ゲルハルト・リヒター|狂った母を無視すること

オマル マン氏との対談、第23回目。

K「オマル マンさん、こんにちは。以下、今日の私のFacebookに書いたメモより。」

「日本人がいかに「芸術」の名の下に「芸術」を生産できていないか、という変わらぬ問題がある。「芸術」の条件としての「非実体」。例えばゲルハルト・リヒターは「実体」。故に「芸術」は成立していない。その横に日本人の作品を並べて、良いと思い込んでそのまま生活を続けていってしまう。このスイミー的・全体主義的といえるループは、まさしくいずれ「壁」にぶち当たる(=地盤沈下)。政治・経済の動向に注目。」

「例えば海外の美術館で、マイク・ケリーとマーク・ロスコとゲルハルト・リヒターが並んで展示されていたとする。日本人はどれが「芸術」で、他が(マーケットを補う)「付け足し的なもの」かが判別できない。これは、一種の「罰ゲーム」として機能してしまう。芸術の恐ろしさ。」

「例えば政党・維新その他から、芸術への「無駄遣いをなくせ」という旧来ある声が強まってくるとする(私は賛成ですが)、それを「芸術を理解しない馬鹿」と(スイミー的に)反応してしまうのは、私に言わせればそれこそ(集団的)馬鹿になる。」

O「加藤さん、こんばんは。芸術が成立していない作品の今日における「覇権」については、前回対談した内容と深い部分でつながっている問題ですね。なお、前回の対談内容とは、著しく知識人の間に蔓延する芸術の「抑圧」でしたが、私見では、その末期症状としての現象が、自分の「眼」で見ない人たちの、「権威主義」がベッタリ貼りついた形での、実体的なポップアートの翼賛であり、それが今日における「リヒター覇権」の問題とつながっている。私には、それは「システム」への隷属という風にみえる。」

K「まさにそうですね。整理をありがとうございます。」

O「だから、この話題については、二重性があって、まずは加藤さんが問題提起した、大衆や知識人たちの属人的な芸術への見方、そしてもうひとつが、彼ら彼女らが依拠している、すなわち、システムそのものの方です。」

K「「属人的」まさにそうですね。そしてシステムへの隷属。「眼」の問題ですが、例えばマイク・ケリーやフランシス・ベーコンは芸術が成立していますが、彼らは猛禽類の目をしている。または属人的ではない、何かを見つめている。」

「ベーコンは、カジノで回転するルーレットの玉を見つめながら、「止まる数字が見えた」とも語っています。それで画材を大量購入したと。」

「リヒターのまなざしはとろんとしている、その作品を良いと思う多くの日本の美術関係者も。特に学芸員(一応名目としては、研究者=知識人)が罪深いと私は思います。ここを政治的に糾弾する義はある。」

「目がとろんとするのは、酔っているからです。「数字」に(オマル マンさんが言う「大衆」=量の範疇ではなく)、日本の美術館にリヒターやロスコを買って、その隣に自分たち日本人の作品を購入し並べて、そこで生じる集団的・自己肯定感に。」

O「まだ”巨匠”になる前、ベーコンに依頼されてモデルを務めた人は、きまって、完成した作品を見てブチ切れたらしい。鑑賞者にとって、耐えがたい何かがある。対して、リヒターの作品には、そのような獣じみた力は、無い。なんやかんやいって、人を喜ばせる(アートの不可能性の偽装をしつつ)そういう術をもっている人。その差について、もっと真剣に考えたい。」

「リヒターの伝記を一冊、通読したことがある。60年代にポップアートでデビューしてからというもの、注文が絶えたことがない。驚くほど商売が巧みな男です。もうひとつ。リヒターはほとんど母子家庭で育った。これも印象に残っている。」

K「リヒターは母子家庭、そうですか。または、父親はかろうじて家庭にいる場合でも、成長過程で継続された母子の「密着」の問題は私は大きいと思います。「芸術」を成立させている作家を見ると、それを微塵も感じさせない。これは肝だと思います。」

