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「人を傷つけない笑い」と「人を傷つける笑い」に見る、フレームワーク問題

https://www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_5eea05a6c5b6e63de82cb41b?utm_hp_ref=jp-entertainment

芸人の九月さんによる「人を傷つけない笑い」と「人を傷つける笑い」に関する記事。文化的な側面からお笑いの変化を取り上げていて大変興味深い記事なのですが、私はもう一つ、「お笑い」のフォーマットやフレームワークの問題があるように感じています。


第一の問題:キャラクタをビルドアップする時間がないので、共有しやすい前提条件が必要になる


2017年に、「保毛尾田保毛男」というキャラクタがLGBTQに対する差別であるとして問題になった事件がありました。

キャラクタ付けにおいてステレオタイプの活用は非常に重要です。どんなメディアでも、キャラクタの特性や性格的特徴は、見た目や名前、あるいは言葉遣いや挙動などのテンプレートで、万人がひと目見てわかるようにするのが一般的です。
ただし、逆に、見た目と全く相反するキャラクタであることが魅力となることもあります(サモハンキンポーのような「俊敏に動くデブ」とか、小柄な力持ちとか)。

なぜ、そうしなくてはならないのでしょうか?

一つは「わかりやすさ&キャッチーさ」で、もう一つはステレオタイプを導入することによって前提を共有し、「感情移入させる過程が不要になる」という利点があります。

「保毛尾田保毛男」というキャラクタに感情移入してコントを見る人はあまりいないと思います。どちらかというと、檻の外から珍獣を見て面白がったり、怖がったりするような楽しみ方になるのではないでしょうか。
動物園にパンダを見に行くなら、多くの人は座って笹を食べているシーンとか、水につかっているシーンを期待して見に行くはずです。逆に、人は「次にどうなるのか」が全く予測できない状況では不安や不快感を感じます。
「ホモ」と言われて大勢が想像するようなアクションを取らせることで、観客を安心させると同時に、期待に報うことで「面白さ」を感じさせることができるというわけです。

「猫が驚いてジャンプする動画です」「ホモみたいなキャラクタがホモっぽい挙動をするコントです」実は、これは本質的には同じ意味を持っています。つまり、わかりやすい前提条件で客の期待を作り、その通りのコンテンツを与えて期待に報うのです。

確かに、これではステレオタイプの笑いにされている人たちは傷つくことになります。しかし、お笑いやコントでは、キャラクタや世界観などの前提条件をビルドアップし、感情移入させるまでの時間を確保することは困難です。


感情移入とはなんでしょうか?

多かれ少なかれ、映画では主人公や主役級のキャラクタにフォーカスして観ることになります。感情移入がなければ主人公が危険に直面した時のハラハラも、困難を乗り越えた時のカタルシスも生まれません。
特に、客が座ってスクリーンを注視する(すぐに飽きられてチャンネルを変えられたり、閉じられたりする心配がない)劇場映画というメディアにおいてはキャラクタをビルドアップする時間が充分にあります。

仮に「ある人物はカレーが嫌いなのに、カレーをたらふく食べないと危険から脱出できない状況に陥る。カレーまみれになって脱出してきたのを見たおばさんにカレー好きと勘違いされ、大量のカレーをプレゼントされてしまう」というギャグを考えてみましょう。
これはお笑いでは難しいでしょう。わずか2~3分で、前提条件の説明から、シチュエーションの演出から、何から何まで説得力を持って行うのは困難です。連作のコントなら可能かもしれません。

九月さんは「ぺこぱ」さんの漫才を取り上げています。その中に「運転手(ボケ)とツッコミの漫才で、運転手が勝手に舞台脇に歩いていき、あさっての方角を向いて話を続ける」というギャグがあります。
ここでツッコミ役は「急に正面が変わったのか?」と問いかけ、自分も舞台脇まで歩いていき、ボケ役と同じ向きになって漫才を再開します。ツッコミ役もボケに加担するわけです。

これはどちらかというと「お笑い」というより劇や戯曲のそれに近いギャグです。観客がこのギャグを面白く感じるには、ある程度ツッコミ役のキャラクタに興味を抱いたり、同調できることが必要でしょう。
登場人物が思いもよらないことをした時、観客の視点が「檻の外から珍獣鑑賞」モードでは「なんだ、期待してたのと違うじゃないか」「???……なんだこれ?」となってしまいます。そのキャラクタのことをある程度「理解」して初めて、「この状況で、彼(彼女)はどうするんだろう?」という興味が生まれます。

お笑いに与えられた短い時間でそこまで持っていくのは至難の技です。

前提条件を素早く共有するには、ステレオタイプの他に舞台装置を使うやり方もあります。
「中世の人が現代にタイムスリップして、カルチャーショックを受ける(またはその逆)」「誰が見ても明らかに落とし穴とわかる床に向かって走っていく(観客からはあからさまに見えるが登場人物は見えていない「タライ」等)」といったものが代表的です。


