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俳句賞:選ばれること、選ぶこと

本稿の「俳句賞」は複数の俳句作品で構成された作品群を意味します。
また、本稿はあくまでも著者個人の見解に基づくことを予めご承知おきください。


「どうしたら俳句賞をとれるのか」

受賞者にそのコツや方法を仮に尋ねても、
「わからない」という返答が返ってくるのが大半ではないだろうか。
なかには理由や原因について見当がつく人もいるかもしれないが、
そのことについて正直に話す人は先ずいないだろう。

私自身、上記のようなことをたまに聞かれることがある。
が、正直「わからない」としか言いようがない。
強いて言えば「諸々のタイミングが合った」というのが一番近いだろう。
諸々のタイミングとは
・挑戦するのに適した力が身についた
・選考委員との相性がよかった
・作品全体にある種の勢いや新しい感覚(作者の個性)があり、
それらがまとまりをもって魅力を放っていた

他にもあるかもしれないが、すぐに思い浮かぶのは以上だろうか。

賞にチャレンジすること=「挑戦者」
実際に賞をとること=「受賞者」
受賞後「審査する側」になること=「選考」

段階を踏んで、現在の私は上記の三つの立場を経験している。
だから、ある意味では三者それぞれの状況や感情等を理解できる(のではないかと思っている)。

その結果、おそらく受賞作には共通して以下のようなものがある、
と個人的に考えている。

・「自分はこの作品で勝負したい!」という作者(挑戦者)自身の意気込みが
感じられる作品が幾つか入っており、それらが作品群のなかで有効に働いている。

・意気込みのある作品であっても独りよがりな主張(表現)ではなく、
読者(選考側)=第三者に感動をもって伝わり、
客観的な評価を得るに足りうる内容と完成度を有している。
その結果、作品群全体が清新な空気に満ち、
作者の個性が無理なく生きたふくよかな世界を呈している。

賞への応募というときに、その賞の歴代の傾向や
選考委員の好みについて多少なりとも意識することがあるだろう。
それは一つの戦略や方法としてアリだと思う。
また、人間の性としても当然だろう。

でも、その結果「傾向に合わせてまとめてきました!」というのが
ありありとわかる作品群を読むと
選考側としては評価以前にもう何とも言いようがない。
作品全体に深みというか、味わいが感じられないからだ
(表層的な魅力は感動につながらない)。
選考会の後に作者名が判明すると、
「もともと素敵なんだから
普通にいつもどおり作ればいいのに」
という感想がつい出てしまう。
でも、同時に賞のために作る時のテンションが
普段と違ってきてしまうのも経験者としてよくわかるので、
こういう時は本当に切ない。

いつも一番願うのが
「作品を通じてその人の顔(個性)が見たい」、
「意気込みのある作品と出会いたい」ということ。

そこで思うのだ。

相手(読者=選考側)を「意識」するのは大事だが
その意識を「双方向性のあるもの」として捉えて実行するのはどうだろうか。
たとえば17音のうち5%でよいから、
作者と選考側が互いに理解できる、共感できる要素(言葉や表現)を入れる。
それを発展させた作り方を行い、構成等も含めて全体へ広げていく。

その土台の上で、自分の好きなように、自由につくって個人の世界をつくりだす。
そうすれば、作者の個性は無理なく発揮され、
選び手も自ずと新しさを感じ、驚き、感動する作品が顕れるのではないか。

自分のこだわりのある言葉(表現)、
そして第三者(選考側)と共有できる言葉。
それらを季語と共に組み合わせてどうやって17音にするか。
そのバランス配分には微妙な匙加減が求められ、非常に難しいと思う。
しかし、そういうアプローチから何かヒントが生まれる可能性もないとはいえない。

挑戦側としては応募するたびに辛い気持ちになる。
自己嫌悪に陥る。
もう二度とださない! と思うときもある。
だけど次へ進みたいから
結局やっぱり挑戦するのだ。
自分が何ができるのか(何ができないのか)を掴むために。

選考側は挑戦者の敵ではない。
挑戦者の「同志」であるし、そうありたいと、
かつて挑戦者であった身として常にそう願っているのです。

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