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心の声が聴こえる映画~『82年生まれ、キム・ジヨン』

公開まもない新宿の映画館は、コロナ禍で席を間引きながらも、ほとんど満席だった。両隣の席が空いていて良かったと、わたしは終演後の灯りに俯きながら席を立った。泣き腫らした顔をマスクで隠せて良かった。それくらい、泣いてしまった。
小説は読んでいたから、ストーリーは知っていた。なのにまるで初めて出会う物語のように新鮮で、冒頭の数分から涙がこみあげ、映画が終わるまで泣きっぱなしだった。そんな観客は、わたしだけだったかもしれない。今年7月に母を亡くしたばかりで、個人的な想いが涙腺を壊したのだと思う。母とわたしの「キム・ジヨン」話は、長くせつない話になるので割愛するが、この作品が、観る者(女性)の「個人的な部分」にすっと入り込み、深い共感を与えるのは確かだ。

隣の国のお話では決してない。わたしたち日本の女性も、根強く残る家父長制や男女格差、たとえば「育児は母親がするもの」という風潮、職場で頑張っても報われない男性社会に、やり場のない憤りや悲しみ、諦めを感じている。昨年12月に発表されたジェンダー・ギャップ指数による順位は、韓国108位、日本121位。キム・ジヨンが生き辛さを抱える韓国よりも低い。

映画『82年生まれ、キム・ジヨン』は、 原作の小説を凌ぐ佳作である。
そもそも小説と映画は違うものだから、比べてはいけないのかもしれないが、小説の世界観を踏襲しながら、まったく違うアプローチで主人公を描き、二時間の映画に昇華させた脚本は見事で、秀逸だ。
以下は、その素晴らしさと内容について書き、結末にも触れるので、知りたくない方は読まないで欲しい。

まず、映画と小説の大きな違いは、その語り口である。
小説では、精神科医(男性)が淡々とキム・ジヨンの半生を振り返る手法で、生まれたときから現在まで、時系列で描かれている。
一方、映画では、「現在のキムジヨン」を軸に、誰が語るわけでもなく、夫と2歳の子供と暮らす平凡な日常のなかで、夫や周囲の目線を交えながら、心を病んだジヨンがふいに思い出すフラッシュバックで過去を描いている。

ここまではわたしも脚本家としてよくあるアイデアだと思うが、感服したのは、夫だけでなく「母親」の存在感を意識した構成とストーリーに仕上げた、という点だ。映画版では、母親とのシーンをじつに効果的に配置している。映画『82年生まれ、キム・ジヨン』のクライマックスは、夫ではなく、母親とのシーンだった(※働くことを義母に一蹴され、傷ついた主人公のもとへ母親が駆け付ける場面)。

どんなに優しくとも「男性」である夫にはわからない、心の声がある。
女性として生きてきたからこそ体感し、言葉にならない「声」。
その声を聴くのはやはり女性で、キム・ジヨンの場合は「母親」なのだ。

加えて、幼い頃からのエピソードが「時系列ではなく」ランダムに登場する。その時々の心情に合わせたタイミングで構成されていて、小説から抽出された各エピソードの選び方もいい。今回、もう一度読み直して気づいたのだが、本来なら、入れたくなるであろうベタな話はできるだけカットしていた。胸に刺さるものだけを掬い取っている。そして、小説のそれとはまったく違う「空気感」で主人公の心情を表すことに成功していた。

小説を読んだとき、正直、わたしはあまり主人公に共感できなかった。
いったいなぜ、映画ではあんなに共感して泣けたのか。
それは目の前のスクリーンに映し出された「キム・ジヨン」が圧倒的なリアリティを持っていたからに他ならない。そしてそのリアリティは、前述の脚本や構成、演出による部分が大きい。

演じた俳優陣たちも、素晴らしかった。主演のチョン・ユミはもちろん、夫役のコン・ユ、母親役のキム・ミギョン、そしてほんの数シーンしか登場しないバスで出会ったおばさん役のヨム・ヘラン(彼女はじつに名脇役!)など、ともすれば過剰になりそうな場面でも、それぞれが抑えた演技で表現していた。韓国の俳優はじつに層が厚いと改めて思う。

キム・ドヨン監督は、70年生まれ。わたしと同世代である。
今回が初めての長編映画だという彼女に、ありったけの賛辞を贈りたい。
ラスト、母親と誕生日について話す場面では、涙が止まらなかった。
わたしも、もがきながら、この社会で逞しく生きなければと強く感じた。

「キム・ジヨンはわたしだ」
女性の多くが、この映画のシーンのどこかに自分を見つけるだろう。
いつの日か、誰も共感できなくなる日を、女性も男性もなく、性別で生きづらさを抱えることのない社会になることを望みたい。

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