見出し画像

-『ミスなか』最終話を見て- 素朴な疑問を持ってしまうことの生きづらさ

先週、菅田将暉さん主演のドラマ『ミステリと言う勿れ』が最終回だった。賛否両論あるようだが、私は原作を読んでいなかったこともあり、菅田将暉さん演じる久能整の常識にとらわれない発想力や観察力に毎話驚きながら、謎解きを楽しんでいた。

中盤で、久能整がこんなことを言っていたのを覚えている方はいるだろうか。

「常々不思議に思ってるんですけど、
 どうしてバージンロードって父親と歩くのが基本なんでしょう。

 たいてい手間と時間をかけて育ててくれてるだろう、
 母親を脇に立たせておいて、どうして父親とだけ歩くんだろう。

 どうして父親のものから夫のものになる、"引き渡し式"、
 みたいな形でいまもするんだろう。

 巣立ちと言うなら、どうして新郎は親と歩かないんだろう。
 新郎は巣立たず親元にいて、新婦だけが移動する。

 いまもそれでいいんだろうか。

 憧れとかあったらすみません。素朴な疑問なんです。

 だから、一番大事なひとと歩いてください。」

これは、ある女の人が結婚式で会ったことのない父親にバージンロードを歩いてもらおうとお願いしに名古屋へ向かう新幹線の中で、偶然隣の席に座り経緯を知った久能整に言われたセリフだ。

女の人は母親の親友に育てられており、その背景には母親は父親から暴力を受けていた事実があることが久能整のおせっかいな謎解きによって車中で発覚し、自分は育ての親である母親の親友と産みの親である母親と3人でバージンロードを歩きたいのだと認識し、実は新幹線の後ろの座席に隠れていた育ての母親に伝え、母と娘が感謝を伝え合う姿が描かれたところで終わる。

結婚式で疑問に思うこと

私は幸いにも(ほぼ)普通の家庭に生まれ育っているが、25歳を過ぎて結婚式に参列する機会が増えてから、同じ疑問を持ち続けてきた。

例えばこんなことを、式中に考えてしまう。

入場

挙式での入場では、整くんとまさに同じことを思っていた。

どうして新郎は両親と共に入場しないのか?

結婚が巣立ちという意味なら、新婦と同じように手間暇かけて育てられた新郎も、ご両親にとっては大事な子どもなのではないか。

新郎が自分の足で入場するなら、新婦も自分の足で入場してもいいのではないか。

どうして新婦はベールをかけてもらうのか?
まさかこのご時世で処女性が求められているのだろうか?

新郎の腕につかまりながらエスコートされて歩く新婦の姿にも、少し違和感を覚える。

ウェディングドレスが歩きにくいというなら、普通に手をつなげばいいのではないか?

終始新郎よりも新婦が大事にされているような印象を覚え、その扱いの違いに、新郎の家族はそれでいいのだろうかと心配になってしまう。

ブーケトス

なぜ独身の女性だけが見世物のように前に出て、ブーケに群がらなくてはいけないのか?

指輪を付けて後ろで見ている女性は勝ち組なのだろうか?

男性版のブーケトスはないのだろうか?

離婚してしまった人は参加してもいいのだろうか?

"結婚だけが幸せではないこの時代に"(ゼクシィのCMは素晴らしかった)、結婚した人だけしか手にできないブーケ(つまり結婚の象徴)を結婚してない人にトスするという企画は、いまもそれでいいんだろうか。

ブーケを受け取ってしまったらきっと「おめでとう!次に(早く)結婚できるよ!」と周りに笑顔で声をかけられるのだろうか。

大学時代に同じテニスサークルだった友人が、テニスボールでトスをしていてとてもいいなと思ったことがあったが、それでもどうしても参加できなかった(ごめんね)。周りに「行きなよ!」と言われても前に出ない私は、負け惜しみに見えただろう。

ファーストバイト

大体の式場では、下記のようなアナウンスが添えられる。

新郎からの一口は「一生食べ物に困らせません」、新婦からの一口は「一生おいしい料理を食べさせます」という意味が込められている。
【ケーキ入刀】どんな演出にする?意味や歴史から最新アイデアまで!(zexy)

このフレーズにも、違和感が満載なのである。

まるで新郎に「一家の大黒柱として、一家が食べ物に困らないよう一生働き続けます」と言わせているようだし、新婦には「主婦として、新郎に稼いでもらったお金で一生美味しい料理を作りますよ」と言わせているようだなと。

今の時代に画一的すぎる役割分担に基づいていないか。

細かいことだが、お決まりの新郎には一口では食べきれないサイズを、新婦には小さめの一口を、あーんする流れも実はよくわからない。

男性はお行儀の悪い面も多少許容され何事においてもキャパがあるべき、女性は清潔で控えめであるべき、という無意識の理想像があるのではないか?

花嫁の手紙

式の中で新婦の最大の見せ場が、新婦からの手紙だと思う。

しかしこのときも私の頭には、なぜ新郎は手紙を読まないのだろうか?と、疑問が浮かんでくる。

新郎の家に嫁ぐわけでもないのに、どうして新婦だけが自分の家族に別れを告げ、新しい家族に挨拶する儀式をしないといけないのか。

結婚式が人生の節目なら、男性にとっても女性にとっても今までの人生を振り返り、新たな人生に決意を告げる場であってもいいのではないか。

挨拶

最初の挨拶は新郎から、乾杯の音頭は新郎の上司から、結びの挨拶は新郎の父親から。

式を通じてマネキンのようにただ”華"としてその場に存在する新婦。

大事なところは大体新郎側の言葉で進行されるのは、なぜなのだろうか?

