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私の人生を大きく変えた出逢い、そして別れ

これまで生きてきた34年間の自分史の後半戦
ということで、前回の続きを。


東京への異動を決めた私は、残された福岡での時間を噛み締めながら日々過ごしていた。
そんな中、思いもよらない出逢いが訪れる。

私に初めて”愛する”ことの意味を教えてくれた彼との出逢いだった。



彼は、当時私が働いていたカフェの別の店舗(同じ建物に2店舗あり、フロアが違った)で同じくバリスタとして働き始めたばかりだった。
カナダに5年ほど住んでいた彼は日本に一時帰国し、その後また海外へ足を伸ばそうと目論んでいた。
永住権を持っていない海外在住者で、VISAの関係で離れたくなくても一時帰国せざるを得ない状況が出てくるのはよくあることだ。
そんな彼も、長く住んでいたカナダでの生活がとても心地良かったようで、またカナダへ戻りたい気持ちを胸に、最後の(年齢的に)ワーホリでオーストラリアへ行こうと考えていたようだった。
そんなことを露も知らない私は、”ワーホリ経験者の話が聞きたい!””海外でバリスタしていた人の経験を聞きたい!””その人の作るコーヒーを飲んでみたい!”そんな思いでふらっと彼のいる店舗へ立ち寄った。
彼の淹れてくれたラテを片手に、彼が住んでいたトロントの話、コーヒ文化の違いなどを聞きながら自分の興味の探求をしていった。
そこで何気なく連絡先を交換し、そこから自然と毎日連絡を取るように。
とはいっても、私はすでに東京への異動が決まっている身、そして5年以上彼氏もいなかった私は恋愛に興味もなく、正直、出会った当初は彼に対して特別な感情はなかった。
それからやり取りを重ねながら、ごはんに行ったり職場内で直接会って話したりと交流を続けていた。
自分でもよく分からないがどこか心地良い存在として、自然と私の生活に彼が入ってくるようになった。
誰かと一緒だとどこか気疲れしてしまう私が、なぜか彼の前だと気を遣うことなく、素でいられる気がしていた。

そしていよいよ異動のための引越しが近付いてきた頃、引越しの段取りを済ませて数日はホテル住まいをしようと計画していたのだが、ひょんなこと(冗談混じりの私のお願い)から、引っ越しまでの数日、彼が家に住まわせてくれることに。
ラッキー!くらいにしか思っていなかった私だったが、彼との距離が残された数日で日々縮まっていくのを感じていた。
そして引越しの前夜、私たちの関係について話をする流れになり、
白黒ハッキリさせないと気が済まない私は彼に気持ちを問いた。
いくらお互いが”好き”同士であると感じていても、それをちゃんと言葉にしたかったのだ、お互いに。
そして彼の答えはこうだった。

「てっきりもう付き合っているかと思ってた。」

そう、大学卒業後そのまま海外へ行き、海外生活が長かった彼はいわゆる日本の”告白”文化やそういった概念がなかったのだ。

ーそうか、そういうことか。
よし、じゃあどうする?
となった時、いざ付き合うとなると初めから遠距離になることについて、お互いに、今後のお互いの生活に負担になるのではないかという懸念を口にした。
でもまぁ、やってみないと分からないし、お互いに気持ちがあるならまだ起きてもいない未来を心配して、ここで関係をやめることもないんじゃない?という私の考えに彼も同意。
好き同士なのに別れるという考えが当時の私には理解できなかったのだ。

そのまま翌朝を迎え、私が働いていたカフェで一緒に朝食を済ませ、空港まで見送ってくれた彼。
そして、交際0日目から遠距離恋愛の私たちの関係がスタートした。

人生で初めての遠距離恋愛(お互いに)。
当時の私は正直、複雑な心境だった。

ー彼と出逢ってしまった以上、一緒にいたい。
そんな気持ちが募っていた。

東京行きの決意が揺らいだ瞬間が幾度かあった。
が、それでも一度決めたらやり通すのが私。
29歳の誕生日を迎える直前、切なさを押し殺して東京へと向かった。


東京の店舗での仕事は想像を絶する忙しさだった。
品川駅内にあるカフェ。オープンは7時。
出勤前のサラリーマンやOLでごった返す駅構内。
早朝の人の流れはいつ思い出しても恐ろしいほど。
出勤前にとコーヒーやベーカリーを求めてオープン前から並ぶ人たち。
時間に追われ、余裕がないせいか苛々しがちなお客さんも多く、そんなお客さんたちに迷惑がないようにと何十件と連なるドリンクのオーダーを素早くミスなく捌いていくことに精一杯だった。
私にも余裕はなく、常に時間との戦いだった。
その後ランチタイム、夜はディナーからのバータイムと続き、23時頃まで営業しているカフェ。
遅番だと帰りは24時を過ぎる。
一日がとても長く感じた。
シフトも早朝6時からの日もあれば11時からの日もあったりと変則的で、生活リズムが破茶滅茶になっていた。
勤務時間も8時間を超えるのは当たり前、基本は9時間、10時間働く日も少なくなかった(拘束時間は12時間で休憩は2時間など、ザラにあった)。
そんな生活に少しずつ慣れてはいくものの、日々仕事と家の往復に追われる毎日で心身ともに疲弊していた。
肌も荒れまくっていた。

