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嫌われる勇気よりも、始める勇気。

「すべての悩みは人間関係の悩みである」というのは
『嫌われる勇気』で有名なアドラー心理学の根底的な概念だという。

私たちはこの世に、たった1人では決して生まれてこない。
確実に、親という自分以外の人間がいるから生まれてくるのだし
生まれてすぐ、否が応にも親や保育者といった「他人」との人間関係の中に放り込まれる。
そして、他人からの様々な働きかけの中で「自分」を認識していく。

大人になって、「自分」を改めて見てみると
いかに他人からの反応が、今の自己評価に繋がっていることか。
特に、1桁台の年齢までの人間関係で
その人の性格の土台がほぼ決まるというではないの。
良いことならまだしも、常々、自分のここがイヤだと思っている性格や癖が
そんな幼いの頃の不可抗力以外のなにものでもない人間関係に端を発するなんて、理不尽だ。
そりゃ親を恨みたくなるし、
幼い頃の友達や学校の先生などを憎みたくもなる。
できれば、生まれた時点からやり直したい気持ちにさえなる。

だけど、あたりまえだけど、そうはいかない。
文句を言って、できれば謝ってもらい、
言い訳のひとつも聞いてみたい親はもういない。
子供の頃の友達に数十年ぶりに連絡して当時の恨みつらみを怒ってみても、
良くてさらに嫌われ、下手すれば犯罪者になるだけだ。
そして、アドラーのいうところの
悩みの元となる「人間関係」を断つことは不可能だし
死ぬまで続く。


人生が80年だとして
あとどれくらい自分が生きるのかはまだわからないけれど
今の自分をほったらかしにしたまま
周囲とも適当に折り合いをつけて
イヤなことがあっても対処療法的に自分を慰めて
時に人を羨んで、自分を蔑んで
気づけば自分の顔を鏡で見ることが嫌になるような生き方をするために
自分は生まれてきたのだろうか?

過去を変えることはできず
誰とも関らずに生きることは無理だと散々理解している。
そして今、ここで自分の人生を終わりにする気もない。
そうなると、これからどう生きるかの選択肢は限られるのではないだろうか?

「嫌われる勇気」を持つ覚悟があるとは言えないけれど
開き直り気味に言えば、これまで嫌われたくないと思ったって
嫌われることも、イヤな思いをしたことだってあるではないの。
他人の反応だって、自分と同じように
その人が幼い頃から培った人間関係で生まれた性格や感じ方によって変わるわけなんだし。
だったら、自分を変えようとか良くしようって無意味なんじゃないの?



堂々巡りみたいなそんな思いを、自分に問いかけ続けている。


答えは、未だはっきりとしていないけれど
少なくとも、私は、このために生まれてきた、と言えるものを見つけたいと今、思い始めている。
自分の日常を、鏡に映る表情を、アウトプットする何かを
「なかなか良いんじゃないの、自分」って、私自身が感じる未来を夢見ている。

そして、今とこれからの自分のために、過去はあったのかもしれないと
思ってもいる。
幼い頃からこれまでの間に、私を傷つけ、拒否し、苦しめた人々や
逆に私を慰め、そばにいてくれた人々を大切にできなかった自分がいて、
それでも愛された時があり、温かい人間関係が確実に存在していた。
だから、今の自分なんだし、これからを夢見ることができるのかもしれない。

そう思うと、実際、感謝しかないのではないか。
腹立たしい思いがいつだって再燃する相手さえ、
なんだか、ありがとうよっ!!(←まだヤケクソ)な気分だ。

いつか心からそう思って、いてもたってもいられなくなったら
数十年ぶりのあいつ(←まだあいつ呼ばわり)に
本当に「ありがとう!!」ってLINEか電話かするかもしれない。
その時に怪しい人だと思われるのは仕方ないけど
通報されたりするのはやっぱりイヤだな。

それはまた追々考えることにすることにして
とにかく始めたいことを始めることにしよう。

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