来てくれたひとに感謝を伝えたいのは、新婦も同じなのではないか?

せめて最初か最後の挨拶だけでも、新婦が口を開いてもいいのではないか。

(二次会から参加させてもらった友人の新婦が、最初の挨拶から途中の出し物までずっとマイクを握って離さなくて、いいなと思った。)

※上記は私が参加したことのある教会やホテルでの式について書いている


こういったことは、私が友人の結婚式に実際に参列して思ったことなので、周りには非常に言いづらい。

お祝いの場でそんなこと考えていたのか、人の幸せにケチをつけるのか、と思われてしまうだろう。

しかも、最初は素朴な疑問として浮かんだはずなのに、考えているとなぜか被害妄想のようになってきてしまい、自分でも嫌気が差すことがある。

それでも、ミスなかの整くんのセリフが地上波に流れ、時代は変わってきたなという実感もあり、TVerで見れなくなる前に書き留めておこうと決意した、というのが今回この記事を書いている経緯だ。

生きていて疑問に思うこと

他にも、生きていると素朴に疑問に思ってしまうことが非常に多い。

たとえば、幼稚園生の女の子に向かって「好きな男の子はいる?」と聞いている友人の姿を見て、「なんで女の子が好きな子は男の子だと決めつけて話すのだろう?」と疑問に思ったり(もしその子が女の子のことが好きだったら、自分は普通と違うかもと言いづらさを抱えて生きてしまうのではないか、と余計な心配をしましたが何も言えなかった)、

絵を描いている小さい子に決まって「何の絵を描いているの?」と聞いてしまっていた自分の行いを反省したり(これは「13歳からのアート思考」の受け売り。子供はたとえばクレヨンのけずれていく感触がおもしろいというだけで絵を描いているだけのことがあるらしく、何の絵を描いているか聞いてしまうことで、”絵は具象を書くものだ”という刷り込みをしてしまっていると。色や素材が物質としてだけ存在することが許された近代のアートの歴史を逆流した古い価値観を押し付けていた大人の自分は何てもったいないことをしてしまっていたのかと。)


新しく買った椅子の組み立て説明書に、「女性や子供でもカンタン♪」のように書いてあるのを見て、「この椅子は特に重いわけでもネジが固いわけでもないのに、力が必要な工程があるのだろうか?」と疑問に思ったり、

ひさしぶりに実家へ帰ったとき、「表札はなんで父親のフルネームなんだっけ?(この家には母親もいるのにな・・・)」と疑問に思ったり、

自分の会社のエントランスに入ったとき、「なぜ受付のスタッフは男性がいないのだろうか?女性のほうがいいのだろうか?」と疑問に思ったり。

通勤するだけで、飲みに出かけるだけで、家事をするだけで、外を歩くだけで、たくさんの疑問が浮かんでくる。

それを「フェミだ!」と敵視する人もいるでしょう。

だから自分が当事者になったらサクッと済ませる。
夫婦別姓とか言わず、さくっと夫の苗字に改名する。

正直、いまはそれが一番スマートな生き方だと思う。

人生短いけどやりたいこともやらないといけないこともたくさんあるし、そのことに悩んで時間を費やすより目の前のことに時間を使いたい。


伝えたかったこととしては、自分的には別に極端な思考を持っているわけではなく、本当に素朴に疑問に思ってしまうだけなのだ。

物理的に、あるいは生物的に説明できない社会や人間の行為に対し、純粋に疑問を持ってしまうというか。でも、周りに面倒に思われそうなので、自分の心の中にとどめておく。周りに同調するとは言わないまでも適当にやり過ごしつつ、心の中で生きづらいなあと思う。

※個人的には、一部のこういった偏りは、無意識に自分や他人の可能性を閉ざしてしまうことがあると思う。

※そういえば最近思い出したことがある。私が小学生くらいの頃、父親が沸騰したやかんをもってリビングで寝っ転がっている私の上を通ったとき、母親が「女の子の顔に傷がついたらどうするの!」と怒ったことがあった。母親は深い意味なく言っただけだと思うが(案の定この前話したら全く覚えていなかった)、そのときは「男の子の上なら通ってもよかったのだろうか?」「女の子は顔を大事にしないといけないんだな。」と思った記憶がはっきりとある。思えばそのときから何事も疑問に思うクセがあったのかもしれない。

なぜ結婚式は変わらないのか

結婚式で感じた疑問について、軽くInstagramのストーリーで書いたところ、1人の友人が周りに共有してくれた。

リアクションをしてくれた4人の女性は、「違和感は感じつつ面倒と思われたくない」と言っていたそう。

これは何事に対してもアラサーの女性が持っている、リアルな気持ちだと思う。

もしマニュアル通りに進めたくないことを夫や自分の家族に理解してもらえたとしても、相手のご家族を巻き込むことになるし、もしご家族に賛同を得られなかったら両家の最初の行事となる結婚式から関係がギスギスしてしまうかもしれない。そんなことを考えると、違和感を感じつつ諦めてしまう気持ちもとても理解できる。

きっと会場側もマニュアル外の対応をしてくれるところは少ないだろう。(crazy weddingさんくらいなら相談に乗っていただけたりするのだろうか…。)

いろいろと疑問に思うことが多い世の中で、もし自分の人生で結婚式を挙げたいと思ったときは、一生の記念になるだろう結婚式ではせめて、多様な価値観が受け入れられる、多様な価値観を表現できる時代が来ることを願う。

この記事が参加している募集

テレビドラマ感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?