大衆は神様である

オマル マン氏との対談、第19回目。

K「オマル マンさん、こんにちは。次回の対談テーマ、私はまだ思い浮かんではいませんが、話題としてはシバターがYouTube休止宣言(その後すぐに再開)と、朝倉未来が(軽い)鬱症状の報告、ぐらいでしょうか。Rizin榊原代表が、コメントを出したが、象徴界機能せずという、諸症状・諸現象といった所でしょうか。」

O「加藤さん、こんにちは。そうですね。Rizin榊原は、予想通り。個人的に、ああいうのは一番、嫌いなヤツです。」

K「(またしても)私と同郷。東海テレビ出身で。」

O「「シバターの作戦」とか、そういうミスリードさせたい意図の語が満々。」

K「「シバター に、してやられた」とか。」

O「「シバターは復帰させません」と声明でハッキリ宣言しない限り、信用できませんよね。裏で「ちょっと潜伏しておいて」とか言ってる可能性だってある。」

K「そうですね、これまでの文脈上。」

O「1年後、大衆は、みんな忘れてる(笑)」

K「一番大きいのは、UFCで活躍できそうな日本人選手が目下のところ見当たらないということ。今後もか、という絶望感。日本人は、閉じた「プロレス」をやっているしかないという。シバターの存在は、そこへの批評性(?)」

O「どう解釈するか、ですよね。みじめな奴らなんですよ。榊原もシバターも。ちょっと同情的な心情もある。ほんとに経営って、つらいので。致し方なくで、やれることを、精一杯やってるという見方もある。無い知恵を絞って。」

K「リアルなところですね。「象徴界」より「現実界」。日本は全てそうなる(?)」

O「知恵がない者の生きる道ですよね。選択肢がない。」

K「そうですね。」

O「久保がどう出るかが見ものですけど。」

K「久保は引っ込んでしまっていますね。リアルなものにやられた。」

O「引っ込む、というのが、いかにももったいない。」

K「確かに、当事者中一番、今後が注目されるところ。」

O「おいしいって、俺は思ってしまう性質ですね。自分が当事者なら。」

K「一番関心があるから、おそらく皆が。」

O「バカのくせに、なに引っ込んでんだろ、と。」

K「(笑)、そうですね。」

O「大バカにもなれないバカ。使い道がないですね。」

K「ビジネスマンなんですよね? 今、対戦組むなら、一番注目が集まるんじゃないか。久保。」

O「ほんと、ビジネスチャンス以外の何ものでもない。」

K「対、平本蓮(笑)とか。」

O「ほんとほんと。なんならシバターを凌駕するチャンネルになる絶好の機会。」

K「元キック同士の。MMA転向組。」

O「それが榊原への最大の復讐でしょう。」

K「そうですね。「興業」をやるしかないと(日本人は)考えるなら。」

O「逆を言えば「復讐は即座に実行すべし」そして「拙速は巧遅に勝る」。そのわずかなチャンスを逃せば、久保に待っているのはゆるやかな死です。ふさぎ込んでいる場合ではない。」

K「ビジネスマンなら。」

O「格闘家は、ビジネスマンですよね。興業なんだから。」

K「そうですね。「商業」を恐れるな。参照。」

フリードリヒ・ハイエク『致命的な思いあがり』(1988年)

