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もう一人の『マニカルニカ』

 2020年正月、期間限定で日本公開されたインド映画『マニカルニカ/ジャーンシーの女王』
撮影の途中で一部キャストの降板や監督交代といったすったもんだを乗り越え、世界50カ国3700台のスクリーンで公開された本作は、国際的にも高い評価を得た歴史大作です。
物語の舞台となるのは「インド大反乱」。すなわち1857年から58年にかけてインド各地で起きたイギリス植民地支配に対する抵抗運動 (旧称:セポイの乱)です。この反乱において、インド北部ジャーンシー藩王国の女王ラクシュミー・バーイーは、圧倒的不利の中みずから前線へと赴き、英国軍を相手に怯むことなく戦いました。バーイー(बाई)とは「姐さん」の意味。それが、本作の主人公「マニカルニカ」なのです。
〔※四月上旬、株式会社TWIN様 https://www.twin2.co.jp/ からDVD&BLD発売。〕

 この史伝には、もう一人〝女傑〟が登場します。
ジャルカーリー・バーイー。(झलकारी बाई)
幼少より武芸に秀で、女王の忠臣として反乱軍に加わった彼女は、戦況分析や戦略献策の面でも類まれな才能を発揮し、敵を翻弄しました。
ところが長い間ジャルカーリーの存在は一般的に知られていませんでした。なぜなら、彼女の出自が被抑圧階層(ダリット)だったからです。女王ラクシュミーのため勇敢に戦った彼女ですが、その活躍はいわゆる「不可触民」コミュニティの中で語り継がれていたのみで、歴史家からはほとんど無視されて来ました。しかし近年、差別撤廃運動の一環としてジャルカーリーを顕彰する共同研究が実施され、その功績はおおやけに認められました。その後マディヤ・プラデーシュ州に記念像が建立され、2001年には、インド中央政府が彼女の記念切手を発行しました。

 1830年11月22日。ジャルカーリーは、ジャーンシー近郊の村に生を受けました。母は彼女を生んで間もなくこの世を去り、父は男手一つでひとり娘を育てました。
家庭は貧しく、身分は村の雑役に従事する「不可触民」のコーリ族だったため、学校に通わせることは出来ませんでしたが、 父は娘がまだ幼い頃から武器の扱い方を教え、馬を乗りこなす術を覚えさせました。
そんな〝一風変わった〟父の教育方針もあってか、ジャルカーリーは少女時代からカースト差別をものともしない「スーパーガール」ぶりを発揮していたようです。或る晩、村に住む商人の家が盗賊団に襲われた時、たった独りで賊を追い払い、一躍その名を近隣に知らしめました。ところが、いつの間にかこのエピソードに尾ヒレが付き、棒きれ一本で豹を撃退した・森の中で虎に襲われたら素手で殴り殺した‥‥等、インド人お得意の〈盛り〉も足されていきました。
年頃になったジャルカーリーは、同じカーストの青年と結婚します。女王軍の砲兵隊に勤める夫は優しく生真面目で、二人は貧しいながらも幸せな家庭を築きました。そんな或る年、聖牛祭の下働きで登城した彼女の姿が、女王ラクシュミーの目に止まります。
「あれは誰ぞ?わらわに鏡写しではないか」
側近に尋ねると、前述のような武勇伝が報告されます。身分が「不可触民」であることも明かされましたが、ラクシュミーは意に介さず、すぐに正規軍への登用が決定しました。その恩に報いるかの如く、ジャルカーリーは瞬く間に昇進していき、自分の部隊を率いるまでになりました。

