野生について

オマル マン氏との対談、第10回目。

K「オマル マンさん、こんにちは。対談第5、6回で話した朝倉未来の「物への攻撃性」についてですが、今回のABEMA企画「「朝倉未来にストリートファイトで勝ったら1000万円」(11月20日)の切り抜き動画を見まして、どういうことか大体私は理解することができた。」

「この企画については、シバターのごくまともな意見を参照。」

朝倉未来の1000万企画・RIZIN沖縄大会に思うこと
https://www.youtube.com/watch?v=FFnWar1XeTw

「朝倉の「物への攻撃性」については、第5、6回対談で触れた後に、オマル マンさんへの私信で、私は加えて「高級腕時計や自家用車のフェラーリには向けられない」という指摘をしています(反面、家賃を朝倉が支払っている母親の比較的安住居には向けられる)。この企画で結果としてかなり酷い負傷をさせられたとみられる、挑戦者・元アイドル後藤祐樹は、朝倉に事前に「安物」と判断された上でのという可能性。挑戦者4人目の予定だった元KAT-TUN田中聖は最終的に辞退したようですが、朝倉は事前のインタビューで「KAT-TUNって凄いじゃないですか。それなりに凄い人なんじゃないか」と比較して高く見積もっているので、後藤と同様に痛めつける予定は朝倉はなかったのではないか。参照、事前のインタビュー(50:00頃〜)。」

朝倉未来に挑む4人目の挑戦者は誰だ!?極悪挑戦者発表SP|「朝倉未来にストリートファイトで勝ったら1000万円」11.20 PPV生中継
https://www.youtube.com/watch?v=B40QseLiXoo

「朝倉未来は、シバターが言うような格闘家としての倫理感を欠いているという以上の、逸脱・あるいは過剰な馬鹿さを表している。」

O「世には「特権層」という人種は存在するが、直に接してみないとその真相を知ることはできません。以前の職場に、東大医学部の学生で、まだ19歳だが事業を始めて半年足らずで、M&Aでバイアウトして、10億の金を手に入れてしまった。出文京区の大病院の嫡男でして、完全な特権層といえる属性でした。こういう、選ばれた人は、ではさぞ人格も出来ているのだろうと思いきや、まったくそんなことはなく、人間的魅力は薄い。一発でいえばゲスの類。ミス慶応に顔射したのを動画に撮って、金持ちの子息仲間で見せて内輪で楽しんでいる、と万事そんな具合でした。港区界隈には、カーストがあって、そういう類の人間が集中して局在しているのですが。上記の医学部クンも、やはりそのカーストの階段を駆け上がっている気でいるのでしょう。」

「世の中の裏から、檜舞台を見ると、そんなものですよね。本当の文化人ではない。いまやPVも人気も金で買えるのです。しかしその文化的資本の価値は、きわめて薄い。すぐに消えてなくなる。ダミアン・ハーストは、アートの価値は(資本と対比して)まだ誰にも解明できていないと発言したが、それは正しい。」

「この朝倉、アメバ、シバター含めた、一連の出来事も、3年後には誰も覚えてすらいないと断言できる。」

K「このオマル マンさんの見解は妥当でしょうね。>朝倉、アメバ、シバター含めた、一連の出来事も、3年後には誰も覚えてすらいない」

「改めて、これらを余剰するものということが、問題になってくる。これらには「計算する理性」だけがある(あるいはまず先行している)と言える。一番の負傷をしたとみられる後藤祐樹も「計算する理性」でしかない。つまり、未来を見ていない。参照。」

後藤祐樹『1000万円』企画終え感謝「改めて偉大な方」 朝倉未来と対戦も45秒で敗北 | ORICON NEWS
https://www.oricon.co.jp/news/2214704/full/?utm_source=Twitter&utm_medium=social&ref_cd=twshare @oriconより

O「未来を見ていない⇒本来、いかに合理的であっても、ある種の見通しがあって、カオスな可能性が広がっていることを前提とするのが自由主義経済というものでしょう。その視点がまったくないのですよね。とくにネットでは。池田信夫が「もはや競争が死語となった」という視座。今のネットは、自由経済主義とは正反対であり、どこかで誰かが神にでもなったつもりで、裁断している世界です。それが可能な世界。だから私は「表現の独占、特権層」といって憤っている。その神になっているつもりの、勘違いは誰か?」

K「この一連の対談で「精神病化(パラノイア化)と言ってきた文脈ですね。>どこかで誰かが神にでもなったつもりで、裁断している世界」

「アートの文脈では、全てがそうとも言えるが(学芸員・評論家・美術誌・ギャラリスト・アーティスト)。>その神になっているつもりの、勘違いは誰か?」

「私の見方では、アートが社会におけるその先行形態で、あいちトリエンナーレ2019での、その頓挫以後、特にコロナ禍以後のネット世界を中心にその本質が半ば全面化する形で移行したのでは、と。YouTube等の視聴者(=受容者)含めた、「妄想」の全体的・共同事業のような。」

