会田誠 マイク・ケリー ピカビア

オマル マン氏との対談、第17回目。いきなり、斬り合いから入っていきます。

K「オマル マンさん、こんにちは。アートの話題で。これまで対談では、「空間」視、「平板」視の、美術表現における歴史上の対立の問題を我々は語ってきましたが、ここに「立体」(西洋)vs.「平面」(日本)という広く世に喧伝される対立図式からの、既にズラしがある。後者はいかにも(「正統」さを欠く)素人の議論で、それを例えば美術家では会田誠が最もよく表している。参照。」

会田誠@makotoaida·52分
村上さんなのにフラットにはせず、やっぱり最低限の立体感は入れてくるのね。そうプログラミングで決めてて、そういう融通性までは今のところはないという限界はわかった。まあ、西洋人が作ったってことね。

引用ツイート
飯島モト@mochiunagi · 4時間
AIに描かせた偽村上隆です。 https://pic.twitter.com/2wrZ8elJbI
https://twitter.com/makotoaida/status/1478698839750365184

「ここで会田誠がリツイートしている他のAIを使った作画画像も、「空間」視が無く一様に「平板」であるという点は、一つには興味深い。」

「「ゴロッと物が描かれている」ように見えるが、全体で見ると「平板」という特徴は、例えばルシアン・フロイトにも共通する。ベーコンはより省略された具象性だが、反して「空間」が多くに成立している(ベーコン・前期)。」

「ルシアン・フロイトの特徴に共通なのは、他に高橋由一や、会田誠の「梅干し」を描いた絵画が相当する。」

「「立体」vs.「平面」というイデオロギーは、「日本」を固有化(さらに「全体」化)することに寄与するが、日本美術史を(等しく)見るとそこから剰余するものが、まさに余りある。宗達・その他、枚挙にいとまがない。」

O「加藤さん、こんばんは! 問題提起ありがとうございます。会田誠氏については、ポーンっとチェスの駒を進めるような感じで、作為を感じますけど(笑)。会田氏の作品の”高橋由一”性に、含みがたくさんある感じとか。」

K「オマル マンさんが会田誠をよく「敢えて」と表現しますが、会田誠は字義通りに「平板」視しかできないということは、分かりやすく彦坂さんの実験で証明がされている。」

O「いや、そこは加藤さん、彦坂氏の意見を疑ってないのです。」

K「私は会田誠の作品は、通して見てきているので。」

O「なんでしょうね。これ、前回も話をしましたが、ダダの話で、insignificanceなアートって言葉を出したのですが、会田氏がまさにその感じがする。」

K「彦坂さんの「意見」ではなく、私が語ったのは(例えばダ・ヴィンチの素描を使った)「実験」、その結果(会田誠はダ・ヴィンチの素描を言い当てられなかったと)。」

この2枚のドローイングは、右側がレオナルド・ダ・ヴィンチである。左側が、同じ工房で働いていた無名のアーティストのもので、両方とも、工房での訓練で描かれたものである。
この作品のどちらが良いものであるのかというクイズを、アーティスト名を隠して行うと、ほとんどの人が無名アーティストの左のドローイングが良いという。
レオナルド・ダ・ヴィンチの方を良いという人が、ほとんどいないのである。
この実験は、実は20年ほどやってきているのだが、美術評論家であろうと、画廊主であろうと、作家であろうと、間違えるのである。
 人類史の中でレオナルド・ダ・ヴィンチというのは、傑出したアーティストであると思うのだが、そのデッサンを良いと選べない私たち日本人の《眼》というのは、良い眼と言えるのであろうか?
あるいは、伝統の違う西洋絵画の神髄を、日本人は理解できないと考えるべきなのであろうか?  (彦坂尚嘉)

東京ヤーコブ・ローゼンバーグ派
https://jakob.exblog.jp/155450/?fbclid=IwAR3V-KP1PFDLbPl0rSjn2rxU-6kuZA_GUP7QGw0uKG7nF-odHr48cf8Qb7I
(より詳細な画像。ヤーコブ・ローゼンバーグ『美術の見かた』(1983年)より)
https://www.after-contemporary-art.com/post/tokyo-jakob-rosenberg-school