第六章 交易と貨幣の神秘的な世界

1 商業的なものにたいする軽蔑

市場秩序への反感がすべて、認識論、方法論、合理性、そして科学の問題から生じているわけではない。さらなるもっと暗鬱な嫌悪感がある。それを理解するためには、以上の比較的合理的な領域の背後に回って、なにかもっと原始的な、そして不思議ですらあるものに踏みこまなければならない。それは、社会主義者が商業活動、交易、そして金融制度を論じるときに、あるいは原始の人がそれらと遭遇するときにとりわけ強力に現れる態度や情動である。
すでに見たとおり、交易と商業は特殊化した知識や個人的知識のみならず機密性にも大きく依拠している。このことは金融制度についてもよりいっそうあてはまる。たとえば、商業活動においては自分自身の時間や努力を超えるものが危険にさらされるのであり、諸個人は特殊な情報によって特定のベンチャーにおける自分たちのチャンスや競争力を判断することができるようになるのである。特殊な環境についての知識が追求に値するのは、その知識によってそれを獲得するコストを補填する利益が得られる場合だけである。すべての商人が、よりよくより安い商品をどうやってまたどこで入手するのかを公開しなければならず、結果的にそのすべての競争者たちがただちにかれを模倣しうるとしたら、そもそもその過程に参加することはほとんど価値のないことになるだろう。そして、交易から生ずる利益はけっして発生しないであろう。しかも、特殊な環境にかんする知識の大半は不明確であってほとんど明確化不可能(たとえば、新製品はうまくいくのではないかという企業家の直感)ですらあるので、動機についての考慮を完全に切りはなしてその知識を「公開」することは不可能だと分かるであろう。
もちろん、万人が認知し前もって完全に特化されるのではないもの、すなわちエルンスト・マッハのいう「観察でき触覚で捉えられるもの」とはちがうものに従う行動は、先に論じた合理主義的な要求事項を破っている。しかも、触覚で捉えられないものはまたしばしば不信の対象、そして恐怖の対象ですらある。(ちなみに、交易の環境や条件を恐れるのは、理由はいくぶんちがうかもしれないが、社会主義者だけではないといっておくのがよかろう。バーナード・マンデヴィルは、「海外で経験する労苦や危険、越えるべき大海原、耐えるべき異風土、そしてその協力に感謝を求められる諸民族のことを思うときに残るもっとも恐ろしい予想」に直面して「震撼した」のである(Mandeville, 1715/1924: 1, 356)。われわれは知りえない、また管理できない人間の諸努力にひどく依存しているということを自覚することは、そこから身を引く人たちのみならずそこに参加する人びとにとっても、とても気のめいることである。)
このような不信や恐怖によって、社会主義の思想家たちのみならず一般の人びとも、古代以来そして世界の多くの地域で、交易はたんに物質的生産と異なるのみならず、またカオス的でそれ自体余計であるのみならず、さらにいわば方法論的な間違いであるのみならず、同時に疑わしく劣っていて不誠実で、また軽蔑すべきでもあると考えるようになったのである。歴史を通じて、「商人は非常に一般的な軽蔑と道徳的非難の対象であった。……安く買って高く売る人間は基本的に不誠実なのであった。……商人の行動は初期の集団内で支配的な相互性のパターンを破ったのである」(McNeil, 1981: 35)。エリック・ホッファーがかつてこういっていたのを思いだす。それによれば、「商人にたいするとりわけ物書きの敵意は、記録に残る歴史と同じくらいに古い」のである。
そのような態度には多くの理由があるし、また表現される形態も数多い。初期には、商人はコミュ二ティの他の部分からたいてい隔離されていた。これはまた、かれらだけではなかった。一部の手工業者も、とりわけ鍛冶職人は、農耕夫や牧畜者によって魔術を疑われ、しばしば村のそとに留めおかれたのである。はたして、鍛冶職人はその「神秘」をもちいて物質の実体を変えたのではないか。だが、このことがはるかにそうであったのは商人たちについてであった。かれらは一般の人たちの認識や理解を完全に超えたネットワークに加わっていたのである。かれらはなにやら、諸材の価値を変えることにおいて非物質的なものの変形に携わっていた。人間のニーズを満たす事物の力がその量を変ずることなく変わりうるのはどうしてなのか。商人、ようするにその手の変化を引きおこすように見える存在もまた、目に見え、合意のうえ理解されている日々の出来事の秩序の外部に立っているがゆえに、地位と名誉の既定的なヒエラルキーのそとに押しやられたのである。プラトンやアリストテレス、すなわち、当時その指導的な地位を交易に負っていたポリスの市民によってさえ、商人たちが軽蔑されていたのはまさにそういうわけである。その後封建的な条件のもとでも、商業的な仕事は引きつづき相対的に低い敬意しか払われなかった。というのも当時、商人や職人たちは少なくとも少数の小さな都市のそとでは、財産のみならずその生命や身体の安全をも、刀をかざし街道を守る人たちに依存していたからである。交易はある階級の保護のもとでしか発展しえなかった。その階級の職業は戦争であり、そのメンバーは自分たちの優れた肉体的能力をよりどころとしていたが、その見返りとして高い地位と高い生活水準を要求したのである。条件が変わりはじめても、その種の態度は封建主義が残ったか、あるいは自治都市の裕福なブルジョワジーや交易の中心地から抵抗を受けなかったところではいつまでもつづくことが多かった。それゆえ、聞くところでは、日本では一九世紀の終わり近くになっても、「金儲けをする人は不可触賤民の階級に近かった」のである。