休みの日は自然に癒されるべく、とにかく人気の少ないところを目指して緑のある場所へと出向き、散歩していた。

一方、彼との関係は良好で、毎日欠かさずこまめに連絡をくれる彼。
出勤前から出勤後まで連絡をくれる彼とのやり取りが唯一の癒しとなっていた。
遠距離といえども月に一度は会いたいということで、福岡へしばしば帰っていた(私が福岡へ帰りたい欲が強かった)。
彼がサプライズで東京に来てくれることもあり、彼が東京に来た時はあえて下町に泊まったり鎌倉まで足を伸ばしたり、私が福岡へ帰った際には大分へ旅行したりと、思い出を作りながら彼との関係性を深めていった。
離れていても一切の不安はなく、彼から愛されていることを常に心から感じられ、安心感で満たされていた。
それまで女好きだった彼が私にゾッコンであるということは、周囲からいつも聞かされていた。

また、仕事仲間で良き理解者がいたことや慕ってくれる仲間がいたこと、そして常連のお客さんや初対面でもすぐに打ち解けて話をするお客さんとの何気ないやりとりが、当時の私の東京での生活を維持する支えとなっていた。
そして東京行きを決めた理由のうちの一つ、私が当時崇拝していたバリスタの師匠が品川の店舗にいたということ。
これが東京で踏ん張る大きな理由だった。

そんな師匠との出逢いは福岡の店舗の立ち上げ時。
立ち上げということで、トップバリスタだった師匠は新店舗の育成担当として福岡へヘルプで来ていた。
当時私はバリスタではなく、接客販売担当。
それまでいわゆる”カフェ”(雰囲気やお洒落な店構えなど)が好きなだけでコーヒーの味はおろか、どちらかというと紅茶派で、ミルクや砂糖を入れないと美味しさを感じられない舌だった。
そんな私がある日、師匠の淹れたコーヒーを口にした瞬間、
衝撃が走った。

ーなにこれ、コーヒーってこんなに美味しいの?
砂糖を入れなくてもこんなに美味しいコーヒー、初めて飲んだ!

たった一杯のコーヒーが私を満たし、とても幸せな気持ちにしてくれた。
まるでその日がすでに最高の一日となったかのような感覚。

たった一杯のコーヒーでここまで人の気持ちや感情はおろか、
その人の一日までにも影響を及ぼすのか。
とにかく、衝撃だった。
これは間違いなく、人生を豊かにするきっかけとなる。
私のコーヒーに対する価値観が180度変わった瞬間だった。

そして同時に、
”私もコーヒーを通じて誰かの心や一日を、そして人生を豊かにしたい。”
そう強く思ったのだった。

こうして、このたった一杯の、師匠の淹れてくれたコーヒーが、後に私をバリスタの道へと導いていくのであった。


一度思い立ったら、心で強く思ってしまったら行動せずにはいられない私。
その日からコーヒーに関する知識を身につけようと毎日師匠に質問攻め。
が、なかなか相手にしてくれない師匠。
当時、バリスタ業界は第3の波(サードウェーブ)というものがきており、国内外問わずコーヒー業界は賑わいを見せていた。
カフェをやりたい、カフェで働きたい、バリスタになりたい、そんな人たちが多かった。
だがその動機も意欲も人によってはバラバラで、中途半端にやめてしまう人も多かったのだ。
だからこそ師匠は最初の門を簡単に開かなかったのだ。
(後に師匠から聞いた話)

それでも諦めない私は毎日しつこく師匠についてまわり、コーヒーについて教えてくれと何度も何度もお願いをした。
そしてようやく、重い口を開くかのように少しずつ、私の質問に答えてくれるようになった。
淹れ方を凝視しながら細かくくどく質問する私を師匠は一切あしらうことなく、一つ一つの問いに真っ向から向き合い、すべてに丁寧に答えてくれた。
そして必死にメモを取る私。

「やる気がない人には基本教えない。けど、ななちゃんは突き放しても立ち向かってくる強さと意欲があるから教えたくなる。そういう人にこそ、コーヒーを学んでほしいし、突き詰めて、この業界で頑張ってほしい。」
そう言いながら、惜しげもなく知識や技術を教えてくれる師匠の下、いつしか私は”バリスタ”として成長したいと思うようになったのであった。
そんな想いを抱えながら、立ち上げが終わってしばらくして東京へ戻る師匠。

当時、接客販売担当として入社し勤務していた私だったが、バリスタになりたい!という抑えきれない想いを上司や同僚に訴え、見事にカフェ担当となり、勤務させてもらっていた。
が、当時は師匠もいなければ、師匠ほどコーヒーの知識や技術、”教える”ことに関しても、精通している人がいなかった。
そんな中、いつか師匠の下でまたコーヒーを学びたい、そんな想いを胸に抱きながら黙々と働いていた。


そしてついにその念願が叶い、また師匠と共に東京で働けるようになったこと。
これは東京生活の中で最大の喜びだった。
相変わらず師匠から教わる知識はとても興味深く、また、知識のみならずコーヒーに対する姿勢を通じても日々学びが多かった。
仕事でのやりがいのすべてがここにあった。


そんな中、遠距離中の彼とのやり取りの中で漠然と、お互いに”ワーホリでオーストラリアへ行く”という共通の夢があることを話していた。
たまたま共通のやりたいことがあるから、一緒に行こうか?なんて話をしていたので、それを”いつ”実行するかというところだった。
当時私は29歳。
彼は私より一つ上の年齢で、早生まれだったのでギリギリ30歳でワーホリの申請ができる状況だった。
オーストラリアのワーホリ申請を自力でさくっと済ませる彼。
一方で、今回初の留学ということで語学学校の手配から始めた私はエージェントに依頼して学校を決め、ビザの申請は自力で試みた。
すぐに許可が下り(人によって、状況によってタイミングは異なるらしい)、彼は若干遅めだったが無事に許可が下り、お互いのビザの発行が完了。
あとは渡豪時期を決めるだけ。
税金諸々がかかることを踏まえて住民票を抜くタイミングを考えたら年内もしくは年明けすぐには行きたいね、ということで時期を定めた。

12月末か1月初旬・・・
そのくらいに出発すると決まったのはいいけど、
彼は福岡から?そして私は東京から?
それまではお互いに別々の地で暮らして遠距離のまま?

