見出し画像

生命の鼓動〜『世界はリズムで満ちている』

 原題『SARVAM THAALA MAYAM』、英題「Madras Beats」(2018年)。
昨年、東京国際映画祭にて上映されたタミル語映画の名作です。
南インドの太鼓:ムリダンガムを作る職人の息子ピーター・ジョンソンは、太鼓の作り手から演奏者への転進を夢見ますが、血統世襲の職業別階級制 〜जाती(ジャーティー)。いわゆるカースト〜 の壁に行く手を阻まれます。しかし、天性の音楽的才能と一途な情熱はその壁に小さな穴を開け、ムリダンガムの巨匠ヴェンブに弟子入りを許されます。ところが、先輩弟子らの野心に足もとを掬われ、一門から追放されてしまいます。失意の中、看護師の恋人サラに背中を押されたピーターは、インド各地を放浪する旅に出ます。そこで出会った人々に息づく〝リズム〟が彼を新たなステップへと導き、そして──。

 『世界はリズムで満ちている』
この感動作が、東京都荒川区の南インド料理店なんどり様の御尽力により、日本語字幕付きのDVDとなりました☆是非ともお求め下さい!

 さて、本作に関して、音楽の側面からアプローチした文言はいくつか拝見しておりますが、この物語の背景にはインド社会に今も根強く残る身分差別があります。その点を見過してしまっては、台詞の随所に散りばめられた嘆きや憤りなど《人間のBEAT》が充分に伝わって来ないのではないか?と私は考えました。そこで、インドの被差別民衆と浅からぬ縁のある立場から、少しばかり解説を試みたいと思います。

 主人公ジョンソン一家は南インドの改宗キリスト教徒という設定です。民族的には、北部のアーリア人と混血の度合いが少ないドラヴィダ系。それについては、巨匠門下の兄弟弟子とピーターの〝肌の色〟の違いでヴィジュアル化されています。
ところで、主人公一家はインド人なのに、どうして英国風の姓名なのでしょうか?その理由は、改宗( ≒ 洗礼)にあります。インドには、ヒンドゥー教のカースト差別から逃れるため人間平等を説くキリスト教やイスラム教、仏教に改宗する被抑圧階層(दलित/Dalit。いわゆる不可触民)が少なくありません。しかもヒンドゥー教の社会では生まれついての苗字が身分を表すことが多いため、改宗に際して改名するわけです。

 では、音楽芸術に携わる太鼓職人が、どうして「不可触民」なのでしょうか?
インドの伝統では古典芸術と大衆芸能の間にカーストの壁があります。前者はブラーマン(神官階級)が司るARTですが、後者はパーリヤ(被差別階層。路上の太鼓叩き)のART。古典芸術としての音楽は「神(かみ)」に捧げる調べですが、大衆芸能としての音楽は「民(たみ)」と分かち合う鼓動なのです。しかしながらこの二分化は、信仰と階級が一体化した社会では〝聖と俗〟の間に線を引き、宗教的な〝浄穢の忌み〟によって、両者を隔てます。
ましてや、太鼓づくりには動物の皮が必要です。ヒンドゥー教における〝穢れ〟は生き物の死・血・分泌物から発生すると信じられ、それらに接触する職業は社会の最底辺に押し込まれました。動物の死と血に関わる皮革加工業(チャマール)や、関連業者の太鼓職人、皮を張った太鼓を叩いて糊口を凌ぐ芸能者たちは、こういった迷信から〝穢れた者〟として差別されたのです。
映画の本編では、台詞のやりとりでそれが語られます。
 父「身分の高い連中は、寺に祀られた聖牛ナンディー像に演奏を捧げる。だが、本物の牛が死んだ時には、わしやお前が呼ばれるわけだ。剥いだ皮を鞣すためにな。わしらは仕事をせにゃあ食べていけんだろ。寺の外ならば、この仕事は続けられる。しかしだ、中に入ろうとすれば、ドアを閉められちまうんだよ」
 ピーター「俺はそのドアを破って入る」

