芸術嫌い

森田靖也(旧表記:オマル マン)氏との対談、第79回目。

K「森田さん、こんにちは。本日の、こんな感懐。私のFB日記より。リヒターとか草間彌生とか、いかがわしいアートを扱うギャラリーに長期所属するのを私は早い判断でやめて、本当に良かったなあ。日本には、いかがわしいギャラリーしかないが。真のギャラリーを一つだけ作るなら、それは面白いかもしれない。もし誰かが。」

「「本物の芸術」をこれまで口にした人は私が知る中でも何人もいるが、「本物のギャラリー」が存在することは、可能態としてもこれまで唱えられたことはないのではないか。「ギャラリーとはいかがわしいもの」という、日本人にこれまで暗黙に定着した観念がある。根底に共有された「業者」差別があるのでは。「業者」は汚い仕事を代替するものとして、利用するというような。アーティストが。「商業」差別ですね。ハイエクが語るような。コロナ禍でも、それは現れた。日本では。」

M「加藤さん、こんにちは! ギャラリーって、都内のいたるところにありますね。私の以前の職場だった池袋とか、新大久保とか。」

K「ゼロ年代以後、至る所って感じですね。」

M「謎のギャラリーが...って感じで見てましたね。キレイ目のねーちゃんが立ってて。」

K「もちろん私は逐一足を運んだことはありませんが。一過性に現れて、すぐに消えていくというようなのも。」

M「「一過性」ですよね。正直、本当に絵を売るのが目的なのか?という感じの(笑)。一般的に、イメージしやすいのはデパートですよね。比較的、みんなが。「ギャラリー」というと。」

K「一般的には。写真展とか、デパートでありがちですね。」

M「そうですね。2000年代は、割と私も足を運んでいた記憶。渋谷の文化村とか。」

K「私は行ったことがありません。広告で見るぐらいで。上記謎のギャラリーもそう(ネット時代以後の現象として)。」

M「それ以外の、東京の”オルタナ界隈”。新興ギャラリスト。そっちはノータッチです。」

K「森田さんも足を踏み入れたことはないと。」

M「ないですね。加藤さんがウォッチ対象としている。西麻布の...。私が今現在、「ギャラリー」って言葉で連想するのに一致しているのが、あのあたり。」

K「『美術手帖』と、広告的に密に癒着しているところですね。」

M「そういうことになりますか。どうしても、BTとは。どこかで、やはり。」

K「そうでなければ、客足を取れないでしょう。特に若年層。」

M「広告、「消費」方向で行くのだから、おのずとおいてある作品も、そことリンクせざるをえないですよね。」

K「選択肢は一択。」

M「一択ですね。」

K「その若いオーナーと私は喋ったことがあるのですが、代々商業の家で、本人が「穢れ」の意識を纏っている。私の直感ですが。ハイエク「聞くところでは、日本では一九世紀の終わり近くになっても、「金儲けをする人は不可触賤民の階級に近かった」のである」。ここで語ったテーマでもありますね。」

悪と穢れ|加藤 豪 #note https://note.com/naar/n/nf14c338e33b1

M「「穢れ」ですね。なぜか、こう符牒が、不思議と出そろってくる。ストレートに自己の実存の問題という。とことんオルタナで終わるでしょうね。「(迫害されている)俺たちの楽園を探して...」っていう方向性。」

K「親の商業のその経脈から、(日本の)現代アートで自立っていうのが、そもそもの発想からして。悲劇かファルスか。いずれにせよ。定められた。上記私自身の経験でも、その画廊主は「日本美術史を清算しゼロにして、草間彌生から始めればいい」ということを吹聴していた。「狂気」の草間彌生は、彦坂尚嘉さんの判断では、アートの最下層。ゲルハルト・リヒターも、そう。その画廊主も、資産家の子息でした。同じ構造の反復ですね。しかし、「ネタ」はバレていく。現在「暴露」の時代に。私は既に予告していました。」

加藤 豪@_5925263769112·2019年10月11日
令和は「暴露」の時代。振り返れば、平成は「隠蔽」=「隠し事」の時代。隠蔽の時代の感覚のままの人たちが、令和においては大量に暴露される。
https://twitter.com/search?q=%40_5925263769112%E3%80%80暴露の時代&src=typed_query

