生い立ちについて①
こんにちは。なびおです。
今回は、自分自身の生い立ちから現在までを覚えている範囲で振り返ろうと思います。特別自慢できることもないので期待はしないでください。
結婚式の時、よく見る生い立ちムービーなどは恥ずかしくてやらなかったので、これまで生い立ちなどを人に話す機会はなかった。noteに出会い、いいキッカケをいただけたと思います。
これまで書いたものとは違い、今回は筆が重いというか書きたいのに書きたくないみたいな感情です。書き終わればそんな気持ちもスッキリするかもしれませんね・・・
誕生
私は、1985年5月に兵庫県尼崎市で生まれた。
ごく普通の両親と2歳はなれた姉がいる。
当時は大阪府の泉佐野市に住んでいたが、母親が尼崎で育ち、実家も尼崎ということで里帰り出産をしたと聞いた。
泉佐野には、4歳ぐらいまで住んでらしい。団地の10~15階ぐらいに住んでいて、近くの海によく遊びにいったみたい。関西国際空港の工事が始まってからは、海が汚くなって遊びにいけなかったと聞いた。
近くの泉佐野漁港市場によく買い物にいった。この記憶は少し残っており、大人になってから懐かしさを求めて買い物に行った。(実際に見てもなにも懐かしくなかったのが残念)
初めての引っ越し
4~5歳の時、大阪府交野市へ引っ越しした。
父親の転職が理由。母が言うには、父はよく仕事を変わっていたらしい。
海辺の泉佐野とは正反対な山の交野市。冬には雪も積もった。
引っ越し先は団地の5階で、階段しかなかったので足腰が鍛えられたと思う。団地に住んだことがある人には分かる、生ごみを一階のごみ捨て場まで落とすダストシューターがあった。(今もあるのかな?)
引っ越してすぐ、姉と一緒に近くの商店までおつかいにいった。同じ形の団地が並んでいたので、違う棟の建物に帰ってしまい玄関をあけてもらえず泣いた覚えがある・・・両親がわざと閉めていると思っていた。(家を間違えているので開けてもらえるわけがない)確か、おうちの方が出てきてくれて間違えてることを教えてくれ無事に帰れたと思う。
その後、近くの幼稚園に入園し、母の自転車の後ろで送り迎えをしてもらった記憶がある。
幼稚園の記憶はほとんど覚えておらず、記憶にあるのは、茶道の授業があったことと、絵のコンクール?みたいなもので私の作品が選ばれ、ファミリーレストランに飾られることとなったこと。家族で招待され、ご飯を食べにいった。
その絵の写真を大人になってから見ることがあった。
ひどい絵だ・・・確か近未来をイメージして書いたはずだったが、どうみてもラクガキにしか見えない。記憶をたどると、自宅にはそのファミリーレストランのロゴがはいった業務用のパレットがあったことを思い出した。恐らく父がその関連に勤めており、なにか力を使ったのではないかと思う・・・
後に書くが、11歳の時に両親は離婚し、父と離れたので真相は謎のままである。単純に絵が認められたと思いたい・・・
小学校は近くの藤が尾小学校に入学。
男女10人づつで、1クラス20人ほど。2クラスしかなく、私が4年生の時は、新一年生は1クラスになるほど子供の数が少なかった。
私は身体が大きいほうで、背の順も常に一番後ろ。明るい性格でみんなを笑わすことが好きだったことを覚えている。当時はよくとんねるずの真似をして遊んでいた。又、外で遊ぶのが好きで真っ黒に日焼けしていた。
記憶が曖昧だが、よく一緒に遊んでいた友達がいたのだが、今どうしているのだろうか・・・
その子は、恐らくお風呂にはいっておらず、いつもボロボロの同じ服を着ていた。足の裏が真っ黒で匂いもきつかった。当時6歳ぐらいだったので、そこになにも違和感を感じることはなかった。今思うと、普通ではないと思う。
その子の家は少し離れた団地に住んでおり、家の中は布団を敷きっぱなしで犬かネコを飼っていたと思う。きれいな部屋とは程遠く、匂いも気になった。それにペットの糞がそのまま落ちていたのを覚えている。中学生のお兄ちゃんがいて、めっちゃ怖かった。
家に連れていくと母ができる限り別の友達と遊ぶように言われた。気づけば、いつの頃からかその子と疎遠になっていった。その辺りの記憶が曖昧で、同じ小学校にその子がいた記憶もない。(同じ校区である)転校したような気もするが・・・これに関しても私が5年生で転校したので、ここの学校の卒業アルバムなどがないため謎のままである。
