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俳句、ヘタレの思い出

秋らしくなってきたこの頃。
そんな時は妙に思い出すことばかり(年齢かな(^^;)。

とても甘ったれた恥ずかしい話ですが
書いてみます。

俳句を始めるとたくさんの作品に出会います。
同時にたくさんの「作家」とも出会います。
作品を読んで「こういうふうにつくりたい」と憧れたり、
実際に句座を共にしたり。
出会い方とそこからの時間はそれぞれ異なりますが
その中で感じたこと、経験したことは
良きにつけ悪しきにつけ、私自身に影響を与えていると思います。

その中でもっとも影響を受けている人たちは
「始めた当初にリアル句会で出会った人たち」かもしれません。
作り方、考え方。
まだ何も知らず、経験値もない身にとっては
その人たちの句会の現場におけるすべてが
眩しいお手本でした。
今に至るまでの「きっかけをくれた人たち」ともいえましょう。

私はその人たちに早く認めてほしかった。
今振り返ると非常に甘ったれているのですが
多分「褒めてほしかった」んだと思います。
実際に褒めてくれたり
認めてくれた人もいた(る)し
今も一緒に句会をしている人は何人もいます。

でも、私が一番認めてほしかった人たちは
残念ながらそうではなかった。
そして、おそらく今も。

今は苦い気持ちは多少あれど
仕方ないな~と思えます。
だって、「表現」をする者同士だからね。
きっかけをくれた人=認めてくれる人とは限らない。

表現は他人に承認されるためにやるものではない。
あくまでも自分の可能性を開くためのもの。
でも、たまに承認を願ってしまうときがある。

「そんなこと思ったことも願ったことも全然ない!」
という人もいると思う。
それでいい、というかそれが望ましい姿勢と思う。
是非そのままで。

しょっちゅう「これでいいのか」と揺れたり
「俳句ってどうやって作るんだっけ」と途方にくれる私。
近頃も迷ってばかりです。
その中で訪れる瞬間を五七五を通じて
手繰り寄せようとすると
切ないし淋しいときも幾たびか。

でも、これも仕方ないことですね。
「続ける」ってある意味
「こうありたい自分と現実の自分」との間に
折り合いをつけていくことかもしれない。
そんなことも最近思います。

とりとめなくなってしまいました。
自分でどうするか決めて自分でやる。
その原点にシンプルに戻って
再度歩きたいと思う秋です。


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