悩みまでとはいかないがそんな漠然とした疑問があった。

そんな疑問を抱きながらもとにかくがむしゃらに、今目の前のことに精一杯取り組む。
それが唯一私のできることだった。


月一で会う遠距離の関係。
しばらくしてそれが、私にも彼にもストレスになっていると感じるようになる。
海外生活に向けてお金を貯めるため、掛け持ちをしながら毎日休みなく働いていた彼。
体を酷使して働いていた彼は、元々毎日こまめに連絡を取ることが苦手だった。
そんな彼にとって、遠距離の私に日々連絡をすることがいつしか苦痛になっていたのだった。
正直、それを彼の口からカミングアウトされた時はショックだった。
だがすぐに、それは彼の優しさに対する私の甘えだと気付いた。
働く時間もお互いに異なり、生活リズムもバラバラだった私たち。
東京での生活に苦労する私を気遣ってくれていた彼に対し、自分のことに精一杯で彼を気遣えていなかった私。
申し訳ない気持ちで一杯だった。
彼の優しさに甘えていた。

そんな私はさらに、月に一度の愛おしい彼との大切な時間でさえも、台無しにしていた。
東京での生活の疲れやストレスからか湧き出る感情を彼にそのままぶつけていた。
素直に辛いと言って甘えられればいいものの、それができずにいた私は自分の感情を彼にぶつけることしかできなかった。
単なるわがままだった。

せっかく会っても喧嘩になる。
そんな状況が続いていた。

ーこのままだと、まずい。

心では薄々感じていた。
当時の働き方も辛かったし、自分は何のために働いているのかが見えなくなっていた。
やりがいのあったバリスタの仕事も、師匠が店舗からいなくなることもあったり色々と現場で問題が起きたりで、やりがいどころか働く意欲も失いつつあった。
心も体も健やかでないと感じるサインはいくつもあったのに、それを無視して働き続けていた。

ー 一体、何のため?
ここに来た目的は明確だった。

でも今は、今の私は何のためにここにいるのか?
なぜここで働いているのか?
不明確だった。
仕事も彼との関係も低迷してしまった今、私がやるべきことは?

ー私、どうしたい?

そう自分へ問いかけた。
すると答えは一択。
すぐに出た。

ー福岡に帰りたい。

いつしか第二の故郷になっていた福岡。
私がエネルギーをチャージできる場所、私のエネルギーが高まる場所だった福岡へ一旦帰りたい。
渡豪までの残りの時間は彼と一緒に住んで、そのままオーストラリアへ飛ぶ。
そう決めた。
そして彼にもその想いを伝えた。

一緒に住もう。

そして一年弱の東京の店舗での勤務を終え、私は福岡へ戻ることに。
社員だった私は当初、福岡の店舗へ戻るということで上司と話を進めていた。
が、やっぱり空きがないので福岡は厳しい。他の店舗(大阪)はどうかと急遽勧められた。
でも私の目的はこの会社で働き続けることではない。
福岡へ帰ること。

「であれば、辞めます。」

オープニングスタッフとして社員枠で採用してもらった会社(本当は当初、アルバイト採用のみで社員枠がなかった中、私が無理を言って急遽社員として採用してくれた)。
とても自由性があり、社風も自分によく合っていた。
やりがいの多い仕事もさせてもらえた会社だったので恩もあった。
名残惜しかったが、時はもう熟したのだと、潔く退職を決意。

東京のスタッフに盛大なお別れ会をしてもらった後に、福岡へ。


いよいよ、待ちに待った彼との同棲が始まった。

転職の多かった私は仕事を変えることも、また新たに何かを始めることにも抵抗はなく、常に新しいことにチャレンジするのは好きだった。
以前も働いていたランジェリー業界ですぐに派遣社員として働き始めたが、短期間でできる限りの留学費用を貯めることを考えて別の仕事を検討。
たまたま見つけた大手電子マネー決済の新規獲得営業(飛び込み営業)。
ちょうど12月までの期間限定の仕事で尚且つ時給も良かった。
それまで営業職はいくつかしてきたが、飛び込みは未経験だったので、海外生活での強さを身につけるのにちょうどいい!と思い、応募。
高い競争率をくぐり抜けて無事採用。

初の飛び込み営業。
いざ始めてみると、元々の物怖じしない性格があってか難なく飛び込めた。
約4ヶ月間の期間だったが、営業成績は有難いことに毎月トップ3以内。
ここでも数字に無頓着な私は月初の報告会で表彰されることで自身の業績を知り、お食事会に招待されるというご褒美を毎月いただいていた。
そんなこんなで平日は営業職をしながら土日は蕎麦カフェで(蕎麦が大好きで、賄いで蕎麦を食べられるだろうという期待で応募)アルバイトをし、毎日休みなく働いていた。彼と同じように。