「オマル マンさんの「敢えて」というのが、単なる誤読なんですよ。」

O「私の若いころに意識的に見た、最初のスターだったというのもありますね。会田氏は。なので、バイアスはかなりある可能性は高い。」

「ゼロ年代、会田氏にはバリバリの「敢えて」感があったので。会田は本物!みたいなこと、絶対いう気はないですよ。念のため。」

K「ハイエクが語っている、「言語」の問題。」

数多くの広く抱かれている信念は、それを暗示することばやフレーズのなかにもっぱら暗黙裡に住まっており、決して明示的にはならないかもしれない。それゆえ、その信念はけっして批判の可能性にさらされない。だから結果的に、言語はたんに知恵のみならずある種の根絶しがたい愚かさをも伝達するのである。

フリードリヒ・ハイエク『致命的な思いあがり』(1988年)

「暗示する短い言葉やフレーズの先行というか、それが強力だということで、各主体にとって、世界の知覚は。」

O「なんでしょうね、私の中には、会田氏の展開の「面白さ」を評価したい気持ちが一方にあるのですよね。そこをどう評価すればいいのかというか。」

「表現がむずかしいですが、アートをある要素に還元していって、それこそ「判断」すらも。それで「ここが本質だ!」という言い方って、アートの分水嶺みたいな部分だと思うのです。あんまりやりすぎると、解体の方向にしかいかない。理論をつきつめて、それで傑作が生まれるのか?というと、現実を即して、「違う」。」

「会田氏はどうか?たぶん、傑作とは言い難いかもしれないし詰めが甘くて、「ゆるい」のだとも思う。でも面白いのですよね。」

K「「詰めの甘さ」という次元でも、私からはなく。ある重大な欠落。思考力、まさに「面白さ」。」

O「それと、会田氏のTwitterは「バカ」でしかなく、半ば自称もされているというか。だって、本当にバカなだけなので。」

「方々から「バカ」と言われてて、本人は「あっそ」みたいなリアクションで切る。」

K「「あっそ」って、昭和天皇の(?)。これも「敢えて」で「面白い」と。」

O「「バカ」を鵜呑みにできないという私の気持ちを汲んでいただきたいというか...。会田氏のTwitterは何年もフォローしてるので。一個も、褒めるところ、ないのですか?」

K「いやそうではなく、「敢えて」という解釈が、または「バカ」という短いフレーズが、反対に覆ってしまう物がある。「敢えて」「バカ」ていう形で、人間を救ってしまうと。」

O「そこは承知しました。」

K「褒めるところ、私からは見えなくなりますね。個物(人間を含めた)に言語のカバーができるというか。「わざと」やっているからいいじゃん、と互いに決定的な部分から、庇いあう。」

O「会田氏の作品単体というか、それをふくめた「全体」があって、彼自身が進んで、そうやって「カバー」をまとっている、という気がしてならないのですが。この視点も「敢えて」で「愚か」ということになると思いますが。どうしても、そういうふうに見えちゃうのですけど。私が「愚か」でもいいのですけど。そこはやっぱり譲れないというか、感じていることを言うしかないので。」

「会田のゼロ年代の作品とか、あきらかに外人にウケるように描いてるところ、あると思うのですよ。そういう部分も含めて「敢えて」という表現は、使ってはならない、と言われると。途端に表現が難しくなるというか...」

K「ステレオタイプな「左翼」的な、本人が発言する内容も、その種のカバーでしょうね。私がいうのは、「それしかできかった」という、その時点でのリアルタイムの歴史を背景にした「現実」。」

O「加藤さんならではの証言なのは、むろん承知しております。いちばん近い位置にいらした方ですので。」

K「「外人にウケるように」っていうのは、私にはいかにも不明瞭で。」

O「加藤さんが、そうおっしゃるのは、じつは予期していました。むろん、私が素人だからです。そういう視点があるということは伝えたいわけです。」

K「反対に、その「内向き」な方向性が明瞭。」

O「ああ、だから、そこらへんで齟齬がありますね。根本的に。」

K「私は、その内向きな方向性が、一番今後危ないと(彦坂さんも含め)。」

O「ゼロ年代の10代の若者だった私が、会田誠への嫌悪感は、ありますし、それは加藤さんの意見と感性からはズレるが「お前いい加減にしろや!」なんですけどね。会田はそんなにバカじゃないという前提があって。加えて、加藤さんが仰る、致命的な欠陥があると。10代に見た、あの会田ブームのショックが、ずっと引きずっている。」

