怖くてもがっかりしても、もう一度「俳句」

「詩がない」

ほんの2年程前。ある作品群の競作による勉強会のようなものに
参加したのですが、その時に結構キツイ評をもらいました。
 「詩がない」
 「つまらない」
端的に言うとそんな内容で(^^;
時間がたった今見ると「確かにそういう句もあるなあ」と
頷ける部分もあるのですが、当時は結構傷つきました。
振り返ると、おそらくその意見の根拠が
わからなかった点が大きかったからではないかと思います。
(評と悪口は違うのだけど、その意識がないととんだ誤解のもとに)

またその頃、私の作品は以下のようによくいわれていました。
 「普通」
 「当たり前」
 「おとなしい」

この印象はおそらく今もそう変わっていないのではないかと思います。
そのことについては、

「読み手と作品との相性があるし、私は大声で読者へ言うことを聞かせるような表現は
絶対にしたくないから、もうそれは仕方ないなあ」

と、半ば諦め、半ば「自分がしたい表現の方向」の認識を新たに……
という感じで、自分の方法を決める契機となりました。

「作るのが怖い」

ただ、上記のようなことが続くと
結構ココロは折れます。
私は俳句をつくるのがしばらく怖くなりました。
「俳句をやめよう」とは全く思わなかったけど、句会に行くのが正直苦痛になったことも何度か。
俳句教室では生徒さんからたくさんのエナジーを頂いても、句会などで発表する側に回ると虚ろな気持ちに。

「腑に落ちる表現を」

そんな時に日にち薬のような役目を果たしてくれたのが、理解者の存在。
今回の句集『柔き棘』でも構想段階や選で意見をくれた人たち。
彼らは俳句経験自体は浅いのですが、さまざまな表現ジャンルに精通し、かつ自分も表現に取り組んだ経験のある人たち。
だから、作品の鑑賞も深く信頼できるものが。

冒頭の評に対してどうしても納得がいかなかった私は、彼らに自分の作品を読んでもらいました。
そして彼らの意見や感想を聞くことで、
初めて自分の短所や長所を客観的に眺めることができました。

その結果、改めて思ったのが
「自分にとって腑に落ちる表現をすればよい。そうすれば、俳句経験の有無にかかわらずわかってくれる読者はわかってくれる」
ということです。

当たり前といえば今更すぎるくらい当たり前の事実(^^;
でも、私は表現においてこのことを自分の柱にできていなかった。
つまり、私自身の覚悟の脆弱さの問題だったのです。

「自分で決める」

そこから今に至るのですが、
上記を気づいたからと言っても
私の気持ちが全く揺れないということではなく(^^; 相も変わらず(今度は別の方で)
落ち込んだり、を繰り返しています。

ただ、「自分はこうつくりたい、つくるんだ」という方向はしっかりしたので、
その点は評価にかかわらず守る! と土台が定まりました。

自分でこうする! と決めるまでは
悶々とエラク悩みますが、決めると早い性格だったわ。そういえば私。

作品をつくることは、自分自身を知り、つくっていくことでもある。
その過程で、また新しい風景が見えてくればいいなと思います。

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