 やがて「インド大反乱」が起きます。
1857年、ジャーンシーの砦はイギリス軍の猛攻を受け、窮地に追い込まれました。捲土重来を期して女王を脱出させるため、ジャルカーリーは奇策を思い付きます。自分が、女王にそっくりなことを利用して、替え玉作戦に打って出たのです。騎馬隊を率いて敵の眼前まで突入し、馬上から大音声で名のりました。
「われこそはジャーンシー国王ラクシュミーである!将軍殿との直談判に罷り越した!」
作戦は見事に功を奏し、前線は大混乱。敵軍は約一日の間、機能が麻痺。この時間稼ぎのおかげで、女王は無事に生き延びました。
〔※映画のジャルカーリーは替え玉が見抜かれて凄絶な爆死を遂げますが、史実では1858年にイギリス軍によって絞首刑・あるいは拘束され1890年に解放された後に衰弱死、とされています〕

 ところで、ジャルカーリーの物語には、インドの社会通念から見て〝不可解な〟点があります。それは、彼女が女王によく似ていた、ということです。
いわゆる「不可触民」の娘ジャルカーリーと、アーリア人の血が濃いブラーマン(波羅門階級)の娘マニカルニカ=ラクシュミーでは、カーストをあらわす〝वर्ण (ヴァルナ。肌の色)〟がはっきり違ったはずなのです。しかも肌の色だけでなく、体格も異なっていたはずです。
 この謎を解く鍵は、ジャルカーリーが属した「コーリ族」にあります。
コーリ族はインドの中央および西部地域に蟠踞し、ヒンドゥー教コミュニティの最下層に置かれていました。沿岸部では主として漁撈(ヒンドゥー教では〝殺生〟と見なされる)に従事し、内陸部では村の雑役や牧畜の下働きを血統世襲しました。15世紀の記録によると「略奪や殺戮を事とする部族」という一面もあったようです。
しかし、そんなコーリの先祖は、シャーキャ(釈迦)族と姻戚関係にあったコーリヤ族に繋がると言われ、もともとのカーストはクシャトリヤ(武士階級)だったようです。シャーキャとコーリヤはそれぞれ血統純度にこだわりを持ち、いにしえより両族間に限って婚姻を結んで来ました。しかも、両族とも人種的にはモンゴロイド系に近く、肌の色はあまり濃くなかったと考えられています。日本人に親しみのあるところで云えば、コーリヤ族首長の娘マーヤー(摩耶)はシャーキャ族に嫁いでシッダールタ(お釈迦様)を生み、妹プラジャーパティ(波闍波提)が乳母となりました。
 では、なぜ武士階級コーリヤ族の末裔が被差別民にされたのでしょうか?
それに関してはアンベードカル博士(インド憲法起草者・仏教復興運動指導者)が興味深い仮説を立てています。
「先住民族だけではなく、戦争で負けた国のクシャトリヤも、奴隷として使役された」
つまり、ヒンドゥー教における被抑圧階層(ダリット)のルーツには、武装解除されて社会の底辺へ追いやられた〝敗軍の将兵〟もいたのではないか‥‥と。なるほど確かに、国の経済を安定させ維持・拡大していくためには、労働資源の確保が第一です。
そして、コーリヤ族と親密な関係にあったシャーキャ族はブッダの晩年、隣接する大国コーサラ(現ウッタル・プラデシュ州)から侵略を受けて滅びた、とされています。

以下は私の推測です。
《コーリヤ族は、姻戚で同盟国だったシャーキャ族と命運を共にし、強者によって最下層へ押し込められた。彼らは文字通り〝地に伏して〟生き延び、その血統純度への誇りは、皮肉にも身分制によって保護(?)され、アーリア人と見紛う肌の色をコーリ族の中に残した。また、元武士階級ならではの身体能力や武技は、一部の「略奪や殺戮を事とする」者らにも受け継がれた》と。
このような視点に立てば、雑役夫だったジャルカーリーの父がひとり娘に武器の扱いや馬術を仕込んだことも、辻褄が合うように思われます。

 お釈迦様を生んだ摩耶夫人の末裔が印度独立のために戦った、と考えるのも、歴史ロマンとして許されるのではないでしょうか。
最後に余談ですが、ジャルカーリー(झलकारी)とは、FLASH BACKの意味なのです。

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