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マラソンの世界にひきずりこまれたレース

僕がマラソンを初めて令和2年で16年目のシーズンを迎えました。
始めた当初は、まさか生涯続けようと思うほどの(今のところ)スポーツになろうとは夢にも思いませんでした。

マラソンの「マ」の字も知らない男をマラソンの世界に蟻地獄のごとく引きずりこんだ大会の名前。その名は「NAHAマラソン」
前々回の記事にしたマラソンのきっかけになった大会であります。

NAHAマラソンは毎年12月第1日曜日に沖縄本島で開催されるフルマラソンのみの大会で、那覇市をスタートし、南風原町、八重瀬町、糸満市、豊見城市を走り、那覇市に戻る沖縄本島南部を巡る大会です。

12月とはいえ、夏日は当たり前、下手すると30度近くなる気温に加え、道幅は狭くアップダウンの多い、タフなコース。
とても記録を狙えるコースではなく、ましてや初マラソンに選ぶような大会ではないのだけれど...病み付きになってしまったのです。
多分、NAHAマラソンに出会わなかったらマラソンは続けていなかったでしょう。
そう、僕は自称「NAHAマラソンマニア」なのです(笑)
とはいっても、第1回から去年で35回連続完走されている大先輩には足元にも及びませんが。


2005年12月。
初めて挑戦したフルマラソンは想像以上に過酷でした。それなりの練習はしたものの、やはりそれほど甘くなく、歩かずに走れたのは35kmまで。膝の、いや全身の痛み、さらにこの時はまさかの雨と強風...

「もう絶対マラソンなんかやらねー!」

初レースだけではありません。この後の数年間、走るたびに、辛くて辛くてレース後半で毎回思っていました。
でも一度もエントリーを止める事なく15年連続で参加・完走できた理由
それは沿道の応援があったからです。

NAHAマラソンに参加した人は異口同音に言います。
「沿道の応援がすばらしい」
もちろん他の大会でも沿道のみなさんの暖かい応援はあります。(本当に感謝しております)

しかしNAHAマラソンのそれは、他の大会とは明らかに違います。
沿道に住むみなさんが自腹で用意する飴、黒糖、チョコレート、みかん、バナナ、塩、梅干し、チューチューアイス、コーラのような軽いものから、レストランが毎年振舞う沖縄ソバ、日本最南端の吉野家さんは牛丼まで...
下手したら体重増えてゴールする人もいるでしょう。
こんな今で言う「お・も・て・な・し」が最初から最後まで延々と途切れることなく続くのです。
NAHAマラソンが初マラソンだった僕は思いました。

「マラソンの沿道ってこんなお祭りみたいなんだ...」

でもそれがNAHAマラソン特有のものだと気づいたのは、数年後、初めて他の大会に出るようになってからでした。

そしてなにより僕が好きなのは、沿道のみなさんがNAHAマラソンを楽しみにしているのが伝わってくる事です。
半日、自分の家の前の道が使えない不便を強いられるのにです。
目がクリクリで色黒のかわいいちびっ子も、老人ホームのオジイやオバアも、糸満の海人のおっちゃんも、商店のおかあさんも。
そして、ここでは多くて書ききれないほどの生バンドやエイサー隊、名物キャラまで。みんなキラキラした目で手を振ってランナーを迎えてくれるのです。

よくスポーツ選手がテレビのインタビューで
「応援がホントに力になりました」
て言うのを聞くと
「んなわけねーだろ!」
って思ってました。NAHAマラソンに出るまでは。
でも痛感しました。この人たちのおかげでゴールできてるのだと。

そして最初はレース中、足が痛くて歩きながら「もう絶対やめてやる」と思っても、そんな沖縄のみなさんにまた会いたくて、打ち上げでいつもより数倍美味いオリオンビールが飲みたくて、またエントリーしてしまうのです。

もちろん今は「やめてやる!」なんてこれっぽっちも思いませんよ(笑)
むしろ、東京マラソンは一度も走りたいなんて思った事ないですが、NAHAマラソンだけは走れる限りずっと出たい。いや!もし走れなくても沿道の応援側としてでも参加するでしょう。

ビバNAHAマラソン!


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