小説が苦手なエンジニアやギークにおすすめしたい作家:筒井康隆

私は小学生くらいまではコンピューターのことしか頭にありませんでした。本屋に行っても文庫本には目もくれず、小説なんてほとんど読みもしませんでした。「理系は理系のことをやり、文系は文系のことをやる」というような固定観念があったように思います。

クリス・クロフォードはかく語りき

そんな私に冷や水をぶっかけて目をさましてくれたのは、米ソの核戦争を扱った「バランス・オブ・パワー」「シブートの遺産」などのゲームを代表作に持つクリス・クロフォード氏の「Chris Crawford on Game Design」(2003)でした。この本でクロフォード氏は「(当時の)ゲームデザイナーの殆どは完璧な物理法則をシミュレートした箱庭を作れば、感動的なストーリーが生成されると思っている」と批判します。

実際、2003年からの10年間はメインストリームのゲーム業界にとって「完璧な物理エンジンの箱庭世界」を思い求める時代であったと思います。そして結局、滑稽で笑えるシーンはできても、思い描いていた映画のようなスリルあふれるシーンやロマンスはできなかったのです。

(筆者翻訳)
 "多くの興味深い進展にも関わらず、ストーリーテリングとゲームは未だに離れ離れで、この二つの融合の可能性に関して私は悲観的です。インタラクティブ・ストーリーテリングにほとんど未来が無いというわけではありません。私が言いたいのは、ストーリーテリングに関してはゲーム業界から何かインプレッシブなものが出現するとは思えないということです。本当の問題は核心的な部分にあります。ゲーム業界はテッキー・ギーク絶対主義の砦で、頭のわるいアートな人々が歩む場所などありません。彼らは内心、技術的なディテールに関して充分な注意をはらえばどんな問題であっても解決できると思い込んでいます
(略)
 コンピュータでゲームの世界を作る時、彼らが最初にすることは空間座標系とワールドマップをセットアップすることです。そして、物理的なオブジェクトを追加していき、それらに(仮想世界にプログラムされた物理法則に従う)プロパティを授けるのです。実に美しいですね。ストーリーテラーが仮想世界に着手する時は、全く違うアプローチを使うことでしょう。彼女の最初のタスクはおそらく数人のキャラクターを創造し、ドラマチックな特質を授けることです。ドラマチックな行動が起きるであろう、さまざまなステージの空間的関係に手を焼く時間はありません。これがゲームデザイナーとストーリーテラーの根本的な違いです。ゲームデザイナーは森羅万象を、巨大な、あらゆる目標を達成するために充分な正確さでシミュレーションされた物理システムであると見なします。人間の言語で宇宙を定義できるという発想は、彼らにとって全くのナンセンスです。これはゲームデザイン世界の創作力を支配するおろかな強迫観念に直結します。ストーリーは他のどんな部品とも変わらずにゲームに押し込むことができると思っているのです。彼らにとって、ドラマとはもうひとつのシミュレーションされた物理的システム(弾道学や光学のような)でしかありません。ゲームは相互作用するサブシステムの集合体です。3Dエンジンと、物理エンジンと、ああ、はい、ドラマエンジンと。私たちはただ単にいつものシューティング、パズル、リソースマネジメントゲーム等から始めて、ちょっとしたドラマもそこに詰め込めばいいのです。ハリウッドの専門家を雇って何か優れたものを書かせれば、あとはただブチ込めば良いということでしょ?
(略)
 ストーリーを理解するには、あなたはRomantic(大文字のRで)になる必要があります。ゲームの人々が理解することは、決してないでしょう"

これを踏まえた上で、日本の偉大な作家の一人である筒井康隆をご紹介いたします。筒井氏はまさにテッキー&ギークの頭脳を持ち、大文字のRで始まるロマンティックやユーモアを感じ取れるハートを持った大作家の一人です。私の小説嫌いを直してくれた作家でもあります。

ギークなみなさまに小説入門としてお薦めしたいのは、「七瀬シリーズ」や「時をかける少女」といった有名な作品ではありません。「虚航船団」「残像に口紅を」です。

この2つの作品は、ある種のゲーム性小説とでも言いますか、文章の構造そのものや読者や手玉にとって遊ぶ、失礼を承知でたとえるならプログラミング言語で言えばWhitespaceやBrainf*ckのような珠玉の作品なのです。

虚航船団

この作品はとにかくありとあらゆる手を使って読者をふるい落としてきます。

まず、第一部はパラノイアの文房具だけで構成された宇宙船がひたすらどこかに向かっていく様子が描写されます。それも最初から最後まで改行一切なしで、紙面中びっしりと。

また、トマス・ピンチョンの小説ほどではありませんが、それでも普通に考えたら異常な数の登場人物(登場文具?)が出てきますので、把握するのは一苦労です。

気になるのはひたすらカウントアップを続けている文房具です。彼はもうすぐ桁が上がりそうです。桁が上がったらどうなってしまうのでしょうか?

第二部ではそこまでの展開を全てぶった切って、地球のような架空の惑星の文明の歴史が延々と、わりと淡々と語られます。グラフなどのビジュアルもふんだんに使われており、世界史の教科書のようです。第一部を耐えた読者のほとんどはここで脱落します。誰かが考えた(しかも何百ページにも渡って徹底的に作り込んだ)架空の世界史を読まされるのですから、ほぼ拷問のようなものです。しかもそれをわかって書いているのだから良い意味でたちが悪いです。

第三部では、ついに文房具が地球? 文明との全面戦争に突入します。このパートはここまでのふるい落としに耐えて生き残った読者へのご褒美のようなものです。最後まで読めばまとまった年表も掲載されているので、疑問も一挙解決……します。終わり方はなんとなく火星年代記「百万年ピクニック」を想起させます。

ただ長いだけではなく、感情移入できないように作られたキャラクター、びっしりと細かい文字で書かれた第一部、淡々としすぎな第二部というように、あらゆる手を使ってこの作品に挑戦せんとする読者を苦しめ、あわよくば作品中の文房具よろしく頭を狂わせようとしてきます。個人的には奇書として有名なドグラマグラよりもある意味危険な一作だと思いますが、最後まで読めた時の喜びはひとしおです。虚航船団が読めるならほぼ読めない小説はありません。(ピンチョンの作品とかフィネガンズ・ウェイクとかは無理かも……)

残像に口紅を

「虚航船団」で苦しむのは読者ですが、こちらの作品で苦しむのは作家自身なので虚航船団より初心者向けです。

この作品は一種のリポグラムになっていて、使える文字が(厳密には日本語の50音から使える音が)作品の中で徐々に減っていきます。登場人物やある事象がその制約の中で表現できなくなった時、その人物やものは消滅します。次から次へとあらゆるものが世の中から消えていくのですから、一種のホラー小説のようでもあります。

それだけに飽き足らず、この作品は演説やアダルトシーンといった難関に次々と挑戦していきます。言うまでもなく、最後の方はほぼ擬音だけというような状態で、何もかも消えていく様はある種の清涼感すらあります。

またこの作品にはバグがあり、使ってはいけないはずの音が含まれている部分がいくつかあるそうです。間違い探しをしてみるのも楽しいかもしれません。

余談ですが、リポグラムを提唱した大本の団体にはあの「噴水」「LHOOQ」のマルセル・デュシャンも所属していたそうな。こうしたある種のパロディ性のあるアートを総じてネオイズムと言ったりします。完全に余談ではありますが。

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