朝起きて家事をこなし、仕事へ。
仕事が終わると買い物をし、家事をこなし、彼が帰宅すると彼との時間を過ごす。
そんな毎日を送っていた。
お互いに休みはなかったので、月に一度でも丸一日一緒に過ごす時間を作ろうと決めて、二人で出掛けていた。
毎日が、かけがえのない時間だった。
朝起きて一番に彼の顔を見るだけで、その日がすでに最高の一日になっていた。
そんな風に彼と日々を過ごす中で、いつしか私の人生における優先順位が変化していくのを感じていた。


彼はいつも私を肯定してくれていた。
私の内面も外見も、そして仕事ぶりも仕事での活躍もすべて。
何があっても大丈夫。なななら大丈夫。
いつもめちゃくちゃに褒めてくれるし、
私が仕事で落ち込んだ時も、黙って抱きしめ、励ましてくれていた。
彼はありのままの私を受け入れてくれる唯一無二の存在で、
そんな存在と出逢ったのは人生で初めてだった。

自分自身で自分を満たせない私は、彼に私を満たしてもらっていた。
彼から満たされることで日々、喜びと幸せを感じていたのだった。

そしていつしか、私にとって、私の人生において彼がすべてとなっていた。

それが自分にとって良いことだと、理想の関係性だと、そう信じきっていた。



遠距離が終わり、同棲が始まってからは喧嘩もなくなるだろう、そう思っていた。
喧嘩の原因は私の東京生活でのストレスや会えないことによる寂しさ、彼が常に連絡をしなければいけないというプレッシャーだと思っていたから。

がしかし、そんな予想とは反して、同棲生活でも喧嘩は度々起きていた。
原因は、常に私にあると思っていた。
私は自分の中の感情に支配され、それをうまくコントロールできなかった。
いつも肯定し、ありのままの私をすべて受け入れて理解してくれている彼と喧嘩をする度に、私は否定されていると感じ、”私は愛されていない””やっぱり私は存在価値がない””どうせ私は愛される価値がない”そんなことばかり思っていた。
そしてそれを彼にぶつけていた。

当時は、そう考えてしまう原因も、思考の癖となっている正体もわからなかった。
とにかく、苦しかった。
喧嘩する度に同じ沼にハマっている自分。
どうしたらそこから抜け出せるのか、
分からずにもがいていた。
常に彼の優しさに助けられ、根本的な解決をしないまま(やり方もわからないまま)その場をやり過ごしていた。
お互いに成長に繋がる喧嘩ではなかった。
そんな日々を過ごしていくうちに、心のどこかで違和感を感じるようなっていった。

ー私は彼と一緒にいられてこんなに幸せなのに、どうして満たされていないのだろう。

彼がすべて、そう思っていた私は彼がずっと隣にいてくれることを望んでいる反面、このままの自分でいいのかと、心のどこかでモヤモヤを感じていた。

彼と付き合い始めて間もなく、彼の夢は”海外か日本のどこかで自分のカフェを開く”ことだと聞いていた。
英語力もあり、コーヒーの知識もスキルも私よりある彼は、口数の多いタイプではなく、誰とでも明るく話すといったタイプではなかった。
一方で私は、英語力は彼ほどなく、コーヒーの知識もスキルも彼ほどないが、コミュニケーション能力だけは誰よりもあった。
そんな私の人としての魅力を買ってくれていた彼は、いつかお店をやる時に一緒にやって欲しい。
自分はコーヒーを作り、私には接客をして欲しいと。
結婚願望が全くなかった彼が初めて将来を描いたのは私だと言い、そして結婚どころか恋愛すら考えていなかった私も生まれて初めて結婚を意識するようになった。
正確には、当時の私には結婚という概念はなく、”パートナー”として人生を共にする人と考えていた。

同じバリスタとして働く身としても、お互いの強みや良さを考えても、その夢を思い描くことは簡単だった。
そして私はその夢を応援したい、そう強く思っていたので合意していた。

ーそれが自分の心が望むことであるかどうか、当時は分からずに。

じゃあそのためにはやっぱり、今回のオーストラリア行き、そこでの生活は彼との今後の将来にも大きく関わる大切なステップになる、そう思っていた。
私の英語力を上げることも、海外のカフェで働く経験を積むことも、私が今回のワーホリでやりたいことだし、ちょうど彼の夢にも繋がっている。

そもそも漠然と”海外に住みたい”と学生時代から思い描いていた夢が、”バリスタ”という仕事に出逢ったことで、”バリスタとして海外で働くこと”を一つ目標として、バリスタの聖地と言われる”メルボルン”を目指してオーストラリア行きを決めた私がいた。

そこに”彼”というエッセンスが加わったのだ、
そんな感覚でいた。


そしていよいよ、向こうでの居住や航空券の手配も済ませて渡豪までの時間が近づいてきた頃、
私の心の中でのモヤモヤが徐々に増していくのを感じずにはいられなかった。

ー彼と一緒に行くと決めた以上、引き戻せない。
でもこのままだったらきっとうまくいかない。

そんな悪い予感がしていたのだった。
なぜ?
ここでの理由は明確だった。

ーカナダに5年以上も住んだ経験があって英語もペラペラ、そして海外で働いた経験もある彼。
そんな彼と一緒に向こうで生活をするとなると、きっと私たちの生活で使うのは日本語のみ、何をするにも彼がいてくれると様々な面で頼ってしまう。
すべて一人でやらなければいけない環境を作らない限り私は行動できず、私は成長できない。今回の自分の目標も達成できずに終わってしまうのではないか。

