蔑称=日本の現代アート

17世紀のパスカルが奇しくも上手く描き出している。しかし、パスカルはシンプルに頭が良い。ここで言う「中間の連中」はまさに日本の往年の現代アートの作者たち(特にSNSで騒ぎを積極的に拡散する、またはそれに永遠に飢えている層)を表象するかのようだ。
 

パスカル『パンセ』

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世間の人々はものごとを正しく判断する。なぜなら彼らは、人間の本来の座、つまり生まれながらの無知のうちにいるのだから。知識には、互いに接する両極端がある。一方の端は、自然で生[き]のままの無知であり、人間はすべてこの状態で生まれる。他方の端は、人間の知のあらゆる可能性を踏破したあげく、何も知らないことを悟る偉大な魂の持ち主たちがたどり着く無知であり、ここで彼らは、出発点と同じ無知のうちにいる自分に出会う。しかしそれは、学ある無知、おのれを知る無知である。中間の連中は、生まれつきの無知は脱しても、他方の無知に行き着けないので、このうぬぼれ知識のうわべをなでて聞いた風をする。彼らは世間を騒がせ、すべてに間違った判断を下す。民衆と識者が世の中の動きを作り出す。中間の連中はそれをばかにして、彼ら自身ばかにされる。彼らは、すべてのことに間違った判断を下すが、世間は正しく判断する。


ここでの「人間の知のあらゆる可能性を踏破したあげく、何も知らないことを悟る偉大な魂」とは、のちの精神分析での「去勢」の意味でもあり、遡るとソクラテスの「無知の知」に繋がっている。(フランス現代思想はそれに対抗したが、例えばフーコー、その言説の信憑性は現在では失墜しているかに見える。フーコーはソクラテスの「無知の知」が特権化されていることに晩年異議申し立てをしていた。ソクラテスの「自己への配慮」の方を先に立てるべきだと。)

反対に、日本の現代アートは滑稽さを帯びる、全般に「全能感」の表現になっている。その例が先にnoteで書いた、美術史上の転換点=キュビスムへの拒絶。
 

50年ぶりのキュビスムの意味|加藤 豪 #note https://note.com/naar/n/n11927ee01220?sub_rt=share_h


(パスカルが言う「神への愛」=「知への愛」とは反対の)自己が知らないことへの拒絶と、自己の所有した知への(日本の場合往々にして土着的・国粋主義的な形になる)全能感の表現、及びそこにある民衆への侮蔑感情。


これにさらに反し、最近では日本でも積極的に研究が生まれているようだ。
 

Yudai Deguchi@nas740·1月24日
キュビスム芸術史―20世紀西洋美術と新しい〈現実〉― amzn.asia/d/3Hp3w7P #Amazon

Yudai Deguchi@nas740·1月24日
今読んでいる『レアリスム再考』の編著者、松井裕美氏によるキュビスム芸術史。これには取り組みたい。
https://twitter.com/nas740/status/1749985632812945739


付記。他の、パスカルからの参照。

パスカル『パンセ』

「現象の理由

民衆と同じ発言をしながら、背後の考えをもち、すべてをそこから判断しなければならない。」


パスカル『パンセ』

「貴族を敬わなければならないというのは本当だが、しかしそれは血筋が実質的な美質だからではない」


パスカル『パンセ』

「できる限り沈黙のうちにとどまり、対話をするなら、神のみを話題にするべきだ。」

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