理系アーティストの驕慢

オマル マン氏との対談、第20回目。

K「オマル マンさんこんにちは。今回は美術の話題で。目に止まったツイートから。」

八谷和彦@hachiya · 1月20日
普通に学芸員やスタッフを常勤にしたり、指定管理制度やめたり、美術館・博物館コレクション予算増やしたり、私立美大の授業料安くしたりしたら良いのでは?
(奇想天外な案は不要です…)

岸田首相がアート振興の推進を明言。衆議院本会議の代表質問で|美術手帖 https://bijutsutecho.com/magazine/news/headline/25112#.YelB3E19BF0.twitter
https://twitter.com/hachiya/status/1484122035961745410

「アーティストの八谷和彦君は、どの程度に美術館の収蔵品内容に考慮があるのか?、言及がなく、私からは形だけの無責任な発言に見える。背景に、美術の共同体主義に肩入れをしておけば、作家としての個人の自己利益に繋がるという、合理主義・打算が見られる。」

「これはあいちトリエンナーレ2019に際して、氏のSNSでの発言に現れていた、(議論内容を問わず)美術の共同体主義に肩入れしておけば、自己利益につながるという発想と同種。この氏の姿勢はいわばモデルであり、美術界に広く共有されている一つの形。」

「氏の代表作、PostPet等は、美術史の文脈上いかなる評価が可能なのか?は、ごく不明瞭である。あの飛行機に関しても。」

「氏の発言に関しては、全般に、新自由主義的に主体が生き残る為のノウハウを説く、というトーンが主流である。藝大で教鞭をとっているのも、その受講者にとっての利益性が主であろう。私が「新自由化されたアートに反対する」と表明する時に、まず念頭にあるのは代表的に八谷氏のような作家である。」

O「加藤さん、こんにちは! 私、八谷和彦氏のことを、全く知らなかったのですが(その反省の必要性も感じない)。パッと顔とか、作品とか、wikiとかを見て、「ははあ...」と。今だと落合陽一でもいいのですが、工学系アートって、すごく存在感があった時代があると思うんですよ。まさにゼロ年代に。その手の人たちの話を聞いたり、著作を読むと、まず「コンセプト」が先にある。なにか分かっているような立派で壮大なことを言うわけですよね。「文脈がどうたら」と。でも現に出てくるものは、率直に言って、ある種の「つまらなさ」「平凡さ」が先行している。今後、ゼロ年代がリバイバルするかどうか、っていうのは、微妙なラインですけど。逆に、リバイブしたら、違う見方が出てくるのかもしれない。」

「新自由化されたアートの急先鋒になってしまっているのは、(もし加藤さんの仰るとおりであれば)やはり残念な話ですね。八谷和彦氏の工学的知識のアドヴァンテージは舐められないなと感じますから。八谷氏には、大衆性(量)の不足が見られる。率直にいって。」

「もうひとつ、メディアアートのコンセプトの「明快さ」みたいなものですね。「そんなにわかりやすくていいの!?」みたいなつまらなさ。この傾向は、どこから発生したものか?たぶん、戦後のどこかの時点からでしょうが。」

「結局、八谷氏はメーヴェを造ってしまう。この実体性の強さ。」

K「八谷君は実体的ですね。確かに。オマル マンさんがいう「大衆性(量)」の不足は、その 明快すぎる(でっち上げと言っても良い)「コンセプト」の先行、それに対する執着から帰着するものなのでしょう。落合陽一氏に関しては、私はほとんどこれまで知りませんでしたが、だいぶ以前テレビの討論番組で「メディアアーティスト」という肩書で登場していたのを見て「え?!」と思った記憶はあります。」

「おっしゃるように「工学系アート」という呼び方もあるが、「アート」という言葉に、等しく天真爛漫なと形容できる依存性が見られる。」

O「たしかに。「ボク、メーヴェ造ったど!」って。ほぼ、5歳児じゃないですか。発想が。ある意味、天真爛漫、融通無碍。」

K「NTTインターコミュニケーション・センターができたのが、90年代末。浅田彰が京都のダムタイプとともにそこに肩入れしていたが、浅田の著する美術論が完全に素人のものなので、根拠には全く役立たなかった。浅田の美術の自覚なき素人ぶりは『ヘルメスの音楽』のフェルメール論にも顕著。(彦坂尚嘉氏が指摘するように)フェルメールは美術史における正統なものではない。レオナルド・ダ・ヴィンチ等と比較しても、「空間」が成立していない。」

「メディアアートと言っていたものは、海外のものは、私はほとんど耳にしなくなった、現在。」

O「加藤さんが「八谷は美術史の文脈上いかなる評価が可能なのかは?、ごく不明瞭である」とおっしゃるのは、私は感覚的にはすぐに理解できるものですが、もしかすると、一般の素人側から見ると、分かりにくいものかもしれないですね。落合陽一=アーティストと認識されている世の中ですから。」

K「そうですね。」

O「まさに、海外からは聞かない。内向き。」

K「彼らは「国内政治」をやっている。」

O「だからプレゼンの達人、落合陽一が勝つわけです。八谷もその潮流の一人でしょう。浅田彰も、そういえば、そうですね...。並外れて数学ができる方々なんですけどね。もったいない。アートに何の貢献もできない。理系の人たちは。」