第二の問題:「人を傷つけない笑い」は簡単に話のスコープが広がってしまい、作劇が散漫になりかねない


「ぺこぱ」さんの漫才は「否定しない優しいツッコミ」であると言われているそうです。件の漫才を見てみると、例えば「あなた芸人なの? ナスかと思った」とボケれば、「ナスじゃねーよ! とは言い切れない色合いの服だけど」と返します。ツッコミ役はボケをただ「斬って捨てる」だけでなく、それを受けてから話を広げようとします。

これは意外で確かに面白いのですが、うまくやらないとギャグのテンポが崩れたり、話の筋がぶれてボンヤリとした印象になってしまいかねない危険性をはらんでいます。

「普通」の漫才は「ナスかと思った」「ナスじゃねーよ」と受けては切って捨てることを繰り返してテンポを作ります。これには重大な意味があります。「あなたはナスですか?」という話題を出されてすぐに捨てることで、話の筋を直ちに「運転手と客」という本題の部分に戻せるからです。そしてそこからまた、別なボケとツッコミのキャッチボールを行い、またすぐに捨てる。
これを繰り返していくわけですが、この個別の話題に意味はなく、その先にあるもっと大きなネタに向けて「テンポを作る」「場を暖める」わけです。ここで下手に、出てきたボケを拾って話を広げていくと、話のスコープが広がってしまい、畳むのが難しくなります。

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純文学や、前衛的な劇ならともかく、エンタメにおいて話の筋がぶれるのは基本的に良いことではありません。「話が何に・どこに向かって進んでいるのか」がわからなくなってしまうと、観客の興味を保てなくなります。
また、お笑いでは、話が広がるとそれを回収するほどの時間も無いでしょう。

つまり、「ぺこぱ」さんの漫才は非常に難しいことをやっているわけですし、その代償も見て取れます。個人的には、件の漫才にはボンヤリしたイメージを受け、なかなかうまく同調できず、何度も見ないと面白さがわかりませんでした。もしかすると、「ぺこぱ」さんの漫才はどちらかというと劇(コメディ)のようなものを志向しているものの、発表の場に合わせて仕方なくお笑いのフォーマットに圧縮したのかもしれません。


どうしたら良いか?

私は、文化芸術的な要素のある分野では、その文化的な側面(「文系」の部分)と、技術的な側面(「理系」の部分)の両方から分析する必要があるのではないかと考えます。しかし、それを行うにはかなり特殊なマインドセットが必要で、なかなかそういった分析が行われてこなかった経緯があります。

たとえば、日本では70年代に「根性もの」「熱血バカ」というような、大量に出血し、死者が出るまでトレーニングしたり修行したりする様子が延々と描写されるスポーツ漫画やバトル漫画が一斉を風靡しました。
そうした描写も時代とともに鳴りを潜め、2000年代からは「能力モノ」が現れます。このジャンルでは、登場人物は生まれつき特殊な能力や強大な力を持っているので、べつに訓練する必要はありません。

文化的側面からは「高度成長期が終わったから、その時代性の現れ」と評することもできます。実際、そういう部分もあるのでしょう。しかし技術的側面からは、エンタメとしての漫画のフレームワーク的な問題であるとも言えます。
一番派手で面白い部分である「強者同士がぶつかり合う」に至るまでの過程が長すぎたし、徐々にウケが悪くなったので、なるべく早く本題に至るように、キャッチーにとフレームワークが改良されていった結果、「生まれつき能力者だから」という理由付けが生まれたのだとも言えます。

話を一番最初に戻して「保毛尾田保毛男」の件を論ずるならば、つい「差別意識の低いお笑い業界・テレビ界」といった風に考えてしまいがちですが、LGBTQに対する差別というのはあくまでも結果であって、
大きな原因はステレオタイプに頼らざるを得ない、短い時間で観客を満足させなければならないお笑いの諸条件や、それに合わせて改良されてきたフレームワークであると考えることができます。件のコント自体に罪はないのではないでしょうか。

実は、お笑い業界やテレビ界の「人を傷つけない」ことへの意識はむしろ高いと考えられます。「保毛尾田保毛男」の場合、「昔のものをなるべく当時のまま復刻する」という別の意識が働いて、時代に合わないものを出してしまったということなのかもしれません。テレビではステレオタイプ的な笑いや、一般人を傷つけてしまいかねない笑いが排斥されていき、ひたすら身内の芸人をいじるようになりました。
つまり、みんなが知っている芸人なら、その人のキャラや人格という前提条件が共有されているので、ステレオタイプに走らずとも幅広い笑いができると考えたのだと思います。ところが今度は、それが内輪感とか、ネット流行の後追いだとか、「毒がなくてつまらない」となってしまうのです。

お笑いとしては、「人を傷つける笑い」「人を傷つけない笑い」という二極で考えて、前者が悪くて後者が良いんだというようにしてしまうよりも、
自発的にお笑いのフレームワークが多様化できるように、もっと広がりができるように業界全体としてサポートしていくことが結果として「人を傷つけなくする」ことに繋がるのではないかと考えます。

そこには観客が求めるもの、つまり即効性の笑いを提供するという市場原理も働いている。しかし、私はお笑い業界やテレビ界から、それを乗り越えようという意思も感じるのです。

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