そんな不安を抱えたまま、いよいよ渡豪の時がきた。
空港で親友が笑顔で見送ってくれる中、私の心はモヤモヤしていた。
不安が9割、期待が1割。
正直、1割も期待があったかどうかすらわからない。

ーあんなに楽しみにしていた念願のワーホリでの海外生活なのに。


オーストラリアに降り着くと、そこには日本では見慣れない景色が広がっていた。
いよいよ、始まる。

メルボルンでの生活はシェアハウスだった。
日本人女性と韓国人男性のカップルと彼と私の4人。
中国人の富裕層が多く住むエリアで綺麗なアパート。

英語がペラペラな3人が会話をするときは英語。
私は一人、よく聴き取れないまま中途半端に会話に交ざる。
劣等感から英語を話すことを恐れ、億劫になり、彼や同居する日本人の女性とばかり日本語で話していた。
韓国人の彼は陽気で明るくとても優しい人で、間違ってもいいから話してごらんと言ってくれていたが、当時の私にはそんな彼と話す勇気すらなかった。
それ以前に、不安が大半を占める心境の中で渡豪してしまっていた私は、渡豪して直後からすでに、希望を見出せずにいたのだった。

ここで私の英語力と海外に対する想いについて補足をすると・・・
中学、高校、大学時代と英語が大好きでテストでは常に好成績。
中学時代から洋楽&洋画にハマり、高校時代はバイト終わりに某DVDレンタルショップに寄っては洋画を漁り、一気にまとめてレンタルしては家に帰ると2、3本まとめて観る日々。
洋画で観た世界に魅了され、映画を通じて日本以外の国、そこでの暮らしを知ることでいつかそこに行ってみたい、住んでみたいと思うようになる。
そんな想いに拍車をかけるように、高3の修学旅行でオーストラリアのケアンズへ行ったことをきっかけに、世界観が180度変わる。
ケアンズの美しい大自然、他人を気にせずのびのびとそこで自由に生きる人たちを見て、日本という国しか知らない自分、自分という存在の小ささ、これまで自分が見てきた世界(日本)の狭さを感じ、”もっともっと広い世界を見たい””死ぬまでに色々な国へ行き、様々な景色を見て、文化に触れ、様々な人と交流をしたい”そんな思いと共に”海外に住むこと”を夢見るようになた。

そんなこんなんで実現した今回のオーストラリア生活。
渡豪したのが29歳だったので、流石にブランクもあるなということで渡豪前に改めて参考書を用いて文法のおさらいはしていた。
ほぼ覚えていたので問題はないかなと安易な気持ちで海外生活へ挑んだのだった。

がしかし、そんな気持ちも一瞬にして打ち砕かれた。
現地の人の言っていることがわからない、聴き取れない・・


義務教育、日本の学校で学んだことが何にも役に立たないことを身をもって痛感した。
あんなにテストで良い成績だったのに・・・
日本の英語教育(公的機関)の実用性の無さに打ちひしがれた。
語学学校は、まだ良かった。
先生たちはネイティブだったが、”生徒用”の英語を話すから。
生徒が聞き取りやすい、非ネイティブ向けの英語を話してくれるから。
生徒も生徒で多国籍だったため、ネイティブほど速いスピードで英語を話す人もいないから、聴き取れる。
だが一歩外へ出ると、別次元。
オーストラリア英語についてよく知らなかった私はそれどころか”アメリカ英語”と”イギリス英語”の違いもよくわかっていなかった。
イギリス英語をベースとした訛りのある英語がオーストラリアで話されているなんてことも、全く理解していなかったのだ。
渡豪前に観ていた洋画や聴いていた音楽やポッドキャスト、YouTubeの英語と全く違う。
そんな事実と直面し、衝撃を受けていた。

”聴き取れない”ことによる障害はかなり大きかった。
聴き取れなければ意思疎通ができない、コミュニケーションが取れない。
当たり前のことだ。
自分が何かを伝えるだけでは会話は成り立たない。
でも相手が何を言っているか分からない。
会話のキャッチボールができない。

学校での会話やコミュニケーション、課題はこなせても日常会話ができなければ生きていけない。
生活に支障が出る。
そんな思いを抱えながら家で英語学習に取り組むも、それをアウトプットさせること(会話に活かす)に躓いていた。

そこで私は無事に仕事が決まってカフェで働き始めていた彼に、”家で過ごす時も英語で会話をして欲しい””私の英語の練習に付き合って欲しい”とお願いをした。
が、彼の思いはこうだった。
”自分も英語を話すときに頭をフル回転させていて、その状態で仕事をしているから、せめて家でななとリラックスるする時間くらいは何も気を遣わずにいたい”
そうだよなと納得。別の方法を模索した。
学校終わりに友達と過ごし、英語に浸る環境を増やしたり、カフェに行って店員さんと会話することを試みたり。
それでも不十分だった。

そしてある日、『一定期間ファームで働いてビザを1年間延長する』という日本人の友達の計画を聞いたことによって計画を練り直した。

オーストラリアのワーキングホリデービザは、他の国と同様に1年間有効。
それが、ワーキングホリデー中に一定期間ファームジョブ(農業で働く)をすると、さらに1年間ワーホリビザが延長されるという制度があるのだ。