「ガーシーではないですが(笑)。」

M「ガーシーもそうですが、なぜあんなふうに台頭したのか? というと、やはり、うちのめされている人たちが多い。だから。そこに目を向けた方が良い。草間彌生では、誰も救われない。みんな、本当は、目を醒ましたがっている。」

K「うちのめされても、内発的に声が出ないというのが、自然状態だったのが、場面が変わった。「草間、市場価格を見て安心して良いって言っている知識人もクソじゃん」という、出てきて当たり前の声。リヒターもそう。80年代以来の状態からの、脱出。茂木健一郎。一億代表、みたいな。」

M「象徴ですね。」

K「格好な象徴でしょう。「アートを語らせたら、全てがバレる」。」

M「そもそも、ギャラリーって話だと、私自身は、芸術の力というのは、「見つける」力だと、思っているふしがあるんですよね。ほとんどの人は、素通りするんですよ。芸術から。」

K「茂木健一郎氏に象徴。それは、市場価値を見て安心するというキッチュな文化人。「発見」はない。茂木氏が語るリヒターにしろ、マリーナ・アブラモヴィッチにせよ。「このように業界では語られている」ということがそのまま下敷きになっている。ちなみに私はアブラモヴィッチに同じ国際展に参加し、直に接しているんですね。こういう名前を列記して安心している知識人は、日本の場合、ほぼ100%。少なくともそれら対象の語られ方への「疑い」を、自ら具体的場面で口にしない。」

M「「発見」の喜び、驚き。こういう本質と、無縁になってしまいましたね。市場価格、発行部数、共感の数、、、こうした煙幕の向こう側においやられてしまって。」

K「象徴は、茂木健一郎でいいでしょう。もちろん、件の布施英利でも良いが。今や古びたキッチュの象徴ですね。「芸術破壊」。」

M「そうです。悲しい。」

K「なぜ悲しいのか、「悪」でもないからですね。単なる愚かな。」

M「加藤さんがよく(現代アートを指して)「自傷」と表現されますが、まさに。」

K「「自傷」ですね。集団自傷みたいな。でも、それぞれ現実面ではバラバラ。「実存」の問題に責め苛まれている。休みなく。」

M「一枚も納得したことがない、っていう。地獄ですよね。」

K「地獄を認めましょう、ということですね。彼らに言うべきは。現代アートに言及した、手を染めてしまったのが、日本人にとって「罰ゲーム」ですよと。「全体を見ましょう」と。「芸術」の生命はあなたたちがルサンチマンにより周到に全破壊したつもりでも、現実に生き残っているので。あなたたちは、地球上で最も孤独だと。」

M「この前、ヴィトゲンシュタインの話をしましたけど、「実存」の問題を超えるってことが、いかに難しいか。」

K「ヴィトゲンシュタインの、「アスペルガー」とかの問題にもなりますか。『哲学探究』を読むと、その問題を私は強く感じます。」

M「関係あるかも...しれないですね。社会から逸脱した「私」ということ。ここ数十年来の現代アートの問題も、ここにある。茂木の語る「アート」やら「文学」やら「演劇」やらでは、もはや、この社会と実存の裂け目を埋めることはできない。」

K「できませんね。」

M「ゆえの「地獄を認めましょう」、っていう話ですね。」

K「布施英利氏と一緒に2時間も、美術館でウォーホルの「花」の作品を茂木氏は見ていたという。ここに「地獄」あり、まさに(笑)。藝大帰って、何を授業料を取って誰に教えるのかと(笑)。」

M「それは、、、おもしろい(笑)。」

K「滑稽ですよね。何も「発見」などないよ。」

M「いや、でも、それは苦しいだろうな。本人たちは。便秘みたいな感じで。」

K「2時間見たって、現代アート入門書に書いてあることが反芻されるだけ。」

M「本だけじゃ、やっぱり。」

K「まさに、ジャコメッティの彫刻みたいに。二人並んで。細くなる。武田双雲と話していても、発達障害の自己肯定の同意しか、出てこないでしょう、内容は。堂々巡り。それを補う、「旅ラン」。苦しい。」