O「このままだと、あと何か月後かに「復活!!」とかいって、シバターがイキっている姿を、モニター越しに久保は、顔を真赤にして眺めることになるでしょう。自分はというと、永久追放で、大衆からも忘れ去られている。」

K「大衆は飽きっぽい(?)」

O「飽きっぽい愚かな神様ですね。大衆とは。されど、一番金を出すのも大衆です。インテリはお財布も堅い(笑)。大衆はジャンジャン金を使うので。パチンコとかユニクロで。」

K「なるほど。大衆は「神様」。象徴界を機能させるのは、それか。」

「インテリ(=左翼)は、(日本の)コロナ禍でも、商業差別を剥き出しにしていた主体ではないのか?と。」

O「私の知り合いは商売人ですが、昨年何度か会いましたが、締めは必ずキャバクラでした。いっさい、気にしてなかった。インテリって、現実界の、いったいどこにいるのか?という。」

K「オルテガの『大衆の反逆』を私は読んではいませんが、Wikiで見たら、労働者階級への批判ではないようですね。」

O「何人か有名人の顔が浮かんできますね(笑)。芸術学校を運営されている、あの方...」

「本当の商売人にとっては、完全にどうでもいいものだった。口にするのもくだらないコロナ。」

「昨年一年は、いろんな意味で重大な転機だったのでしょう。」

K「そうですね、私は人(とくに知識人)を見る目が、あれを契機に確定したというか。」

O「たしかに。コロナ、トランプで、ケリ(決着)でしたね。」

K「トランプ騒動も、コロナ禍の中での出来事だったんですね。改めて。」

O「Twitterが全てを可視化させた。」

K「今振り返ると、個人的には、あいトリ2019、トランプ騒動、コロナときて、色々と人を見る目が私は確定した。」

O「トランプの騒動がある意味、彦坂的な「テスト」だった。」

K「そうですね、オマル マンさんがFacebookで見る「目」が大事だって、書いていましたね。」

O「彦坂氏は見る目だけはある、とも。」

K「そうですね。しかし最後のコロナでは、彦坂さん自身が馬脚を現していた。私は彦坂さんも、インテリの部類に入りました。「場違い」なあの騒ぎようを見て。」

O「老醜の境地という感じで。彦坂氏の弟子たちは、頭がしっかりしているようです(それでも、あまり評価してませんけど)。」

量について

O「加藤さんがすごいのは「量」だと思った。改めて。「量」が感じられる。これは人を見る基準で、決定的。」

K「「量」ですか。私は「平常」運転を心がけているんですが、いつも。」

O「1年以上見てきましたが、きっぱり量で、差が開いてますよ。その他と比べて。才能のケタが違う、といえばそれまでですけど。」

K「私が心がけているのは、朝倉未来のように、このようにならないようにと。」

これは地獄のトレーニング
https://www.youtube.com/watch?v=n8-5rw3u1Og

「これ、危ないと思ったんですね。スポーツ科学的に言っても、おそらくおかしい。筋肉疲労の適度の限界を超えて。これはすでに、病気とも言える(賛美する人は何なのか?)。この後「鬱」になるというのは、当たり前の話なので。」