元々その制度自体は知ってはいたが、自分がそれを利用することはないと思っていた。
なぜならそれには彼の同意も必要で、カフェで働きたい彼にとってファームで働くことは魅力的ではないとわかっていたから。
だから彼と一緒にその制度を利用することはないと。
だが今回は自分のために、自分の英語力と経験のためにできるだけここに長くいて、成長の機会を増やしたい。
そんな思いがあった。
そして彼にそのことを相談した。

彼の答えは”NO”だった。
「俺のことはどうでもいいの?俺との人生は考えてないの?」
そう言われてしまった。
彼がNOと言った理由は一つ。
ファームに行っている間、また遠距離になるということ。
実は東京から福岡へ戻り、遠距離恋愛を解消した時にお互いに話していた。
もう離れない、と。
次離れるときは、別れる時だと。

ファームでの仕事が一定期間とはいえ、また戻ってくるとはいえ、彼にとっては違った。
ビザの期間が延びたら私だけがオーストラリアに長く残ることになる。
でも私は、カナダでの滞在期間を延ばした彼(当時働いていた店で就労ビザを出してくれ、滞在期間を延長して5年間カナダに住んでいた彼)であれば、ここでも同じように働くうちに信用を得て、就労ビザを出してもらえるのではないか、そう思っていた。
不確かではあったが、私には確信があった。
でも彼はそうは思えていなかったようだった。
確かに、カナダとオーストラリアでは雇用の条件も移民に対する受け入れの姿勢も違う。
安易な考えは危険だったかもしれない。

そして何より、彼に対するある種”裏切り”となってしまうような気がした。そしてこの計画は一瞬にして、消え去った。


そんな中、あっという間に2ヶ月が経過し、語学学校が終わりを迎えた。
語学学校は2ヶ月間だけだったが、そこでできたタイ、コロンビア、チリ、韓国、そして日本からの友達たちと交流を持ち、遊びに出掛けていた。

そして語学学校卒業の日、
「このメルボンという地でバリスタになるという夢を叶えます!」
こう宣言し、先生とクラスメイトたちへ別れを告げた。


学校へ行くこともなくなった私はいよいよ、バリスタになるための求職活動をすることになった。
が、思うように気持ちが入らない。
オーストラリアに降りたったあの日から抱えていたネガティブな感情が、ずっと心の中にあったのだ。

それでもとにかく、まずは仕事を見つけて働かないと。
ある程度の貯金は持っていたが無職で海外生活となると不安はある。
通りを歩く度に目にするホームレスの人たち。
物乞いをする彼らに慈悲の念を抱くと共に、”明日は我が身”と常に不安も押し寄せていた。

日本と違ってレジュメ(履歴書)を持ち歩き、飛び込みで働かせて欲しい意志を伝えるオーストラリアでの求職活動。
聞いてはいたが思いの外、ハードだった。
いくら日本で飛び込み営業をしてきたからといっても、言葉の壁は大きい。
日本語だと難なく潜り抜けられることも、ここではそうはいかない。
「Are you hiring?」
(今、求人していますか?)
この一言を言うにも勇気が要る。

日本であんなに堂々として物怖じしなかった私が、まるで別人のよう。
面接にこぎつけるも上手く話せない。
とりあえず接客ではなくコーヒーを作る仕事をメインでとトライアル(試験的に数時間働いてみること)してみるも、結局はスタッフ間の意思疎通に難ありで採用に至らず。
「ななはコーヒーのスキルはある。でもそれだけじゃダメだ。積極的に人と話し、コミュニケーションを取らないとやっていけない。」
全くもってその通りだ。
自分でもわかっていた。
本来の自分はこんなんではないのに。
持ち前のコミュニケーション能力がここでは発揮できず、言葉の壁によって本来の私を出せずにいた。

ー悔しい。

そんな風に気弱に求職活動を続けているうちにいつしか、素の自分が出せなくなるどころか、本当の自分が何なのかさえも分からなくなっていた。

ー英語を話すのが、怖い。

そんな思いが私を支配し、求職活動おろか、レストランやカフェ、アパレルショップ等、どこへ行っても英語で人と話すことを避けるようになり、
家と、店員との会話が必要ないスーパーの行き来だけをするようになっていった。
英語を耳にするのも嫌になっていた。

ここにいるのが正解なのか、
自分にとって良い選択なのか、
分からなくなっていた。

当然、彼にはそんな思いを言えず、一人悶々とした日々を過ごしていた。
彼は今まさに、自分の確固たる夢に向かって歩んでいる最中だから。
邪魔をしたくなかった。
でも、彼の夢を応援する力も今の自分にはないと感じていた。
このままここにいても、私は成長するどころか、自分自身を見失ってしまう。
そんな気がしてやまなかった。
なんとか自分自身を保とうと、ヨガをやり始めたのはちょうどこの時から。
見よう見まねでやり始めたヨガや呼吸法によって、外側から自分を整えることで内側を整えようと努めていた。
心と体は繋がっていると知っていたから。

ただそれでも、自分の中にある感情も思いも上手く言語化できず、自分の望みもわからないまま、虚しさを抱えたまま時間だけが過ぎていった。

そんなある日、青森にいる親友と電話で話していた時、抑えきれなくなった胸の内を彼女に伝えた。

気が付くと、過呼吸になるほど泣いていた。
内に秘めていた、溢れ出る感情を言葉にした瞬間、涙が止まらなくなっていた。


「このままそこにいたら、ななちゃん死んじゃうよ。自分を見失っちゃうよ。帰っておいで。帰国することは、逃げじゃない。自分のやりたいことや夢になかなか踏み出せない人がいる中、行動しているななちゃんはそれだけで立派だよ。」


