野村克也と「言葉」の有用性

ノムさんが亡くなった。

私は現役時代の、三冠王を獲得した「選手:野村克也」はリアルタイムで観ていないが、ヤクルトを常勝軍団にした「監督:野村克也」の時代をリアルタイム観ていた。

ノムさんは「言葉」の人だった。
「スポーツ」と「言葉」は一見すると別ジャンルの様だが、この2つは決して無縁な存在ではない。

野球というスポーツは身体的な「行動」だが、指導には「言葉」が重要だ。黙してひたすら身体を動かす、というのも必要だが、あらゆるスポーツには「道理」が存在する。筋トレひとつとってみたって「どの筋肉を鍛えるべきか」を考え「その筋肉を効果的に鍛えられるトレーニング」を導き出し実践すれば、より効果的に時間も短縮して鍛えられる。

「道理」を「言葉」にして伝える。これこそが野球人:野村克也が業界に大きな影響を与えた要因の一つだ。ノムさんが道理を言葉にせず、自らの頭の中だけで留めていたら、その叡智は拡散されることなく消失していたかもしれない。だが、言葉に残した事で、その叡智は多くの人に広まった。

言葉が有用なのは、直接の「関係性」を要しなくても学べるということだ。もう既にあらゆるジャンルでそうした「学び」のスタイルが一般化している。偉大な画家に、音楽家に弟子入りせずとも、集約された言葉で、理論で学び、素晴らしいクリエイターになった人がこの世界には沢山いる。他にも落語では立川談志、アニメでは押井守などが自らの知恵を言葉に集約した事で多くの人に影響を与えた。

言葉に残す事は「後の世」に大きな影響を与える。
そして、言葉を発した当事者が「この世」から去っても残る。

ノムさんは亡くなってしまったが、
ノムさんの言葉は無くならない。

そしてノムさんが残した様々な叡智の土台の上で、グラウンドの上で
野球という素晴らしいスポーツは、これからも続いていくのだ。

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