サイコパスになったら、最強

オマル マン氏との対談、第22回目。

K「オマル マンさん、先日の対談後談で、私がふと有吉弘行のゼロ年代末の芸能界への復活劇とはなんだったのか?という問いを発したことの続きで。一つの結論として、それまでの芸能界の権力=暴力図式のネタ化を徹底してやったということがあります。その背後に、島田紳介の芸能界からの退場という「穴」があったというオマル マンさんの指摘。有吉の芸風は「なんちゃって暴力」。ちょうど2008年のリーマンショック前後の現象と私は記憶していますが、私の周辺のアート界の面々にも、多分に有吉ショックというものはあった。その模倣形態も。この構図はおそらく今も尾を引いていて、「暴力のネタ化」は一定の界隈では(あるいは薄く広く)現在も常套手段となっている。特に京都方面は、旧来から暴力を(ソフトに)モチーフ化し、「いかに自分自身が暴力と無縁でない存在かを皆自覚しようね」というような、他者に「反省」を促す身振りの表現があり、一定層に形式化して残っている。私は個人的に、こういう方向も意味がないと思っています。」

「暴力のソフトなモチーフ化による啓蒙の(残滓の)身振りと、一方で、有吉的「なんちゃって暴力」の(旧来の権力=暴力図式とあまり見分けがつかない)実践。これらが、渾然として業界を形作っている。」

O「加藤さん、こんにちは。有吉以降の暴力のネタ化で、ひとつ言いたいのが、昨年、大炎上した小山田圭吾のいじめの事件ですが、あのような「暴力」はすでに過去のものとなっている、ということです。リーマンショック以降と言ってよいと思いますが、新しい形式の暴力が誕生してしまった。率直に言って、その暴力の質は、かつての暴力(島田紳助、スーパーフリー、小山田圭吾などのそれ)と邪悪さという点では変わらない上に、しかも傍目には分かりにくい分、もっと性質が悪い。いまの「暴力」は、手法が体系的で計算高く、暴力の物理的な証拠を残さないことに焦点が置かれている。そういう世界観ができつつある。」

「前回のシバターと久保もその一部といえる。告発した久保は「イタい奴」。対して、シバターといえば「ウケるっしょww」。そのアルファに対するオメガとしての有吉。」

K「その形式の、最終形態としての有吉? 完成している。オマル マンさんがよく表現する「いじめ」の悪質化ですよね。」

O「そうですね。「オメガ」なので、誰も非難できない。むしろ称賛する。」

K「むしろ「見事」だと。」

O「まさに。」

K「「表現」になっているのかな? 「アート」とは言わずとも。」

O「いまの「いじめ」の形式の特徴は、加害側の内面が希薄で、顔の表情が読み取れない。昔の「いじめ」は、もっと加害側に濃い憎悪が読み取れたのですが。このような傾向は、私の下の世代(20代あたり?)から顕著なんですよね。「遠隔操作的」。」

K「それは所謂、サイコパス化?」

「それだと、発出元はともかく、上の世代にも波及している。クーンズも、確かに。」

O「サイコパス化というのがジャストな表現なのですが、サイコパスというのは全体の1%程度しかいない存在なので、この全体の傾向は一体なんだというのか?と。」

K「あ、1%のサイコパスに、集団が群がっていくという構図。」

O「加藤さんや(ギリギリ)私の世代のいじめは「泣かせてやった」「顎を砕いてやった」「土下座させてやった」が至上命題だった。今は、「弄って恥をかかせてやった」「黒歴史をつくってやった」「論破して、いう事きかせてやった」とか。パッと見、rightなのです。あとサイコパスというタイトルの本が売れまくったのが10年代でしたね。」

K「まさに、当事者=久保優太の場合。なるほど、10年代にその下地が。」

O「ライトな基準での新しい形式での「いじめ」。Twitterのクソリプみたいな発言を、現実でもする、みたいな。本当にします。」

K「そこは、私は直に接していなく、体験していないところ。」

O「島田的な暴力への耐性は低い。「表出て、徹底的にやってやろうか?」といったら、怯んで、報告する。」

K「ふんふん。路上では弱いんですね。それだと、なぜ今頃「路上の伝説」(朝倉未来)が、愛知からまた出てきたのか、というと。その、ネット上のスキルの基準からいえば、間抜けな感じですよね。「路上の伝説」とシバターの絡みって、一体何なのかと。一方、朝倉は自身のおそらく10代からあるサイコパス性の、治癒物語みたいにもなっている、彼のYouTubeの内容が。表情が、どんどん柔和になっていくという、成長物語のような(?)。」

O「朝倉にしてもシバターにしても、もがいているように見えますけどね。私は。」

K「奇しくも、クーンズも、自身が語っているところでは、離婚して子供の親権を争ったあたりから、「人の気持ちが分かるようになった」というような、自己の治癒・成長物語をどこか表現している。」

「「サイコパスになったら、最強」みたいな方程式みたいなのが、どこかにある。手放せない。」

O「「サイコパスになったら、最強」は10年代最大のパワーワード。」

K「なるほどー。現在、「手放しあぐねている」と、多くの主体が。」

O「そう。今出た名前で「本物」はクーンズだけでしょう。」

K「手放すと、「強さ」がなくなると。フェイクだということですね当然、作り物だと、有吉も。クーンズは、本物っぽい。」

O「有吉は、どんどん顔が丸くなって女みたいな感じに。クーンズは大領領みたいな顔つき。」

K「有吉は、元々可愛い顔ですからね。」

O「夏目三久との結婚がそうですが、芸能コースからの「敗北者」だったはずの有吉が、国民的人気アナウンサーを射止めた。「あいつは漢になった」という昔ながらの表現がありますが、あの時、彼は「人間宣言」をした。」