親友のその言葉に、心から救われる思いだった。
普段から友達や家族、親友とでさえも連絡を取らない私。
これまで何かに悩んだり躓いたりしても、誰かに相談することなく、いつも自分一人で問題と向き合って答えを出してきた私。
だって答えはいつも自分の中にあると信じていたから。
それが私のモットーだった。

そして今回の留学で帰国という選択をすることは”逃げ”であり、”挫折”となることを恐れていた。
すべてを見透かしたかのように、あたたかい言葉をくれる親友。
様々な感情が一気に溢れ出て、処理しきれなかった。

でもただ一つ、はっきりと分かったことがあった。

それは、
”このままだと自分自身を見失う”ということ。

そう、実はこの思いがずっと、日本にいる時から彼との付き合いの中で感じていたモヤモヤの正体だったのだ。

それを言語化してくれた親友には心からの感謝しかない。

それと同時に気づいたことがあった。

それは、
”自分自身で自分を満たせていないこと”
”足りない何かを彼に満たしてもらおうとしていたこと”

以前から、心で薄々感じていたことだった。
心の中の違和感が自分にとっていかに大切であるか、自分の人生の指針を決める大切な要素であるかを身をもって体感した。

それまで私はその違和感と向き合うことをせず、無視していた。
それによって自分自身を苦しめていたことに気付いた。

ここがはっきりとした私は、彼にこれまでの思いと私の決意を伝えた。

”ここにいたら自分を見失ってしまうこと”
”そんな状態で彼の夢を応援することも、一緒に叶えることもできないということ”
”このままの自分では彼の負担にもなる。だからまずは自分を取り戻すために、日本に帰国すると決めたこと”

そして、「別れよう」と伝えた。

最愛の彼にまさか自分から別れを伝える日が来るだなんて、微塵も予想していなかった。
愛しているのに離れるという意味がわからなかった私がこの時初めて、どんなに好きでも、お互いに愛し合っていても、必要な別れがあるということを身を持って知った。

人生でこんなにも誰かを愛した経験がなかった私だったが、最愛の彼との別れを決意するほど、限界がきていた。

ー自分自身を見失ってまで、誰かを愛することはできない。


そんな私の思いに対する彼の反応は”NO”だった。
”愛しているから離れたくない”
”とにかくここに居て欲しい”
”お金のことなら自分が稼ぐから心配しないで”
”帰国しないで欲しい”

素直に嬉しかった。
それでも当時の私には、受け入れられなかった。
受け入れてはいけないと思った。
自分自身をこれ以上蔑ろにできない。
これ以上、心の違和感を無視できない。

「ごめんなさい。」

心が張り裂けそうだった。

彼にとって、人生の優先順位が私ではなく、自分の長年の夢を叶えることだと知っていたからこその決断でもあった。
彼の中の優先順位が今ここで私になってしまったら、彼の夢の実現の足を引っ張ってしまう。
金銭面はおろか、付き合い始めから彼から聞いていた彼の人生のビジョンを考えたときに、これ以上彼の足枷になりたくない。


そして私自身も、彼を愛する前に自分自身を愛する必要があった。
自分自身と根本から向き合い、”自分を愛する”こと。
私に足りないものは明確だった。

ここで別れるのがお互いにとって最善だと思った。


そう心に決めた私に彼はこう言った。
「遠距離でもいいから関係を続けよう。」

きっと彼も、突然のことで受け入れられなかったのだと思う。
普段から自分の胸の内を相談すればよかったものの、それができずにいたことで突然の話となってしまったこと、彼には心から申し訳なく思っていた。

彼にも時間が必要だった。
そして私たちは遠距離で関係を続けることにした。

2020年の4月下旬、
半年にも満たないオーストラリアでの生活に終止符を打ち、日本へ帰国。

そこからまた、彼との遠距離恋愛が始まった。

帰国後は実家へ戻り、身の回りを整えることから始めた。
実家暮らしとはいえ、まずは生活するためのお金が必要だったし、仕事を通じての学びややりがいに飢えていた私はすぐに求職活動を開始。
帰国前、帰国後と彼と話していた今後のビジョンは、1年でビザが切れるタイミング(12月頃)で帰国する彼とまずは日本のどこかで一緒に暮らす。
日本で肌に合う地があればそこでカフェを始めてもいい。
そんな漠然とした考えだった。
でも私は、彼がカフェをやりたい場所は日本のどこかではなく、海外のどこかだろうということを以前から感じ取っていた。
それは日本と海外のコーヒー文化の違いだけでなく、接客スタイルの違いや国自体の文化や制度の違い、総合的に考えて。

だからとにかく私はお金を稼ぐことを一番に考えた。
彼が日本へ戻ってくるまでの間に二人の暮らしに必要な資金を貯めようと、そんな思いでいた。
週5フルタイムで派遣の仕事をしつつ、掛け持ちでカフェでアルバイトをすることに。
やっぱりどこかでコーヒーには浸ってたかった。
コーヒーと関わる仕事が恋しかった。
そんな風に日々を過ごしながら、彼とのやりとりも欠かさず毎日とっていた。
海外歴のある彼も、日本にいながらもどこか生きづらさを感じて常にオープンなコミュニケーションを好んでいた私も、お互いに愛情表現はストレートだった。
LINEや電話で「愛してる」と日々愛を伝え合うのも大切な習慣だった。
彼の向こうでの生活もなんとか順調なように見えた。