O「強度の運動により視床下部を活性させて、脳のポテンシャルを覚醒させている意図があると思いました。重圧・ストレスへの耐性ですね。みえないところで、さまざまなプレッシャーに曝されているのがうかがえる。」

K「オマル マンさんが「量」といったのには、おそらくベースとして、平行的な継続が必要で。朝倉のように「鬱」で頓挫して、また新たなる無理やりな目標を設定して走り出すという、そういう方式ではない。」

O「非凡な人ほど、そう。そもそも、無理しなくていい。朝倉は「高み」だけを見ている。」

K「プレッシャーへの耐性を朝倉のように無理に力づくで作ろうとする試みは、反対に主体をどんどん弱くしているように、私には見える。」

O「高み、ではなく、「大きくてなだらかな山」にならないといけない。だから、「量」という語を使っています。」

K「なるほど。」

O「画家にもいますよね。「高み」はあるけど、これ数年後にはポッキリ折れてるな、って人です。」

K「朝倉に、私が直接に話せれば良いんですけどね。1年後に引退とかいっているけど、この先はどう見ても危ないよと。」

O「ウェブでもそうです。「量」を見ている。大衆は。実は。」

K「>「「量」を見ている。大衆は。」それは、凄い。オマル マンさんの発見(おそらく、上記ハイエクをも凌駕する)。」

O「私は、大衆の霊能力のごとき、勘が恐ろしい。「あっ、この人バズる!」という直感がある。私にはとても真似ができない。あいみょん、って知ってますか?」

K「あいみょん、一度動画を見た記憶が。」

O「あいみょん、あのカバのような、平凡なシンガーソングライターが、今の頂点ですから。でもよく聴くと「量」が感じられる。うちの母は、あいみょんの歌を一聴して「売れる!」と、思ったらしい。怖え、、、と。」

K「聴いたのは、既に3年ぐらい前ですが、継続しているんですね。」

O「出すたびにメガバズってますね。」

K「そうだったんですか。響くものがあるんですね。」

O「私も、正直、なにがなにやら(笑)。今、恐らく頂点の歌手ですね。あのセオリーを一切を否定しているかのような、ルックス、曲の平凡さ、歌のクセのなさ。量だけが突出している。ミスチルの正統後継者、と音楽評論家。」

K「ああ、そんな感じですね。確かに、何がなんやらという形容。セオリーからの「脱却」か。一つの、そういう形。」

O「でも、どっしりした重心はあるんですよ。インテリには分からないけど、大衆は一瞬で見抜く。」

K「「どっしり」という形容は、井上長三郎の'30年代についても、オマル マンさんから聞いた記憶が。」

O「そうですね。井上長三郎も量がすごいある。実際、とんでもない点数描いてた。戦前、戦中、戦後までコンスタントに展開、制作してますね。精力的です。」

 K「なるほどねー。オマル マンさんの慧眼。>「インテリには分からないけど、大衆は一瞬で見抜く。」」

「そうですね、そういう意味で。靉光も同様、戦地から帰ってきたら、いくらでも描く気でいたと(妻が証言)。」

O「描きつづけること、ですよね。私の場合は「書きつづけること」ですけど。かきつづけた人間が歴史に残る。」

 K「オマル マンさんは、書き続けること。そこか。」

O「過剰と制御のバランスが成立することが、ひとつの基準ではないかなと。」

K「芸術をやる姿勢は、私はそれなので、人と話す場合も、そういう形におそらくなっている。」

O「格闘技の話に戻すと、過剰の方向でも役不足、制御の方向でも役不足、という感じになってて。あの始末の悪い状況に。芸がない。」

K「ああ、確かにそうですね。」

O「過剰を演じるタレントはいないし、制御を任じられる責任者も不在。誰、こいつら?というのが大衆の一致した感覚でしょう。」

K「「誰、こいつら?」、それ面白いですね。コロナ禍期間中の、Rizinの騒ぎ方(騒がせ方)が、最後「誰、こいつら?」で締めになると。」

「「大衆は神様である」。」

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