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『ボーはおそれている』ひとくち感想

ユナイテッド・シネマ新潟にて、公開3日目の2月18日(日)に観てまいりました。

気に入ってしまって連続で2回観ちゃった。

日常のささいなことでも不安になる怖がりの男ボーはある日、さっきまで電話で話してた母が突然、怪死したことを知る。母のもとへ駆けつけようとアパートの玄関を出ると、そこはもう”いつもの日常”ではなかった。これは現実か?それとも妄想、悪夢なのか?次々に奇妙で予想外の出来事が起こる里帰りの道のりは、いつしかボーと世界を徹底的にのみこむ壮大な物語へと変貌していく。

公式サイトより



若い方も含めて多くの観客が集まり、賑わっていた回でした。ある女の子は「なんにもわからなかった」と苦笑し、男の子の二人連れもエスカレーターで「わかった?」とお互いの困惑を共有していました。

この映画は、他ならぬ主人公ボーの感情や彼が見ている世界の見え方を映像で描いたものです。だからボーにとってわからないものは、観客である私たちにだってわからない。

しかしボーが「おそれている」というその恐怖の大元は、アリ・アスター監督が様々なインタビューですでに答えているように、かなり普遍的でいつの時代も変わらないものです。

血縁や共同体がある種呪いが連鎖するようにして苦しみになってゆく過程、およびその予感。今作では、抑圧的な母とその支配的な庇護に絡め取られた息子という形でそれが再演されたような映画です。

誰もが母を愛し、同時に恐れてもいる。誰もがその相反する感情を同時に抱え、葛藤しているということは、映画冒頭にセラピストの口からも語られることです。

ボーが感じていることを集中的に追体験してゆく中で、映画終盤、彼はおそらく唯一、観客には知り得ないことを口にしました。そしてそのシーンは、この映画の中でボーが唯一「おそれていない」ようにも見える部分だったとも感じます。

明確に潮目が変わったようなドキドキが生じ、ここからどうなってゆくか息を呑んだのも束の間、彼はクライマックスへゆっくりと歩みを進めてゆくのです。

人間が人間に対してできる最も恐ろしいこと。それは存在を否定することではないでしょうか。無視したり、追い出したり、殺めてしまったり。精神的にも物理的にも起こることです。

本作『ボーはおそれている』が描いている恐怖は、ある種決定的な「自分が今ここにいることは間違いなんだ」という絶望や不安であるように思います。

その点では、この物語におけるボーはどこにいても場違いであり、居心地が悪く、安住することができないのです。

そして自分がいるべき場所を求めた旅の終着点であるはずの場所で、さらに決定的な拒絶に退けられるボー。この映画において彼が快い気持ちになることは一瞬たりともありません。この極端に度重なる受難がまさしくコント的で、この映画がコメディである点でもあるのです。

とにかくこの訳がわからない映像は、全てはまさしく寝ている間に見る悪夢のようなもの。渦中にいる間は悪い体験なんだけど、終わってみればなぜだか忘れたくないような気持ちにさせられ、なぜだかむしろすっきりとした気持ちにさえなる。

「わからなさ」はストレスでしかない、「わかる」映画が観たい、という人は絶対に観ない方がいいです。たとえ「いったいどんな映画なんだろう!」と気になって観に行っても、その疑問が晴れることはけしてありません。


この映画を観た私の個人的な鑑賞体験でいうと、観ている最中いつの間にか「母への手紙」を頭の中で書いてしまっていました。もちろんポジティブな気持ちを伝えるようなものではなく。うちもボーと同じくひとりっ子かつ母子家庭でしたから、彼とその母親にはいろいろとシンパシーを感じる部分があるのです。人によってはとても健康に悪い可能性がある。

というわけですので、なるべく健康なときに観てほしいです。私は家で映画を観るときにはほぼ必ずお酒を飲むけれど、今後『ボー』のブルーレイが発売されてもそれはやめておきたいです。買うけど。

本作は演出上「音」がとても重要な映画でもあるので、ブルーレイが出たら静かな家でノイズキャンセリングヘッドホンを着けて、さらに没頭しながら見返したいとも思ってます。

そうした暁には、おそらく何度も観ることになる。それは間違いなく『ボーはおそれている』からしか得られない栄養があるからです。

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