K「数学ができても。そこが難点。」

O「理系的知に戯れれば済むとでも?という感じ。能天気なバカ。」

K「そうですね。楽天的ですね。」

O「この系統の方々の性質の悪さというのも論じられてない。数学屋しか認めないのですよ。仲間内なんですよね。茂木健一郎にも見られる。(隠してますけど)この態度は。外から見ると、親し気に見えても、半径1m以内に近づくと、見下し方が半端ない。ただの極東のイエローモンキーの分際で、イギリス人気取りみたいな(笑)。滑稽なんですけどね。」

K「八谷君を「新自由主義的」と私は形容したが、正確に言うと、修正する必要が出てくる。その「国内政治」という点を勘案すれば。まさに「仲間内」で(根拠不明な)アートをキーワードにネットワークを作っている世界。要はコネが重要だと。「コネを掴むのも才能の内」という標語は90年代以後の特にエンターテイメント界で流行したが、アートもそれと同時並行している。そうすると、お笑い芸人と何が違うのか?と。「芸術」の正統性を欠いて。」

「「競争」という語は、ここでも正確に機能しなくなっている、という現象。」

O「そうだとしたら、芸術的貢献も期待できず、フェアな競争も起こりえず。八谷氏のツイートは、税金のムダ使いの方向...」

K「だから、八谷氏の上記発言に、私は熱く異論を唱えたんですね。」

O「うん! その通りと思います。はっきり言って欲しいですよね。あなたは何だ?と。」

K「「公共の利益」を偽装している。」

O「「工学者です!」って言いかねない。おいおいおい!みたいな。」

K「工学者として、どれほどの発見・発明なのか?という問題です。一方で、重要な関心は。メーヴェ(?)はどうなのか。」

O「でも一方で、アートの方が真に工学的ともいえる。ダヴィンチを見れば明白で。工学者としても、真のアーティストの足元にも及ばない可能性。工学=アートを、全然否定しません。私は。ただし、圧倒的な芸術的洞察が不可欠。」

K「ダ・ヴィンチは偉い。コンタクトレンズの原理を考えた。現代にも立派に活用がされている。パスカルも同じく、「バス(乗合馬車)」の原型を考えた。」

O「そうなんですよね。工学者なんぞよりも、はるかに真にクリエイティブかつ、工学的という。」

K「メーヴェは、何になるのかと?」

O「そうそう。パスカルの神に対して、八谷のアニメじゃ、分が悪いどころじゃない。」

K「パスカルは最後、そこに行ったみたいですからね。「発明」も乗り越えて。」

O「芸術では、不可能性がないと意味がないですね。上手く「プレゼン」されても困ります。加藤さんの仰る「コネ社会」の人たちは、失敗とか無駄、ができない人たちですから。才能がないという言い方もできますけど。」

「真剣に破廉恥。」

K「そこですね。「僕の可能性」を先行させても、何も生まれない。それこそ真の「不能」。「不能」の仲間がネットワークを作って、結節点ごとの村長として機能し、全体として業界を牛耳っているだけ。オマル マンさんが名前を知らなかったように、個々の顔は見えにくい。」

「立花孝志の「真剣に破廉恥」、これはネットワークと戦う為の真の個人の所業といえる。」

O「ものすごい自己満足感があるんですよね。メディアアート、工学アート系の人たちって。なんでしょうね?あれは。怖いですよね。見てて。「ボク歴史に残ったあぁ~」みたいな。」

「芸術の不可能性とか、異常性、矛盾性、、つまり難しさを、理解してない様子。「珍獣」として歴史の1ページに残る可能性はありますけどね。」

K「「芸術」って、そんなに簡単に成立しないですよ。彦坂さんの芸術分析(格付け)も、随分嘘をついている。自己利益のために、自分の若年者を時に嵩上げをすることで。そういうのは「象徴界」があるとは言わない。」

O「茂木健一郎が「本質」という言葉をよく使うのですが、いきなり「本質」を語る(騙る?)ことほど、非芸術的な行為はない。」

K「「本質を語りましょう」と。」

O「そう。俺は博士だ!と。オルテガの「大衆」じゃんかよ。」

K「結局、皆権威主義ですね。「反権威主義」の衣を纏った。」

「私自身は、オマル マンさんから従前「元祖・アンチ藝大」と呼ばれている。」

O「加藤さんは藝大出身にしては偉大なほどに「愚鈍な人」ですね。尊敬してます。バカになることを恐れていないようだ。」

K「まさに「愚鈍」。周りの同級生は、(90年代以後)例えば小沢剛も会田誠は顕著に、「誰が有名?!」という話し方ばかりをしていた、私にも。私は、無言。」

O「息止めゲームで、死ぬまで息を止めている、みたいな凄さがある。」

K「(笑)。」

「どこまで、「芸術」を成立させている美術家の私を、完無視できるのか、私をあたかも日本に存在しないように繕って。上記美術家を筆頭に、学芸員・ギャラリスト・美術誌のネットワークの団結で。これを試したいうという欲望が私にはあります。」

O「唯一の「正統」な画家ですね。ひとつの時代に、一人だけは必要です。加藤さん以外、みんな「画家」じゃない。」

K「私も、そう思ってきました。」

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