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また夏は巡る

 この世に生を受けて、数十回目の夏が来た。
 この文章を書いているのは「海の日」で関東地方の梅雨明けは未だ発表されていないが、この青空と暑さでは時間の問題だろう。すでに外では蝉が鳴き、不用意に屋外に出ると陽光で肌が焦がされる。
 我が家で唯一エアコンのある居間は空調嫌いの父が居座っているため、日中は網戸に扇風機で乗り切っている。築五十年以上の物件なので、風通しが良いことだけは救いである。日が暮れて父が自室に戻ると、ようやく居間のエアコンで一息つける。
(いつでも空調が入っていて、徒歩数十秒で飲み物やアイスが買いに行ける職場は、仕事さえなければ最高の環境である)

 若い頃は、夏が来るたびに「事あれかし」と期待に胸を膨らませていた。もっとも自分から何も行動しないのに何事も起こるはずはなく、大半の時間は自宅と涼しい場所、暑い屋外の行き来で過ぎ去っていった。とはいえ、思い返せばそれらは無駄な日々でもなく、全て懐かしい思い出となっている。
 社会人二年目の海の日に、自分の車で学生時代の友人と館山の海に行ったことを思い出す。途中祭礼の神輿行列に行く手を遮られながらも昼前に館山へ到着し、水着に着替えると館山の海ではしゃぐこともなく波間に漂い、暑さが最高潮を過ぎた頃にシャワーを浴びて帰ってきた。他にも夏には友人たちと色々遊んだはずなのだが、ただ車で海に出かけ、海に浸かって帰ってくるという非アクティブだったあの夏のことばかり思い出す。

 子供の頃は扇風機以外の空調が家になかったので、涼を求める手段は本屋か図書館だった。図書館は長時間いても怒られないうえにペダルを踏むと水が出てくる冷水機が楽しかったが、涼しさで言えば大通りに面した中規模な本屋が最高だった。どんなに暑さで頭がクラクラしていても、本屋に入って数分もすれば全身が冷気に覆われて、逆に涼しすぎて頭が痛くなってくるくらいの強烈な冷房が効いていたように記憶している。
 あの頃の本屋は、なぜあそこまで空調が効いていたのだろうか。21世紀に入ると子供の頃に通った中小の本屋は大半が姿を消し、残った大型書店もそこまで涼しさを感じなくなってしまった。これも時代の流れだろう。

 青年期を過ぎて壮年となった現在の夏は、午前中を自宅の屋根の下で過ごし、午後に入るとエアコンを効かせた車でショッピングセンターに出かけて涼み、日が傾いたら帰宅して冷えたビールを開けている。結局ルーティーンになってしまうが、そういう休日が楽しく感じる。
 それでも、どこかで「事あれかし」と願う気持ちは存在している。行動しないのだから何も起こるはずはないのだが、願う気持ちだけあれば楽しいので、無邪気に「事あれかし」と願いつつ今日も暑い一日を生きる。

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