「例えば、マイク・ケリーは「自分はポップカルチャーは嫌いなんだ」とはっきり言っている。しかし、それが自分の環境なので、素材として使うのだと。会田誠やリヒターのように、それと同化していないのです。」

「年来言われる「現代アート=詐欺」の図式は、この後者に当てはまる。「芸術」抜きの「芸術」。」

O「リヒターのポップアート観って、胡散臭いのですよね。一言でいうと、イメージでものを見ている。作品じゃなくて。50年代のフランク・ステラのブラック・ペインティングを「ピンとこない」ともいっていた。これも印象に残った。⇒リヒターの伝記。」

「リヒターが60年代に憧れていたのは、ボイス。」

K「フランク・ステラは「芸術」が成立していない。芸術ではなく「模様」ですね。近視眼的です。参照(制作中のステラの肖像が載っている)。」

フランク・ステラ探訪-川村記念美術館
https://akaitaro.com/text/column/stella.html

「このように作品(画面)にへばりつくように描く作家は、芸術を成立させられない。猛禽類のような眼をしていなければ。」

「絵画の近視眼のイデオロギーというのは、典型的にドゥルーズ=ガタリの著書における美術論に見られる。曰く「画面にへばりついて描け」と。」

「リヒター=ボイスという観点ですね。日本で特に80、90年代以後に機能した。上記「自己肯定感」をもたらす。ここには「切断」=「去勢」はない。日本のアーティストは、いわば「母親(=学芸員)」に守られた存在。」

「学芸員が、「罪」なのです。大きく見た「知識人」の問題ですね。公金を使って、大きな子供に「芸術」の名目を使って甘やかしている。ここを、切らねばならない。」

O「戦前の1920年代にMoMAが最盛期を迎えて、それからアメリカは一貫して文化的なヘゲモニーを握っていたと思うのですが、戦後のどこかの時点で、おかしくなってしまった。根本的に、学芸員が変質したということですよね。」

K「世界の美術館の司令塔という役回りですね。彦坂さんがいう「規準を示していた」と。MoMAの権威性が旧来あったものが失われたとしても、私が上記語った日本の学芸員の質と単純に同一と語ることは、できないと思います。しかし、相関関係はありますね。確実に。」

O「単純に、クラシックというものに弱い傾向( 猫と猫じゃらしの関係)っていうのは、国内の知識人にはよく見られる。知識人がフランシスベーコンを語るのは、それが「クラシック」だからですよね。クラシックのお墨付きを与えている最高機関が、例えばMoMAでしょう。」

K「知識人(研究者)はそういう態度ですよね。メルロ=ポンティ研究者・廣瀬浩司さんなどの、SNSでの発言を見ていて私はそう感じました。」

O「パリスヒルトンって、けっこうイイ線いってるよねって話をしても、「なんだ、このバカは?」という反応をされる。(それ、こっちの科白なんだが...と)。結局、評価の定まってないものには口を噤む。「臆病」。」

K「自閉症的っていう言葉を、私はつい使いたくなります。」

O「自閉症児ですね。そういえば、Twitterでガヤガヤ言ってる言論人たちの多くも。まるっきり自閉症児。見た目も喋り方も、価値観も。」

K「「自閉症」とか「自閉症的」と表現で使うと、敏感に反応する人が結構私の経験上、美術界・界隈には多いんですね。「分裂症的」とか、精神医学用語の比喩を散々使ってきた知識人・文化人が。そこには、「それは反省した」という文脈が往々にしてある。」

