かなしみよこんにちは
私事で恐縮ですが(というかここに書いてることは全て私事だけど)今年本を出すことになった。阪神淡路大震災がきっかけで神戸に戻って4半世紀、そろそろ自分のやってきたことをまとめたいというのがその理由。20年前に始めたメルマガnaddistのネタを編集者に渡し、校正、加筆の無限ループが始まった。めくるめく街ネタを一般論に(灘区を知らない人が読んでもわかるように)落としていく作業がちょう難しい。そしてそもそもなんでnaddist活動を始めたのだろうということを深く考え出すと一向に進まない。(編集の浅野さん、すいません。急いでやります)
5年前のインタビュー集『BE KOBE 震災から20年、できたこと、できなかったこと』(ポプラ社)ではこう語っていた。
(実家のある)味泥地区は火事こそでなかったものの、被害が大きくてね。古い長屋なんて全部潰れて、共同建て替えとか、再建が難しいところはマンションに、というような話をするんですけど、住民どうし意見が対立して、目の前でケンカが始まったり、しんどい話が多かった。(中略)もっと街が楽しくなるようなことを、自分のできる範囲でやろうと思って97年から始めたのが、「naddism」というフリーペーパーでした。
この時点では「しんどい」と表現しているけど、今となっては「かなしい」と置き換えたほうがしっくりとくる。震災では今まで出会ったことのないかなしさに襲われた。飼っていたカブトムシが死んだかなしさとかおニャン子クラブが解散したかなしさとは違うかなしさ。震災という大きなかなしみが震災後の僕を突き動かしたといっても過言ではない。
思い起こせば今までやってきた一見バカバカしいプロジェクトはすべてかなしさから始まっている。例えば神ノ木通にあった灘区役所が桜口に移転し、閉鎖された入り口に勝手に花を供える「勝手に献花」(2004)
ウルトラセブンを苦しめた末、摩耶埠頭沖沈んだまま供養されないスーパーロボットキングジョーに海上で黙祷を捧げる「スーパーロボット追悼神戸港クルーズ」(2013)
日本最長寿(当時)のインドゾウ、諏訪子の「四十九日カレー法要」(2008年)
2003年に灘区の物産を水道筋で勝手に売った「灘印良品」は業務用マヨネーズシェア1位のケンコーマヨネーズが灘区にあるにもかかわらず誰も知らないというかなしい現実を打破したいという思いから、2004年に駅舎の橋上化によって建て替えが決まった灘駅で開催した「灘駅で本を読む日。」や「灘駅弁」は、街の中にひっそりとたたずむ愛らしい駅舎がなくなることへのかなしさが原動力となっている。摩耶山での活動もまやビューラインの廃止問題というかなしいできごとがなかったらやっていなかったかもしれない。そして「盛り上げようにも何も、まやビューラインまでのアクセス悪いじゃん」というかなしい声が坂バス運行につながる。日本屈指の糞マラソン、いや草マラソン「東神戸マラソン」は、神戸マラソンのコースが灘区から外されるというとてつもないかなしさが発端だった。楽しいからやるのではなくかなしいからやるのだ。
仏教では情け、あわれみを表す言葉を慈悲という。慈も悲もかなしさ意味する。
悲しみは慈しみでありまた「愛しみ」である。悲しみを持たぬ慈悲があろうか。それ故慈悲ともいう。仰いで大慈悲ともいう。古語では「愛し」を「かなし」と読み、更に「美し」という文字をさえ「かなし」と読んだ。(柳宗悦『南無阿弥陀仏』)
かなしみとは何かを愛し、その美しさに気づくことなのかもしれない。かなしいということは自分の求めていたことに出会うことだと。そう思うとかなしさ上等、かなしみよこんにちはって気になる。
震災から25年経ち、自然災害とは違う形で街がなくなろうとしている。今年の3月で水道筋の畑原市場が100年余りの歴史を終える。小さいころ母親のスカートのすそをつかんで雑踏をかきわけ歩いたノスタルジックな記憶だけではなく、毎日買い物をしていた場所がなくなる哀しさ。ただ悲しさに打ちひしがれそこにとどまるのではなく、市場の美(かな)しさを求め、最大限の愛(かな)しさを込めて2月15日から3月31日までの1ヶ月半の間、畑原市場大感謝会をやります。ぜひご来場ください。
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