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ハッピーライフ 平凡ver.

15歳から始まった痛烈な生きづらさ 消えてしまいたさ 死んでしまいたさは
ほとんど水くらいまで希釈されながら
私を成す要素として不可欠にここに在る。

恐らく一生消えないこれは、歳を重ねるごとに単なる体の不調としての色を濃くするのだと思う。
最近の話、目眩が止まず朝起きられない。
血糖値の乱高下を起こす食事の摂り方が癖になり頭痛が慢性化している(文字に起こすと最悪)。
しかし対処のしようがあるから、いっそ心は楽である。
ハード面の不具合を解消する方法はソフトのそれより明確で分かりやすい。触れられるし目に見える。
つまり2年間スルーした健診に今年は行こうと意気込んでいる。どうにかして精神の薬を使わずに身体の調整で生きていける方へ舵を切りたい。
睡眠や食といった基本的な生活習慣を整える必然性がようやく(本当にようやく)実感できそうだ。更新時間には目を瞑ってください。

この”実感”がことのほか私にとっては重要なようで、納得がいくとか腑に落ちるとか、世界の些細な一々に対してきちんとそこへ辿り着いたと思える瞬間が今までもいくつかあった。
そうでなきゃ前に進めず、そうなれば大丈夫だったと思う。
心身が重なってひとつになる感覚をいつも求めている。

27年呼吸した私は決して堂々と”若い”とは言えない。
一方で”歳を取った”なんて言うのも憚られるし生意気で気まずい。
思春期とは違った意味で宙ぶらりんな年頃なのだと実感が湧いた時、意外にも、またひとつ楽になった。

何でなくとも良い。
そんな赦しがある。

例えば20代前半までなんとなく自分を覆い続けていた少年性/少女性といった膜はさっぱりと消え去り
ただの人間としての私が明瞭になった。
与えられた記号が失われ、他者を基準とした理想に苦しむ必要もなくなった。

純粋な憧れは原動力になるけれど、いきすぎて固執したり比較したり、そこから生じる自意識は苦しい。
「心のまま、あるがまま」なんてそれこそ幻想じみた理想だと思っていたけれど
素朴に、互いがやさしく快くありたいと思いながら生きることは何も悪くない。
やっぱり先人は正しいのだと理解しながら
それをもっと早く、綺麗事じゃなく教えてくれたなら!と思うと少し苛立つ。
…いや、掴める人は掴んでいたんでしょう。私が今だっただけで。
じゃあもうどのタイミングでも正解で、円満に終われる。

よく耳にする”失われた30年”という言葉。
平成1桁生まれにとっては知ってる人生の全てが社会経済的に失われ前提でおもろいが、個人単位では全員愛しくあってほしいと願う。平成LOVE。令和もLOVEしたい。
少なくとも私は生きてきた今までを、年々少しずつ愛せている。
そんなもんだろう。劇的なことはないほうがいい。

毎日一瞬でもありがとうと思えて
だけども満足はしないで生きていたい。
生きていきます。

私はいま、たしかに幸せです。

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