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60歳を超えると言うことを考える

最近書店で平積みになっている「80歳の壁」(和田秀樹)という本が気になり手に取ってみた。同様に「定年後」(楠木新)も一読してみた。その感想めいたことを。

■60歳を超えると言うこと(定年)

私自身は、サラリーマンでいることはごく短い期間であり、単独で行動してきたので定年と言うことには縁が無い。正直に言えば、定年の戯言には興味が無い。

しかし理解はできる。

50歳を迎える頃、大学の同期の集まりで、役職定年を迎えた友人から「来月から工場長でなくなる。なんか会社から要らないと言われた気分だ」と聞かされた。55歳を迎える頃、最初の会社の同期から、「来年から嘱託になる。仕事は同じなのに給料が半分になる」とぼやかれたことがある。当時は、定年が55歳で、60歳まで雇用延長が求められ始めた時期だ。「おまえはいいよな」と、彼らは自分の給料が補償されているにもかかわらず文句を言う。

何が不満なのだろう。不満ではなく、不安なのだろう。定年という制度は雇用を保障してくれる一方、ある日を境に突然失うものを目の前に突きつけられる。

会社には行かないくてよいが行くところも居場所もない。
名刺を失い、自分のアイデンティティを奪われる。
今まで家族に優位性をもたらした給与もなくなる。

これが定年の不安をもたらすものだろう。
しかし、失ったものを失ったと感じるのか、そういうものから解放されたと感じるかは自分次第だ。
最初からそんなものとは無縁の自分は、適度な所有で満足している。
その生き方が正解とは言わないが、不満を言い続ける日常よりはましだ。

ただし、収入に関する不安は理解できる。当然だろう。生活にはお金が必要だ。だから、どう収入を確保するのかは定年後にも必要な認識だ。

これは・・・まぁ人それぞれだ。

■60歳を超えると言うこと(死)

60歳ぐらいになると、共通の経験をすることが多くなる。
身の回りに「死」が多くなる。

大学生の頃、内ゲバに巻き込まれて級友が殺された。数日前には元気な顔を見ていたので、早朝のニュースに衝撃を受けた。死というものを身近に感じた事件だった。

その後も、かつての同僚の孤独死や、級友・知人の癌での病死などを経験している。
いまは、そうした知人の死を思い出すことが多くなった。

私事だが、14年前には父が亡くなり、昨年、伯母、義父、母が相次いでなくなった。
身の回りの近親者がなくなるというのは思いのほか心に残り、やはり残されたもののメンタル面に何か起きないか心配になる。

60歳を超えると、若いときには考えもしない身近な死が起きてくる。実務上は「相続」が
あり、実際に経験すると思いのほか大変だったことが分かる。相続に関する知識は身につけておいた方が良い。

忘れてはならないのが「自分の死」だ。
まさか自分は死なないと思っていないだろうな。

■60歳を超えると言うこと(コップの半分の水)

この手の本は不安をあおるようで好きになれない。

半分水が入っているコップを差し出し
「まだ半分残っていると考えるか」
「もう半分しか入っていないと考えるか」
と言う問いかけがある。
貴方はどう答えるか?

わたしは、
「水と空気でコップはいつも満杯さ」
と答える。

<閑話休題>

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