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他者の俳句の中にいる「私」:『オルガン』29号を読んで

俳句誌『オルガン』は既に30号が出ているというのに、いまさら29号の感想とは遅くて申し訳ありません^_^; 前回は28号について書きました。

29号にはメンバーの作品や連句とともに、句集を読んでの座談会が掲載。
この座談会、個人的に考えを巡らす機会を与えてくれました。
取り上げられた句集は遠藤由樹子句集『寝息と梟』。
私も大好きな句集で、下記note記事として感想を書きました。

「オルガンの人たちは、どう読んでいるのかな?」
自分が好きな句集が好き! と聞けば、より増す親近感と興味。

まず面白かったのが、自分が挙げた句とオルガンの四人が挙げた句が殆ど重ならなかったこと(多分、一句くらいじゃないかな、同じだったのは)。
彼らが挙げた句は私も好きだけれど、自分の記事には掲載しなかった。その辺に俳句をつくる時のまなざしや角度の違いや志向の差が窺えるようで、読んでいて興味深かったです。

そして、解釈の切り口。
オルガンの四人は作品群の裡に「生きている者」の日常の安寧を見ながら、同時にその裏に潜む「怖さ」(死の匂いを感じさせる存在、あるいは畏怖)を感じ取っている。
編年体による作品の歩みの中に作家の日々への慈しみや家族への思いを感じ取りつつ、「それだけではない」奥行を見つめている。
私にはない解釈と切り口だったので、その点も面白かった。
遠藤由樹子さんの俳句作品の懐の深さ、確かな俳句形式、柔軟な言葉と表現があったからこそ、彼らもまた感応し座談会における深い読みが生まれたのではないか(もちろん、オルガンの四人に作家としての深みと自立があればこそ、今回の座談会の内容になったと思いますが)。

そして、思いました。
私が面白いと思った2点。
「選んだ句の違い」「解釈の切り口の違い」
「これって読者が他者の作品の中に自分自身、または自分に通ずる何かを見ている、その「何か」の違いを反映しているんだなあ、意識的にせよ無意識的にせよ」

俳句に限らずどんな表現ジャンルでも、往々にして人は他者の作品の中に知らず知らず「自分を投影」していることがあります。

だからこそ、自分の本質や志向しているもの、希求するものに近い、あるいは同じものを他者の裡に見た時に惹かれる傾向がある(そういえば日常生活全般でも似たようなことがあると個人的に考えています。たとえば恋愛。そういう一面は存在する)。
そして、その印象を評価軸として判断したり、行動することがある。
創作では、表現の方向に影響を与えたり表現方法の決定に一役を買う。

作者として作った作品には、どんなかたちでも必ず「自分」がいる。
それと同様に、読者として「選んだ」他者の作品の中にも「自分」がいる。

どんな俳句作品を選ぶか。そこに作り手としての方向性や態度が見えてくる。
そして選ぶ俳句の違いが、作り手おのおのの違いも明確にする。
だからこそ同じ17音の形式であっても、おのずと違いが「個性」として表れる。

そんなことを自分なりにブレインストーミングして、さらに由樹子さんの句集を読み返して、なんとも豊かな時間を味わうことができました(^^)
句集『寝息と梟』、素敵な俳句がたくさんです。ぜひ、ご一読ください💖

最後に、四人のテーマ詠「人間」から感銘句を引きます。
人間をテーマに据えるとは、考えたことなかった。今度私もやってみよう。
示唆に富む一冊、ありがとうございました!

◆感銘句(敬称略)
向日葵を脱ぎ筋肉のない政治    田島健一
台風を知らせるかほの動きかな   鴇田智哉
いうれいがお腹を見せて立つてをり 宮本佳世乃
夏をゆくひとを数えるだけのひと  福田若之

(テーマ詠「人物」.オルガン,29号:pp.27-31,2022)


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