O「彼らにとっては、ほんとにトラウマと結びついている言葉でしょうから。自閉症って。」

 K「深いところで。言われたくないんでしょうね、その比喩では。」

「「分裂症」の比喩は、安全に使われていた。」

O「存在の根拠が失われる。」

K「そうですね。(知識人の)足場から崩れる。」

O「SNSが可視化してますからね。生物的な脆弱性というか。この10年で、私は随分、悟ったことがありました。」

K「その問題は大きいですね。SNS。全ての鍍金があたかも剥がれた。と同時に、「象徴界」の(完全)機能不全。」

O「自閉症児の闘い、みたいな。」

「リヒターも自閉症的なものですよね。リヒターの親からおかしかったのかもしれない。そういう感覚があった。あの伝記は。」

K「おそらくそうですね。このような批判言語に晒されることは耐えられない。できるのは「母親的存在への甘え」、そしてその集合化(=システムへの癒着・全体化)。」

O「父親が戦中に「ふける」んですよ。戦死とも表記されてなくて。想像上の憶測だが、リヒターの母は、父親の男に捨てられている。たぶん、この母当人に問題があって。」

「この伝記を読んで、すぐに想起したのがシュトックハウゼン。シュトックハウゼンの母も戦中にナチスに精神病院で殺されている。」

K「生前に伝記が書かれているのは、それはアクチュアルですね。父親がいなくなったことが、書かれていると。それは面白い。」

O「彦坂さんもこの自伝を面白いと褒めていた記憶なのですが、おそらくこの前半生の部分に反応したのではないかと。狂った母。それを肥大化させる芸術家。母を「克服」するということ。それが加藤さんが仰った「切断」への正しい軌道の上なのかもしれない。」

K「そうですね。肝は「狂った母」というテーマ。これは強力です。」

「前段の「自閉症」についてですが、精神科医・内海健氏は、シンポジウムなどでも積極的に「自閉(スペクトラム)症」について発言しており、おそらく周囲に(異例に)顰蹙を買っている存在。事例を挙げ、曰く「フッサールは自閉症スペクトラムだ」と。」

「私はそのシンポジウム後の懇親会で、内海氏と個人的に雑談をさせてもらった経験があるが、舞台裏では、他の医師も交えて、隠語的ながら「自閉症」を露骨に馬鹿にした口調が濃厚。これは、私のような感度の良い、そして他分野に関心を持つ美術家でなければ、察知することはできない。しかし、医師とは、楽屋裏トークでは、症例に対して往々にして露骨で下品というのは、私の交流関係の範囲でも、多々印象に残って言えること。」

O「内海氏に限らず、主に医学畑の知識人の、精神病疾患者への軽侮する感情(主にアスペルガーへのまなざし)が見え隠れする、という類型は、分かります。自分の肌感でも。その背景を考えるに、まず、医学者の「世間」のイメージみたいなものがあって、そのなかで、アスペルガーというものを規定しているのですよね。現代社会のなかでも、とくに例外的に、医療機関というものは、「区分」が隅々にいきわたっている。だからコロナの時にその弊害が一挙に顕現した。立場の支配による組織の硬直化の問題。何も”決められない”機関と批判にさらされる。」

「その医学者の「世間のイメージ」というものを、もっと深堀してみたい。人間の主体がむき出しになる場所ですよ。医療の現場というのは。内海氏のような、おそらく典型の健常者の医学者、から見た「世間」というものは、我々一般人の世間とは違う。でも、彼らは、(内海氏のような世慣れした医者)は「世間ってこうでしょ?」と。」

K「確かに。内海氏には、(特に医療の)「世間」に対する見限りというのは、私は感じますね。直接に話す機会があった感触で。しかし、オマル マンさんにその洞察が生じるとは、私は驚きがあります。」

O「今は、藝大の偉い人になっている。よほど「忍耐」してきた人なのは、容易に察することはできる。⇒内海氏。著書を見ても、年を追うごとに過激性が増している。」

K「内海さんの問題をもう少し論じると、(ある一定の)他の精神科医に、内海さんの著書が「精神医学の絶望論」として読まれている側面があるという問題。」

「『うつ病新時代―双極2型障害という病』で世間で有名になり(それ以前は分裂病論)、その後、発達障害・自閉症への言及が多くなり、最新刊は「三島由紀夫」論。「過激」化しているという見方は、ある意味妥当だと思います。」

O「精神医学の絶望論、というのは、言い換えると、精神医療「システム」の解体、みたいな方向性。それは一般の精神科医界ではタブーでしょう。」

K「三島論の前に、『さまよえる自己』というのがあり、帝京大から藝大に移った時期だと思います。(私からは無理して書いたと多く見える)芸術論が含まれているが、メインには他の精神科医から批判がされる「精神医学の絶望論」がある。」

