私は、映画に「現実からの逃避」を求めるために、サイコスリラーというジャンルはほぼ観ないのだが、4年生の後期に、映画に関する授業を受講していたこともあり、いろんな映画を観てみようと思い、いくつか鑑賞したので、感想をメモ的に残してみる。 『TAR』 繊細で緊張感がずっと続く。一言で言えばそんな感じの映画だった。分かりやすい見どころや、盛り上がりのない映画に対して、多少の苦手意識があったが、この映画は単調ながらも、独特の緊迫感があり、飽きることなく観ることができた。この映画を観て
”哀れなるものたち”とは、誰のことなのか。 物語の序盤では、ベラやゴッドのことであると思った。 マイノリティ、世の中から排除されるアウトサイダー的存在。 外の世界を遮断して、狭い世界で生きている彼らこそ、哀れなるものたちであると思った。 しかし、ストーリーが進むにつれてダンカンやベラの元夫こそ、”哀れなるものたち”であるのだと感じた。 ダンカンは世界を旅しているし、ベラの元夫は社会的地位のある仕事をしており、ベラやゴッドとは対極な存在として描かれる彼らだが、彼らは資本主
重いんだよ きっと私の愛はそういう感じの愛 ココナツみたいなバニラみたいな もしかするとそんな甘ささえ携えていない 愛されたいから愛してる 言われたいから言っている 自分の尺度でしか愛を測れない エゴだ あまりに幼稚 そんな愛、送られた者からしてみれば迷惑極まりない その重圧で疲弊してしまう 今あるものに感謝できない 足りないものばかり気にして足りないと喚く 痛々しいに違いない わかっているのに そんな私が人を好きとか大好きとか言う資格ない そもそもこの気
あけましておめでとうございます。 前々から思っていたことをようやく言語化できた。 2024年元日、恋人に対してもやもやした感情を抱いたまま恋人と初詣に行って、なんだかいまいち自分の感情を盛り上がらせることができないまま解散して、なんだかとっても寂しくなってひとりでお酒を飲んでいたら、バカでか感情に襲われてしまった。 私は、少し酔いが回ってくると、日頃考えていることが体系化できる。今すぐ書き留めておかないと、どうせまた、感情を言葉にできないもどかしさに苦しむことになる気が
私には、やる気を出したいとき、リラックスしたいとき、悲しいとき、など日常のシーン別に再生するプレイリストがある。同じように、シーン別のプレイリストを作成しそれを公開している友人も何人かいる。 私は、友人たちが作成した、そのような日常のシーン別のプレイリストを聴くこで、彼女たちの人生を追体験することができると思っている。もちろん、完璧に追体験することなんて不可能だし、それを聴いていた彼女たちの気持ちを100%理解することもできない。なんなら1%も理解できていないかもしれない。
先日、始発で家に帰った。 もしかすると、普段の私が「さて、そろそろ眠りにつこう」とか考えているような時間帯にはしる電車に乗ったのだ。 生ぬるい夜明けの空気、薄暗い空と鳥の声。 色んなことを思い出す。 まだ外は薄暗いというのに、煌々と電灯が光る車内。 青白い電灯の光は、眠い身体を無理やり起こすような、なにか不健康なものに思えてならなかった。なんだか不自然。 いや、早朝なんだからこれはこれで健康なのだろうか。 私にとって、始発といえば夏。 8月終盤に、夏を味わった出来事
なんだか今夜は孤独なので、お酒を飲みながら気の抜けたものを更新しようと思う。ネイルを乾かすついでに。 関係ないけど、私はネイルを乾かす時間はたいていタイピングしている。爪が何にも触れないからよれることもないし、暇を持て余すこともない。書くものがないときは、それがスマホをいじる時間になってしまうのだが… さて、ついこの間、待ち合わせについて考えた。ちょうど人を待っているときに。 私は、待ち合わせスポットで人を待つときの、あの一体感が好きだ。ハチ公前とか、舞浜駅の改札とか、
どんだけ友人好きなんだよ、という感じだが、前回に引き続き、友人の記事に影響されてアンサーソング的に私の尊敬する人について書いてみる。 友人は、何かを創造する人を一番尊敬してるらしい。高校時代から、そんなことを話してくれていた気がする。そして、自分がいちばん尊敬する人が、なんの道の人であるかで、自分が本当にやりたいことが分かるとか。向いているかは置いておいて。 何かを創造する人、という彼女の意見に引っ張られている気もしないでもないが、私が尊敬する人は文章を書く人。言葉を使っ
先日、友人がnoteを始めた。noteの存在は知っていたものの、大学の課題で、ただ単位を取得するために、最低限の文字数を稼ぐだけのゴミのようなレポートを大量に生み出した経験以外、文章を書いた経験がない私にとって、noteを書くという行為はハードルが高いものだった。 それでも、絶望的な記憶力のために、いつしか幸せな時間の温度さえ思い出せなくなっている自分に気づいてから、何とかして幸せを残そうと、たまに日記はつけていた。だから、文章を書くことが嫌いなわけではないのだ。むしろ、い