれている大衆娯楽だ。しかし92年当時の私は、そんな基礎的知識すらも無かったのである。
帰国後、あらゆる手段で情報収集に努めた。何しろユーチューブもDVDも存在していなかった時代である。ようやく、在日パキスタン人が経営していたコピーVHSの取り扱い店を探し当て、店主から勧められるままに何本か見てみた。アンダーグラウンドゆえ、三倍速録画の最低画質ではあったが、脳天に稲妻が落ちるような衝撃を受けた。
「こ、これが、インド人の‥‥お釈迦様の国の、娯楽なのか?!」
徹頭徹尾ご都合主義のストーリー展開、くどい演出、庶民階層とは似ても似つかぬ色白な美男美女、唐突に始まる歌と踊り、冗長な台詞、血塗れの暴力シーン、そして無理やり丸くおさめるエンディング‥‥‥‥。ただただ呆気に取られるばかりだった。
しかし、初めてのインドでヒンディー語習得の必要性を痛感していた私にとって、その当時のボリウッド俳優は台詞の滑舌も良く、口跡も明瞭だったため、聞き取り教材には売って付けであった。それからは、まさに〝取り憑かれた〟かのように、片っ端からボリウッドを見まくった。
また、自分なりにインド文化を学んでいくに連れ、かの国の娯楽映画には、伝統的な古典演劇に由来する「ナヴァ・ラサ(必ず入れなければならない9つの情感)」があることを知った。
①恋 ②笑い
③涙‥‥日本の浄瑠璃でも定番の「子別れ」「母もの」が一般的。お釈迦様の伝記も生母摩耶夫人との死別から始まる。
④戦闘 ⑤恐怖 ⑥驚き
⑦強烈な敵役の存在
⑧仇討ち ⑨大団円
ざっと見ただけでも、日本の大衆芸能のルーツはインドにあったことが分かるだろう。また、仏教関連で云うなら、ブッダの伝記で「強烈な敵役」となるデーヴァダッタ(提婆達多)はブッダの従兄に当たるとされ、この〝兄と弟の確執〟という設定は、ヒンドゥー教の叙事詩『マハーバーラタ』の軸にもなっている。
インドの民衆は、日々、差別と貧困にあえいでいる。そんな彼らにとって、安い料金で長時間いられる映画館の暗がりは、炎熱の現し世から逃れた別天地であり、そこに繰り広げられる豪華絢爛な物語世界は、かりそめの極楽浄土を幻視させてくれるものなのだ。
例えば、古くから日本でも親しまれた『観音経』に説かれる非現実的で荒唐無稽な「御利益」の数々も、それらがインドで求められた背景には、銀幕の主人公の超人的活躍に希望を託す民衆の心情に近いものがあったと考えれば、すんなりと頷けるはずだ。
あの日の青年の言葉、
「見なきゃインドは分からない」
とは、そういう意味だったのである。
 ‥‥数年前、ナーグプールの佐々井秀嶺師の居室にて。
師は若いころ労働者と一緒に汗を流しながらヒンディー語を学んだという。
「お前はどうやって覚えたんだ?」
と佐々井師。私が「ボリウッドで覚えました」そうお答えすると、
「はっはっは、映画かあ。俺もインドの映画は好きだぞ。役者は誰が好きか?」
予期せずボリウッド談義に花が咲いた。
そこへ、ひとりのお婆さんが入って来た。師と私の会話は日本語だったが、ところどころに有名な俳優の名前が出てくることで〝映画の話題だ〟と気づいたお婆さんは、いきなり歌をうたい始めた。かつて全インドで大ヒットした映画の挿入歌だ。
佐々井師は私に言った。
「この人はな、むかし立て続けに七人も家族や子供を亡くしたんだよ。それでちょっと心の病気になり、親戚連中が俺のとこへ連れてきた。加持祈祷で治してくれ、というわけだが、俺は拝み屋じゃない。気の済むように祈ってやった後、
〝マーター(母上)が好きなものはなんだ?〟
と聞くと、映画だ、と。だからこう言ったんだ。
〝いいか?今日からなんでもいいからボリウッドを毎日見させろ。お金がなくなったら私が出してやるから〟
本人にはこう言った。
〝とにかく毎日映画を見なさい。そして挿入歌とあらすじを覚え、ここへ来て、そっくり私に伝えなさい。その後でまたお祈りしてあげるから〟
それからこの人が何百本見たのか知らんが、だいぶ快くなったんだよ。まぁ、もともとの映画好きだけは、今でもぜんぜん治っとらんがな。はっはっはっ」
果たしてこれに医学的根拠があるのかどうか私には分からない。しかし、最下層民衆の心のヒダに深く分け入り、泣き笑いを共にしてきた佐々井師ならではの〝処方箋〟だったのだろう。
 インド映画と大乗仏教は、同じ風土から生まれてきたのである。

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