ちなみに格式高いヒンドゥー教寺院では、今でも原則的に皮革製品を身に着けたまま境内に入ってはいけないことになっています。

 カースト問題と差別解放に関しては、現代インドの留保制度(Reservation System)についても語られています。
 先輩弟子マニ「公立音大でお前に枠の割り当てがなかったか?公立音大で音楽を習え。教師にもなれるぞ。昔よりマシだ。給料も年金ももらえる」
留保制度とは、インド憲法第15条と16条に基づき、教育・雇用・政治など社会参加において不利な立場にある人々の暮らしを公共機関が保障するシステムのことです。主に、指定階級(Scheduled Caste)・指定部族(Scheduled Tribe)・その他の後進階層(Other Backward Class)が割り当ての対象となります。ピーターは指定階級の「不可触民」に属するため、マニは
「公立の教育機関ならお前ら用のリザベーション枠もあるはずだ、そっちへいけ」
と言ったのです。

 或る日、看護師のサラが勤務する病院で緊急の輸血が必要となり、ピーターと仲間たちはドナーを引き受けます。子供の命を救われた母は、礼を言いました。それは、タミル語ではなくヒンディー語でした。
「बेटा, अल्लाह आपको हमेशा खुश रखे.」
Beta, Allah aapko hamesha khush rakhe.
(青年よ、貴方にアッラーの御加護がありますように)
患者母子はイスラム教徒だったのです。

ヒンドゥー社会の中で抑圧されたキリスト教徒とイスラム教徒が、互いに相手の素姓も知らぬまま、人間として「血を分け合った」のです。

 また、これと正反対のエピソードもあります。
巨匠ヴェンブが首飾りに付けたरुद्राक्ष(ルドラークシャ/菩提樹の実)をうっかり落としてしまった時、一番最初に見つけたピーターが拾い上げると、先輩のマニは激昂して怒鳴りつけます。
「それを下に置け、さっさとしろ!」
マニは慌てふためきながら、神聖な実が下賤の者に穢された!と、聖水で浄めます。
ちなみにルドラークシャは「インドジュズノキ」という和名を持ち、金剛子木(こんごうしのき)や数珠菩提樹(じゅずぼだいじゅ)等と称されます。とはいえ、お釈迦さまが悟りを開いたとされる菩提樹の木とは、まったく別の種類なのです。
ヴェンブ師は最初に見つけた御褒美としてルドラークシャをピーターに授けます。マニは苦虫を噛み潰したような顔で言いました。
「これを身につけてる時は肉や酒を口にするな」
日本風にいうなら、今後は常日頃から精進潔斎を実践しろ、という意味です。

 その後、父と共に一家の出身地である〝革職人集落〟を訪れた際、出された食事に戸惑うピーター。父は、特に何の気もなく言いました。
「カニを食べてみろ、旨いぞ」
蟹は日本では高級食材ですが、インドの内陸部においては、淡水性のカニやエビが最下層民衆の食料となります。ご承知のとおり、ヒンドゥー教では不殺生の菜食主義を美徳と考えますので、どこから涌いて出たか分からない生命(?)を殺して食べることは、穢らわしい行ないと見做されるのです。
父に促されたピーターは一瞬、不快な表情を浮かべますが、ルドラークシャを身につけた自分は他の「不可触民」とは違う、との思いがあったからでしょう。続いて、白濁した〝椰子酒〟を断るのも、同じような理由からです。

 物語の後半、尊敬するヴェンブ師から破門され、生きる目的を失ったピーターは、恋人サラに胸の内を吐き出します。
「何かが、ずっと聞こえてるんだ。自分がどこか別の場所にいる。この世界全体がビートを刻んでるんだ。俺の命、心、体はすべてリズムで脈打ってる。だから、良い先生を見つけられたら、きっと…」
サラはこう答えます。
「どうして?なぜ先生にこだわるの?あなたの周りは先生だらけよ!…雨、高く舞い上がる鳥、落ち葉、突風、轟音の波、みんなあなたにリズムを教えてる。世界はあなたを呼んでいる、リズムを教えるために。…自分のリズムを見つけてきて」

 実はこのくだり、現代インド仏教の指導者:佐々井秀嶺師著『必生 闘う仏教』(集英社新書。髙山龍智編)の96頁「大欲得清浄」に、驚くほどよく似た展開が出て来るのです。
 おそらく《インドという宇宙》には、そのようなちからがあるのだと思います。

『Sarvam Thaala Mayam』 full song video

画像1

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?