働いているカフェでヘッドバリスタとして残って欲しいと、就労ビザのオファーが出そうになっていたのだった。
やっぱり!と喜ぶ私。
でもそうすると彼の向こうでの滞在が延長される。
喜ばしいがどこか寂しい気持ち。
そんな思いもあった。
それでも彼の夢を応援していた。


そして月日は流れて半年後の9月下旬、
ちょうど私の30歳の誕生日を目前に控えていた頃だった。

いつも通り彼とLINEでやり取りをしていると突然、「話したいことがある」という彼。

一瞬にしてなんだか嫌な予感がした。


「別れよう。」



突然のことで、頭が真っ白になった。
処理できなかった。
「なんで?」「突然どうして?」「昨日の昨日までいつも通り愛していると言ってくれていたのに?」

なんだかんだで1時間半〜2時間ほど話していた記憶はあるが、内容はよく覚えていない。

彼が言うにはこうだった。
私が将来結婚して子供が欲しいと思っている中で、自分がいつ叶うかもわからない自分の夢を優先させて動いた結果、私が子供を産めなくなる年齢になるかもしれない。そうなったら私の幸せを奪ってしまう。私の望みを叶えられる人と人生を歩んだ方がいい。

ー私の幸せ?
私の幸せは彼と一緒に人生を歩むことで、その先に結婚や子供があればより幸せだと思っているけど、彼がいなければそもそも幸せではない。他の誰かとこんな風に思えない。彼が何よりも大事。

そう伝えるも、彼の決意は固かった。
元々、お互いに結婚願望がない状態で出逢い、お互いを愛することで初めて”結婚”を意識するようになった私たち。
私は”結婚”という枠に囚われてはいなくて、あくまで人生を共にするパートナー。
もし子供ができたら、もしくは子供が欲しいとなったらその時には結婚した方が子供にとっても、そして色々と都合が良いよね。
そんな風に考えていた。

それがいつしか、彼がビザの期間を終了し、日本へ帰国したら安定した暮らしが待っていると、心のどこかで思っていたのだろう。
そして”結婚”や”子供”というワードを彼にも伝えていたことを深く反省し、後悔した。
いつの間にか彼にとって負担になっていたのだと。

兎にも角にも、私が何を言っても彼の意志は揺るがなかった。

「すぐにでもそっち(オーストラリア)へ行くから会ってちゃんと話そう。会わずにこの関係を終わらせることはできない。ちゃんと私の目を見て別れを告げて欲しい。」そう伝えるまでは。

電話一本で関係を終わらせ、明日から一切連絡を取らないという彼。
それに納得のいかない私がこう告げた瞬間、
明らかに彼は動揺した。

「それだけはやめて欲しい。せっかく決断したことが揺らいでしまうから。」と。


私が帰国を決め、彼に別れを伝えた時のことを思い出した。
”どんなにお互いを想い合っていても、愛し合っていても、別れなければいけない時がある。”

きっと彼も同じ気持ちを経験したのだと。


電話を切り、一生分の涙が枯れるほど泣き散らした二日後にこのことを深く理解した。
と同時に、オーストラリアに一人残された彼がどんな思いでそこで生活をしていたか、
この先の人生を考えた時にどれほどの迷いと葛藤があり、どんなに苦しんだか、
彼の立場になって考えられるようになって見えたこと、気付いたことがたくさんあった。
申し訳なさと感謝の気持ちが溢れた。


そしていつも、日本で一緒に生活をしている時からずっと彼が言い続けていた
「ななの人生を生きて。」
この言葉が身に沁みてわかるようになった。


私には彼しかいない、彼が私のすべて。
その想いで日々彼に尽くす私を見て、
”自分の人生のコンパス(軸)をしっかり持つように”と、
彼はずっと心で願ってくれていたのだと、この時初めて気付いた。


彼に対して、心からの感謝が湧き出てやまなかった。




誰かを”愛する”ということ。
これは彼との関係性を通じて学んだこと。


”自分の幸せ以上に相手の幸せを望めること”
”相手の幸せを想い、必要な決断ができること"


人を愛するということの意味も知らず、経験もなかった私に、彼は多くの気づきと学びをもたらしてくれた。
私の人生に必要だった、かけがえのない人。

本当に、本当に、有難う。




そしてこの経験を通じて、”好き”と”愛する”の違いが私にとって明確になった。
私の大好きな著者であるJAY SHETTYの言葉を借りるとこう。

"like"
ーWhen you like a flower, you pluck it.
(あなたがあるお花を好きでいる時、それを摘むでしょう。)

"love"
ーWhen you love a flower, you water it daily.
(あなたがあるお花を愛している時、あなたはそれに毎日水をやるでしょう。)



28歳、
愛について、そして人生について、たくさんの気付きと学びをもたらしてくれる彼と出逢う。

29歳、
彼との関係性、そして別れを通じて自分自身と向き合うきっかけをもらう。

そして30歳、
ホリスティック栄養学を通じて”自分を愛する”ということを学ぶ。







ここまで貴重なお時間を割いて読んでくださった方、本当に有難うございます。

次はいよいよ、私の人生を好転させてくれたホリスティック栄養学と、その学びの過程について綴りたいと思います。





With love and gratitude

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