O「ドナルド・トランプなんかも、そのピラミッドの頂点にいて、危険な男とかいわれて悦に入っていた。そういう感じがします。虚栄心を満たせれば満足なのか。かつて私はトランプを「弱い」といいました。世界規模でいえば、誰もトランプを恐れてなんかいなかった。ネットで「危険だ!」といわれても所詮はそんなもの。」

「一方で、皇室問題で日本がひとつになったあの光景。そこに私は「野生」を見て取った。本当の危険さ。」

K「なるほど、トランプの極東におけるミニチュア版としての朝倉未来という見方も、ここではできますね。腑に落ちました。共通する、オマル マンさん曰く「弱さ」の本質についても。」

O「アメリカも中国も、皇室を恐れているのです。間違いなく。トランプを踏みつぶすことは簡単でも、皇室はそうはいかない。」

K「その文脈は面白い。」

O「ネットの問題と、現実の問題とがある。どちらも行き詰っている。そのいずれにもある共通点が「拡張」という志向性です。バベルの塔を築いていくような。」

「これは建築の問題とも同期しています。篠原一男なんかが「野生」といって対置したのは、この都市の拡張志向ではないですか? 対置というか、標的というか。」

K「オマル マンさん曰く「可能な世界」の行き詰まり。対して「不可能性」を中心に据えた(私がハイエクを参照し、解釈した)思考は、真に危険なものということにもなる。」

「オマル マンさんの文脈で、拡張する世界に対する「野生」の対置(篠原一男を例に)というのはとても面白い。篠原一男の建築で、私は重要ポイントと思うのが二つあって、一つは『未完の家』(1970年)のヴォイド、人間を追い出してそれを確保したような。もう一つはオマル マンさん言及の『上原通りの住宅』(1976年)、人間の住空間への(物量を備えた)「野生」の闖入。」

篠原一男 『未完の家(1970年)』 1
http://blog.livedoor.jp/shyougaiitisekkeisi2581/archives/52089500.html?fbclid=IwAR2SlCeb82HVN5HxdXD33sW1nfyDTejVZ2BMnvTz49zsjrxwXOLnicTrGo4
篠原一男 『未完の家』 2
http://blog.livedoor.jp/shyougaiitisekkeisi2581/archives/52090174.html
『上原通りの住宅』(1976年)
https://www.facebook.com/photo.php?fbid=1153061044826823&set=p.1153061044826823&type=3

O「別の場所で加藤さんと話をしましたが、ハイエクが「所有」という言い方をするとき、どうもヒュームに依拠している部分が大きいですよね。ヒュームはカントから出発している人ですが、のちの現象学の先駆という形で、哲学を展開をしている。ここからは、哲学的に問題になるのですが、彦坂尚嘉さんなんかが、典型的なのだけど、現象学に依拠しつつ、「転倒」という態度をとる。「個体から気体、プラズマへ」といって、なんでもメタ的に還元して。芸術作品を眺めるだけで、触らない、とか。触るのは程度が低いと。そんなふうに「伝統」への何かしらの奇妙な見方をとるわけですよ。これって、要するにヒエラルキーへの闘争なんだと思うのですよ。ただ「転倒」っていうのは、これはハイエクの「所有」とは、真っ向から対立しているようで、あるいは、一見、乗り越えている風に見えますが、コインの裏と表ではないですが、やっぱり一種のヒエラルキーになっちゃってるんですよね。それは、現に彦坂氏の活動を見たら、一目瞭然だと思うのですが。加藤さんが「ハイエクに可能性を感じている」(=「ノーマルこそ一番変態」)というときに、私がピンとくるのは、上記のような文脈があるからなのです。」

「別の流れとして、90年代以降の、自由主義経済的な、いろんな自由なアートというのも、あったと思うのですけど、たとえば長谷川祐子の「アートとデザインを遺伝子組み換えする」に表象されますが。以前の対談でも言及したように、「伝統」を否定し、まったく新しい革新、イデアの解放による、革命的機能ばかりを追求した。それを業界一丸になって追及したこと。正当性からの逸脱だけが注視されたのが平成以降のアートだったと。これはこれで、大失敗だったと総括していいタイミングにあります。つまり「伝統」に対する、敗北です。」

「未完の家や、上原通りの住宅にしても、いまや奇跡的に「まとも」な「建築」ですよね。「不可能性」を中心に据えたもの。でも、それこそがいまや唯一の「建築」として示されている。」

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