「その通りです。ある意味、内海氏は精神医学界の「反体制」。ある意味、濃厚に業界壊しというか。」

O「リヒターや、現在の知識人たちの心的空間=世間という問題と、接続している。」

K「そうですね。完全に。」

「内海氏は帝京大での「うつ病者がリストカット等で救急搬送してくるのを、とても臨床などとは言えず、右から左に処理するしかなかった」自己の医師としての体験から「精神医学の絶望論」を書いた。」

O「医療と、「世間」という観点で見た時に、ちょっと大胆な発想をしますが。アメリカと日本、アメリカとドイツ、ドイツと日本、という事を考えてみる。ドイツと日本は、同じような質を備えていると感じた。これはコロナの時もそうだが。アメリカは異質。」

「「うつ病者がリストカット等で救急搬送してくるのを、とても臨床などとは言えず、右から左に処理するしかなかった」という言質。これも、アメリカ的ではなく、ドイツ的に感じる。個人的には。世間の「質」の問題として。」

K「なるほどー、その観点は、私にはありませんでした。が、美術で見ると、同じような対応関係がある(確かに)。前述の、リヒター、ボイス(ドイツ)との、同時期の日本との親和性。対して「他者」としてのアメリカ。代表的には、前々回から話しているクーンズ。」

O「アメリカではすでに、コロナで90万以上が死んでいる。でも集会は止まない。
ドイツや日本では考えられない。アングロサクソンの新進への気質というべきか。特に死に対する感覚の特異さ。」

K「アメリカ、特に共和党支持地域がそうですね。そこにも、クーンズとの親和性(?)。」

O「「NASA式 最強組織の法則」という本があって、先日、たまたま読んだのですが、NASAって、無茶な実験をしてて、かなりの数の人が実験中に無残な死に方をしているのですが、そんな事件があった時、まずチームメンバーはバーにいって、皆で泣くと。次の日はスッキリして、またチャレンジだ!USA!と。こんなこと、日本では、ありえない。」

「日本だったら、一人死んだ時点で、マスコミが袋叩きにして、終了でしょう。「いじめ」の陰惨度は日本やドイツの方が、高そう。」

K「そういう図式ですね。想定できる。>「いじめ」の陰惨度は日本やドイツの方が、高そう。」

「一方、私は個人的に、クーンズとNASAは感覚的に直結できる。」

O「うん。私もすぐにクーンズを接続してしまった。」

K「そうですね。」

O「死を恐れぬクレイジーな世間か、いじめ地獄を耐える世間か、どっちも嫌ですけど。」

K「確かに(笑)。」

O「クーンズ、ケリーを生んだ国ですよ。やっぱり。」

K「そういう意味で、偉大ですね。」

O「偉大。」

「だから設計主義とか、まるで無駄なんでしょうね。国内の場合。憲法をどう変えようが世間は変わらないから。そこらへんは、直感的にみんな理解していて、ゼロ年代あたりから個人を変えよう!という方向性の言論がたくさん出た。宮台がそうでしたが。例えば。それも見事に不発。」

K「「それも見事に不発」(笑)。」

O「ラカン派も不発。」

K「(笑)。なにか企図しても、すべてが不発なんですね、日本。「知識界の絶望論」。ある意味、最尖端。」

O「リヒターの母の話に戻すと、母親というものは、「世間」だけの生き物といえると思いますけど、母が狂っていったのは、「世間」が駄目だったからですね。母が偉大になればいいのに。」