少年野球チームへ入団
4年生になり、野球と出会う。
父に空手をやれと言われていたが、痛いのは嫌だったのでやらなかった。特別好きなスポーツは無く、スーパーファミコンばかりやっていた。特に野球は好きなテレビ番組が休みになるから嫌いだった。
ある日、友達が公園で野球をして遊んでいた。別の小学校の子たちと試合をして遊んでいるのに混ぜてもらった。初めてやる野球は楽しかったのを覚えている。
この夏に、高校野球「松山商業対熊本工業」の決勝戦をテレビで見て感動し、友達らが所属していた少年野球チームに入りたいと母にお願いした。
お願いは認めてもらい入団したが、実際は遊びの野球とは違い、楽しくなかった。
毎週土・日曜日と練習の足取りが重かった。投げれない、捕れない、打てない。センスのかけらもなかった。
半年練習し、五年生となった。試合にも出してもらえるようになり、バットにボールも当たるようになった。守備は苦手。
バッターボックスに立つのは毎回緊張したのを覚えている。運動神経は学校内でもいいほうたったが、野球のセンスはなかったのを覚えている。
はじめての悪さ
4年生か5年生の頃の話。(記憶が曖昧)
当時仲の良かった友達2人と私の3人で秘密基地を作ったりして遊んでいた。
秘密基地に選んだ場所は、竹やぶの中の不法投棄物がある場所で、蚊がいっぱいいた。一度入ればあちこち刺されてしまうので、虫よけスプレーとムヒが必須の秘密基地だった。そんな秘密基地は長続きしなかった。
その友人たちと次に始めた遊びは火遊びだった。
初めは夏休みの工作の宿題で私が作成した、発泡スチロールを使用した「雪の家のジオラマ」を燃やすとこから始まった。
人目につかない電車の高架下のフェンスをくぐり抜けたところで燃やした。ゆっくりと発泡スチロールが焼け溶ける姿が神秘的なのと、燃えて無くなるところが楽しかったのだろう。火遊びするとおねしょするを信じていたので、夜寝るのはドキドキした。(実際おねしょはしなかった・・・)
燃やすことに楽しさを覚えた私たちは、スーパーマーケットへ行き、不要な発泡スチロールやダンボールをもらい私の家で建物らしき物を作った。いつもの高架下へ行き、作ったものをはしゃぎながら燃やす。次第に建物の形をしていた発泡スチロールは、そのままの形でただ燃やす遊びになっていた。
ここで一人の友人が親が吸っていたタバコを家からこっそり持ってきた。吸い方もわからないが、みんなで見よう見まねでタバコに火をつけた。口の中が煙で充満するだけでなにがいいのかわからなかった。気分が悪くなったのを覚えている。友人は咳き込み、もどしていたと思う。
悪いことをしているとは思いながら、父が吸っていたタバコが家にストックしてあることを知っていたので、私も少しづつ持ち出した。最初は1箱からだったが、次第に3箱取ったり。さすがに減っていることに気がついたのかその場所にタバコを置かなくなった。(特に見つかることはなかった)
いつものように火遊びをしていたある時(季節は秋で乾燥していた)、友人がふざけて枯れた雑草にライターで火をつけた。その火は一気に燃え広がり、一面火の海。幸運にも枯れた雑草は一部だけだったので、一気に燃え広がったが一気に火の勢いはなくなっていった。
焦った私たちは、高架の上に上りみんなでオシッコをかけて消火した。(笑)その方法しか思いつかなかった。(笑)
火は消え、安心したが一瞬にして燃え広がった映像があまりにも怖かったので、この事件以降火遊びをやめた。これを機にタバコの吸い真似もやらなくなった。今思うとちゃんとやめれてよかったです。
今回はこの辺で終わろうと思います。以外と長くなりました。(笑)
ちょい田舎に暮らし、虫取りや魚釣りなどいろいろ楽しかった思い出がある。小学校も毎日楽しかった。いじめなどはなく、人数が少ないからかみんな仲良かった。何不自由ない人生だと思う。何もない日常がどれだけ幸せか。次回は、人生が大きく動いていった小学校高学年~中学校を書いていこうと思う。
もしここまで読んでくださった方がいたら、ありがとうございました。オチのない話に付き合わせてしまい申し訳なく思います。読みにくい文章かと思いますがこれからも温かく見守ってやってください。
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