M「「旅ラン」と「雑談」。今はその二つですもんね。」

K「「旅ラン」と「雑談」、「コメディ=一人芝居」。」

M「あと、本を書いているという本人談ですけど。」

K「「発達障害と、その社会との適応性」、この問題に茂木氏がとかく芸術その他を語るときに収斂させがちというのが、私は発達障害の自己言及的に過ぎ、間違っていると思う。「全体」を見ていない。」

M「卓見だと思います。」

K「これは、美術批評家・矢田滋氏とも私は話し合ったことなのですが、例えばレオナルド・ダ・ヴィンチを「発達障害」の枠に押し込んで語ってしまうのは、大変に無理があると。この点で同意。レオナルドが未完で終えた作品が存外あるということを指定して。こういう発達障害への還元主義は、暴力的なのですね。そこにある本質は。いざ、そこに収まらないことが分かると、多分に(ほとんど身体レベルの拒絶で)排撃してしまう。ここにこそ深刻な問題が眠っている。」

「彦坂尚嘉と、茂木健一郎を、線で結ぶこと。おそらく、同じ問題を抱えている。例えば、茂木氏も「自分は戦争反対だが、いざ本当に戦争になったら、例えば第二次世界大戦なら、自分は特攻隊にでも志願するような人間」だと語っていた。何か、「忠義」に救いを求める方向性があるんですね。あくまで語られる仮想のレベルでですが。両者。」

M「その動画、見ましたが、いつになく彼の素に近いものが見れた気がしました。バートランド・ラッセルが好きって言ってる割には、特攻に志願しちゃうんだな?と。」

K「「俺は愛国者だからさ」。これもよく言いますね。」

M「なんなのか、柄にもない感じで、ふっと差し挟んできますね。あと、この国の人々は目を醒ましたら、こんなものではない、とか。日本を指して。一方で、芸術を気にする気持ちがあり、もう他方で、ダヴィンチなどへの「羨望」との表裏一体のような、冷淡さというか、距離の取り方があり。頭の中で「民を救うための芸術」みたいなことを考えているのか。ダヴィンチは、そこにはたしかに合わない。」

K「彦坂氏にもある。彦坂氏、私に対面したときに「ダ・ヴィンチ のような存在が再び現れることはないよね?(笑)」。あのなんとも言えないごまかし笑いが、私は忘れられない。」

M「解消できてない感じありありですね。」

K「解消できていない。両者おそらく共通。日本の、少なくとも戦後以来の、美術史上の広く共有された問題でもある。「羨望」と、内に含まれた「破壊」衝動ですね。」

M「そこに至りますよね。」

K「それと、「狂った母」的存在との、同時並行的関係。癒しもあり、食べ物と、ミーハー的にその都度熱中できる対象。その点、彦坂氏は自身のガス抜きが熟練。」

M「ポンポンポンっと。なんにせよ、スパンが短い。その王様はリヒターでしょうが。機関車みたいに。ずっとガシャガシャと描いている。「飽き」っていう共通項。「発見」があったとして、私なら10年20年、平気で、温めますけどね。そういう感覚が大事なんじゃないかって思うんですよ。」

K「ガシャガシャと。ボケたブロマイド的写真を油絵具で職人的に描き起こすというのも、ホビー的日常性、自身のミーハー性とも関わりがありますよね。幼児性。成熟した芸術ではない。」

M「「お前ら有名になりたくないんか!?」っていう圧が。全部ぶち壊す。芸術を。「偶有性の海に飛び込め!」みたいなことを、こと芸術に関しては、言うべきではない。」

K「そういう文脈になりますよね。茂木氏、やはり間違っている。森田さんだけが、そこを初めて射抜いた。」

M「「なにもしない」、って、一番きついですよ。改めて。なにもしないで、じっと...って。一番の苦行。これに耐えられるか?という。茂木氏はいつも、「やらないより、やったほうがいい。確率論的に自明」みたいな方向。」

K「それ、80年代の身体の(現在の)亡霊。「意味なく踊れ」(浅田彰)。「でもやるんだよ」(根本敬)。「偶有性の海に飛び込め!」(茂木健一郎)。現在も生ける、羨望による「芸術破壊」の団子三教祖。」

M「精子がでなくてもマスをかけ!と。」

K「「でもやるんだよ」・・(笑)。」

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