K「そこですね。ずばり。母が偉大に。これは新しい方向。」

「偉大な母」、意外に身近にいるかも。意外に、弱そうに見えるかもしれないが。」

O「偉大な母をもった人が、英雄として出てくるかもしれない。」

「もしくは最狂の母、という路線も想定できうるが。酒鬼薔薇聖斗の母親みたいな⇒最狂の母。」

K「そうなんですか。」

O「酒鬼薔薇聖斗がたじたじなレベルらしいですよ。」

K「全く知りませんでした。」

O「酒鬼薔薇聖斗が一時期、ネットに作品をアップしてましたね。」

K「母をモチーフにした作品を?」

O「母だと思います。大きくは。」

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K「うわあ。これは・・。」

「母親は、何か手記とかを出しているんですか?」

O「出してますね。当時スキャンダラスにマスコミに叩かれた。殺害した子供の親の所に来て、仏壇の前で、息子の自慢話を延々としていたと。サングラスをかけたまま。」

K「それは、相当ですね。むしろ、英雄ではなく、上記の文脈からリヒターの方向にも私は読めますが。」

O「まさに。だから、酒鬼薔薇聖斗は、最狂の母を克服できているのか?と。絵をみたら、一瞬で分かる。一言でいうと「偽装」。」

K「「偽装」というのは?」

O「純粋さを、グロテスクさで覆い隠している。だから、全然魅力がない。いたたまれない作品を偽装して、グロにしている。それは、全然いたたまれない作品ではなく、凡庸。」

K「確かに、全然魅力がない。「凡庸」。」

O「マイクケリーとは千年の隔たりが。」

K「そうですね。結構その本質は、ケリーと多くの日本のアーティスト間に対応するかも。」

O「ゆえに、今日のアーティスト症候群のカリカチュアではある。酒鬼薔薇聖斗。もっと、白痴そのものをむき出しにしてきたら、評価した。」

K「そういう「偽装」は、私は多くの日本の現代のアーティストに確かに感じます。アーティストだけではなく、ギャラリストも具体的に私は思い当たる。「おぼこさ」をグロさで隠している。あるいは、「おぼこさ」を反対に、すっきりとした一見「モダン」風の仕上がりで隠したりとかのパターンも。」

O「中毒性が皆無なんですよね。そういう作品って。一回見たら、済むというか。」

K「確かに、そういう意味での、反復性を他者に喚起する力がない。」

「酒鬼薔薇聖斗の小説は、私も出た当初、部分的にどこかネットに出ていたのを読みましたが、「賢さ」を見せようとしていますね。「才能」とか。」

O「絶歌ですね。持ってますよ。あれは、エンタメ小説ですよね。変な精神科医とか出してきて。科白も全部パターンだし。」

「バカのくせに計算する。また名言が...」

K「それですね。普遍的な問題。」

「その場しのぎ。そういう人は、最終的に「黙っている」という戦略しか取れなくなる。それを学芸員が「保護」するという(「狂った母」の)日本的システム。」

O「常に間違ったこと(=偽装)を指図する狂った母がいる。「偽装」は、まずこの母がやっているのですよね。その狂った母にどう対峙するのか?という喫緊の問題がある。息子にできることは、母を無視して、嘘をつかないこと、ミスをしたら、認めて改めることですが。バカな息子なら、母に従って、ともに偽装(=共犯関係)していくのでしょうが。」

「「謝らない」、それと同じ視座ですが「常に正しいことを言いたがる」という、これも自閉症的な態度です。これも狂った母の特徴。」

「この狂った母の指図を聞くバカ息子の類型の例。現代アート界の大きな問題の一つとして「パクリ」という問題があります。「大きな個」が現れた際、「あいつは、パクリだ!」「俺が先に考えていたことだったのに...!」と、村中に陰口を言いふらす人間が現れる。それも雑魚ではなく、中堅以上の実力者だったりする。その「陰口」そのものが影響力と権力を持っている。」

「アメリカではそうはならない。もっと「個」を尊重する気風がある。でなければ、HIPHOPやハウスなんて、生まれようがない。日本でやれば業界ぐるみで、確実に潰された筈。」

K「「偽装」は母がさせていると。アートでいうと、私がいう表現の「虚仮威し」の本質は母親が与えているということですね。納得できます。「謝らない」「常に正しいことを言いたがる」息子。」

O「HIPHOPやハウスが「パクリ」であることは、「常に正しい」視座では、むしろ正当ということになる。ここにも日本とアメリカの世間の質の問題がある。」

K「(ハイエクで言えば、ギリシャ由来の「交易」に出帆する)「大きな個」、それを村の中堅以上の人物(=母親の欲望に忠実なバカ息子)が御触れを出して差し止めようとするという図ですね。日常よく見る光景。」

