読んだ本の感想

「ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい」を読んだ。

 やさしさがあること、感受性が強いこと、道徳心があることが、いいことなのか私には分からなかった。やさしくて、世の中のあらゆるひどいことばや人に傷ついて、だんだん生きることがつらくなってしまう。でもそのひどいことばや行動は、その人らの生きてきた環境、そして周りの人間社会から与えられてきた価値観によってつくられたものだ。だから闇雲にそんなひどいこと言わないで、と否定して、糾弾すれば済むことでもない。自分が「そんなひどいこと言わないで」という意見を言えば、その意見は私の中の正義であり、加害として振りかざしてしまう可能性も生まれるからだ。自分の主張で他者を傷つけることが怖くて、へらへら笑ってやり過ごす。でもそうすれば、自分がひどいと感じる誰かの言葉で、別の誰かが傷ついて、自己保身でへらへらしていた自分の醜さに傷ついて、罪悪感となってのしかかってくる。自分の傷ついたことも、傷つけたことも、その罪悪感に押しつぶされそうな醜い心も、ぬいぐるみは何も言わずに聞いてくれるのだろうか。

つらいことがあったらだれかに話した方がいい。でもそのつらいことが向けられた相手は悲しんで、傷ついてしまうかもしれない。だからおれたちはぬいぐるみとしゃべろう。ぬいぐるみに楽にしてもらおう。

大前粟生「ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい」 河出書房新社, 2023, p24.

 とてもやさしいと思った。私よりもずっとやさしいと思った。

 私がぬいぐるみとしゃべるのは、ぬいぐるみは私を絶対に否定しないからだ。ただ肯定してくれる。大丈夫だよ、大丈夫だよ、と言ってくれるから。私は登場人物である彼らより、もっと自分勝手にぬいぐるみと話している。私を肯定してくれるのは、だいじょうぶと言って抱きしめてくれるのは、ぬいぐるみだけなのだ。都合のいい存在だと思った。私はたぶんぬいぐるみが好きなだけで、愛していないのではないかと不安になった。
 私はぬいぐるみの前でならたくさん泣けるのだ。泣いていたら、ぬいぐるみは私を心配して、なでてくれる。「どうしたの?だいじょうぶ?かなしいの?いたいの?」私の顔を覗き込んで、心配してくれる。「だいじょうぶだよ、だいじょうぶだよ」と抱きしめてくれる。だから私にとってぬいぐるみは、とても都合のいい存在なんだと、再認識した。

 私の住む部屋は、ぬいぐるみたちにとってもいい環境とは言えない。ごみは散らかっているし、掃除も全然しない。自分をぞんざいに扱えてしまえるから、ぬいぐるみにも丁寧に接してあげられないのだろうと思った。でも、私ぬいぐるみたちの存在に助けられていて、本当に命綱なんだ。ひとりで不安でも、ぬいぐるみたちがいてくれると思うと、少し心が楽になる。だからたくさんありがとうを言おうと思った。いつもそばにいてくれてありがとう。綺麗にしてあげられなくてごめんね。ありがとう。

 やさしさはやさしさであって、それ自体に良いも悪いもないのだと思う。やさしいからいい人ではなく、やさしくないから悪い人ということではない。やさしさはやさしさのまま存在していていいのだと思った。

 そして私はやさしい人にならなくてもいいのだと思った。やさしい人でなくても、私自体の価値が変わるわけではない。そして私は全くやさしい人間ではない。平気で人を傷つけられる自分の存在が嫌で、いなくなればいいのにと思う。私の存在、私の話す言葉や価値観が常にだれかを傷つけている。やさしさだって、ふるまえば傲慢な気分になる。だから自分はそんな自分が嫌。それにやさしさが自分の価値になるのが嫌。
やさしさによって心をすり減らしながら生きていくことは難しい。心は消耗品で、疲れてくたびれたら休息を入れないといけない。
でも心が元気になったら、やっぱりやさしい人になりたい。人を傷つけることは怖い。罪悪感におびえて生きることも苦しい。だからなるべく後悔しないように、自己満足でも、やさしい人になりたい。

 いろいろ書いたけど、結局やさしさについてどう向き合えばいいのか結論は出なかった。でも「ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい」は心の柔い部分を抱きしめてくれる感覚がした。それが嬉しかった。

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