K「会田誠に関しては、私の観点からは、まさに美術の素人。対して、オマル マンさんは、この彦坂さんの実験では、正解を普通に言い当てている。そういう、一種のねじれがある。」

「美術史において、ダ・ヴィンチのデッサンが分からないというのは、まさに「致命的」になるのですが。しかし、彦坂さんは「素直な日本人」に対して「邪悪」を模した自己を(同じく内向きに)「売り」にしているので、そこをもろとも解除させたいという願望が、私には根底にあります。」

O「加藤さんがブチ切れるかも、と思って怖くて、封印していた対比があるのですよ。本当は。」

K「例示してください。」

O「会田誠と、マイクケリー。」

K「私から見ると、ケリーは「優等生的」(=歴史的正統さの上での、「卑俗」性の参照使用)で、いわば真性の「邪悪」(それがおそらく本人を苦しめる)。」

「だから、美術評論家・矢田滋さんとも話したが、ケリーは(罪悪感から)、日本人作家(工藤や草間など)を言語で形だけフォローする。本当には「下」に見ている。同時代の「西海岸系」の作家たちに対しても。だから、友好的に振る舞える。しかし、本人は鬱になる。」

「その話をしたときに、矢田さんは「無いと思われていたものが、やはりあるんだな」と。例えば、アメリカ人の、日本人に対して行った、原爆に関して。」

O「「ミュータント花子」が一番いい、と、以前、加藤さんに話をしました。上段のマイクケリーの言及を見て、再確認しました。」

K「そうですね。私もリアルタイムで、一読した記憶が。持ち歩いている原稿の時点だったか。一緒に東谷隆司の世田谷のアパートに泊まった時に、私が東谷が企画に関わる『デ・ジェンダリズム』展に参加し、それを会田が見に来て。」

「オマル マンさんはあれに、何か感じたんですよね。]

O「何かを感じましたね。マイクケリーとの対比は、(同じく鋭い直感で)やっぱりヤバかった。」

K「どんな直感?」

O「違和感」

K「対比が強く見えたと。」

O「はい。酷い。」

K「だって、オマル マンさんは彦坂さんの嫌がらせのテストで、全問正解をしているから。曰く「象徴界」があると(当初は)。彦坂さんは、忘れているんでしょうね(健忘症?)、後には「最低次元」に。」

O「彦坂氏は、そういう人ですよね。悪人。」

「でもケリーはやっぱり、魔人ですね。思った通り。」

K「「深み」がある。むろん単なる「ポップ」なアーティストには、歴史上整理できない。」

O「たまたま一昨日、ケリーの画像をいくつも漁って。YOUTUBEの動画もチェックしていたのですよね。」

K「だから、前々々回か(対談で)、ピカビアの歴史・正統性と文脈上つなげる必要が出てくる。「西海岸系」で括るのではなくて。」

O「加藤さんも、凄いなと思ってます。あれを追いかけるとは、本当に。」

「日本を憎くならないのでしょうか?」

K「恐縮です。」

「私は、最終的に日本人愛だと思いますよ。」

O「加藤さんの傑出している点ですよね。ケリーに触れてはならないという感じがしてて、加藤さんのお話を聞いて、やっぱりと。」

K「私事で恐縮ですが、年末に義理の弟(去年11月15日に死去)の四十九日の法要に、実に13年ぶりに呼ばれて私は訪れたところ、まさに一族郎党から「歓待」されました。これはおそらく日本固有の「構造上」の問題だけではなく、私の側からの、日本への愛があることを私は確信した。」

中島らも|加藤 豪 #note https://note.com/naar/n/ndcb74f19be6e

O「日本への愛だと思う。」

K「そうですね。発見ですね。良かったというか。」

O「わかる。」

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