O「文字通りの「個」の消失。」

「ゆえに「聡明な息子」がやれることは、無視すること、そして、量に徹していくこと。基本戦略。」

K「その通りですね。」

O「母ではなく、歴史の僕となること。」

K「それです。それ(!)。」

O「アメリカが個を重んじられるのは、桁違いの資本とデポジットを背景にしている、というのもあるにはある。戦力に差が開きすぎている。」

K「資本の投入が大胆なんですよね。自閉症的ではない。自閉(スペクトラム)症の特徴は、医師・内海健氏の私に個人的に語った表現では、「金勘定に細かい」(=フッサールの例)。内海健氏は、日本の精神医学界においてスキャンダラスな存在ですね。」

「ここを少し解説してください。>「HIPHOPやハウスが「パクリ」であることは、「常に正しい」視座では、むしろ正当ということになる。ここにも日本とアメリカの世間の質の問題がある。」」

O「著作権やアイディアの争奪戦の話ですね。これはアメリカでは実際に問題になり、「訴訟国家」といわれている所以ですが、アメリカと日本が決定的に違うのは、情報の遮断の質とか優先度。「あいつが俺の曲をパクった」という声の社会的影響力を考えた時に、アメリカでも日本でも「正しい」わけですが、世間の質が異なるので、アメリカでは「無視」が有効なのです。では、日本ではどうか? まったく違う結果が出ます。世間、村、総出でリンチにあう。「個」を守らない国、それがこの国であるという意味でした。だからこの国では、「常に正しいことを言う」狂った母たちが勝つ。」

K「ありがとうございます。わかりました。大元の「狂った母」の力とは、恐ろしいものですね。自閉症化した息子は人形のようだ。」

O「狂った母は(深い意識に)罪悪感があるので、息子に対して「物」(=資本)だけは、豊富に与える。嘘を吐き続けながら息子は深い傷を負っているが、資本でごまかす。」

K「医師・内海健さんのメッセージ内容が、私はだいたいわかってきた。例えば、(読んではいないだろうが)ハイエクに方向としては親和的ですね。「自閉スペクトラム症」を心の底で馬鹿にするのは、それと関係する。私との会話で以前ギクシャクした部分が生じたのは、簡単に言えば私がその時「左翼」陣営の言語を内在(=表面)化させていたから。(私に個人的に語った)ピカソとラカンの「非-自閉スペクトラム症」的交流(ハイエクで言えば、ギリシア由来の「交易」)の例。ただ、私から見てやはり内海さんが痛々しく感じられるのは、件の「知識界の絶望論」の話だが、内海さんが例えば三島由紀夫を「まごうことなき天才」などと、臆病にも発してしまうところ。「芸術」は三島からの手紙を捨てた(=焼いた)川端の方なのに。川端は猛禽類の目をしている。三島はフェイク。草間を「芸術」として良いと思ってしまうことも同様(浅田彰が絶賛するので、おそらくそれで根拠のない「勇気」を得て。それと、市場を見て安心して)。『金閣寺』を書いた三島は、川端(=芸術)と対照すると「デザイン」。それは人物の配置が「見取り図」的で「標本」のような『鏡子の家』にもよく現れている。30年代にはあった(井上長三郎の例)、「身体性」の欠如。私の勘では、(反対のように振る舞っているが)内海さん自身がその侮蔑する対象(=症状)の範疇、という可能性。」

「日本の知識人が「勇気」をもって「芸術」に次々と身を投げる構図。根底には「知識界の絶望論」。そこには自身の内在する「自閉スペクトラム症」の超克の文脈がある。」

「「身体性」がないのは、三島由紀夫も、それを軽侮する彦坂尚嘉さんも同じ(「腹を切って死んだことだけは認める」という表現)。あるのは私。」

「「腹を切って死んだことだけは認める」、これは日本の知識人にステレオタイプによく見られる表現。例えば美術評論家・千葉成夫氏は会話で私に「あれだけはすごい」と。おそらく、内海さんは精神医学界の世間に「見限り」をつけて、(藝大就職と同時に)このポイントにはまってしまった、という事例。」

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