K「クーンズ は、反対に本物の完成度が増しているか。」

O「クーンズの2020年の作品があって、真っ黒の陶器みたいな彫刻でしたが、まるで「兵器」。ファクトリーを閉ざして、自分の好きなものを作ると。出てきたものは「兵器」みたいなやつで。」

K「そうなる、と。」

O「ギャップが凄くて、固まってしまいました。」

K「「丸み」がなくなったやつですね。クーンズも終わったと、囁かれた。しかし、ビジネスマンとして、全く死んでいない。」

O「行動のサイコ感だけは健在です。」

K「このコロナ禍も。BMW、ユニクロとのコラボ。」

COVID-19以後に見える、ジェフ・クーンズの姿|加藤 豪 #note https://note.com/naar/n/nb61aa312d5ea

「私自身が、クーンズとファシズム(スターリン )の類比をここで語っていました。超大物の原型は、スターリンですね。」

O「ロシア人は、あんなに酷い目に遭ったのに、未だにスターリンが好きらしいですよ。恐らくプーチンは真似ている。スターリンを。意識的に。」

K「確かに、モデルとしては最強ですね。まさに、(誰もが)「手放せない」。日本人は、簡単に転向してしまう。キャスターと結婚したぐらいで。」

O「冷戦が決定的に始まったのが47年。それ以前はアメリカ人も欧州人も、ロシアびいきって、けっこうあったらしい。」

K「アメリカへの、ロシアからの影響は、確かにそういう意味で侮れない。」

O「T-34戦車や白いスキー服の兵隊の絵を、こっそり持っているとか。小説で読んだことがあります。冷戦期は「ソ連」と口にすることも許されなかった。アメリカは。だから地下で若者はこそこそ話をしていた。アメリカでは「サイコ」でも構わない。それよりも「アンフェア」と「非愛国」こそが、最大の悪とされる。」

K「ジェフ・クーンズと、T-34戦車。」

O「日本では「サイコ」は...ちょっと長くは続かないかも。」

K「シバターも(笑)。朝倉は脱落。」

O「ひろゆきも、すでにして怪しくなってきて...」

K「ひろゆき、確かに、完成度はあったが...。人情味が出てしまう。」

「ポスト・サイコみたいなのは、後・有吉みたいな文脈で、全体としては今後有力そうですね。シバターがあれ以上に続くとは思えないし。」

O「サイコパスの真贋は、知能指数の高低でしょうね。シバターもひろゆきも、知能が高いとは思えない。」

K「そうですね。「なんちゃって」の地が全体に出てくるか。中でも、本物は残ると。良い意味でも悪い意味でも。」

「クーンズのファシズム性が確認できたのは良かった。作品から滲み出ている。」

「それと比較すると、全てが弱く見える、確かに。それと、日本の「スイミー」の「全体性」(=全体主義)がどのような関係にあるのか?ということ。表面上は、(上記私が述べたように)極力関係がないように日本はしているが。クーンズの覇権が容易に消滅するとは思えない。かたや恒久的なステンレススチール。かたや劣化が著しい新聞紙に描いた零戦?(=「敢えて」の会田誠)の潜在的対立関係とすれば。」

「同時に日本のこの間のコロナ対応は、「アート」の下地としての経済基盤を破壊してしまったという問題。この結果が、今後出てくると想定できる。」

「それと関わらない、という方法はある=私(笑)。」

O「国内に限って言うと「地盤沈下」。」

「あと、地盤地下の中心は、Twitter。今の国内の文化的雰囲気を醸成している「装置」も、同時にTwitterでしょうね。有吉はオメガ、だとして、一方で、Twitterによって、従来の有名人たちの、メッキがはがれた10年だった。10年代とは。」

K「Twitter(に代表されるSNS)は、実社会の添え物では決してなかったということですね。メッキを剥がしたTwitter効果、確かに。」

O「90年代の座談ってあったじゃないですか? 中堅の言論人たちが、蓮實重彥や川村湊を腐す...って感じ。あれって、今のTwitterに漂っている雰囲気と似ている。でも似ているけど、あのころに漂っていた「殺気」は無い。今は、もっとライトなんです。贋金の重みで、軽い。」

K「蓮實重彥に関しては、私自身の見聞として特に分かります。「芸術」を盾に偉そうにしている、という感じでしょうか。蓮實。」

O「かつての「抑圧」だった存在で、いろんな物事を狂わせた人物ですよね。蓮實。一言でいえば、芸術のポスモ路線を促進させた。」

K「少し前の芥川賞(?)受賞のスピーチ。「三島賞」か。」

O「三島賞ですね。あれは、やらない方がよかったですね。」

K「「愚鈍さ」が、わざわいしたか。」

O「罪深い。」

K「変なパフォーマンスでしたね。」

O「蓮實の映画評論も、かつてゼロ年代くらいまでは、蓮實的に書かなければならない、みたいな。その頃の世代って、宮台とか佐々木敦とか。そこらへんの世代がパッときれて、軽くなった。今は。「変なジーさん」笑、で終了。今の40代~20代。」

K「ゼロ年代以降のラカン(再)評価の中で、柄谷や蓮實は、「抑圧」の対象として(もちろん仮想的に)機能した。」

O「今は蓮實世代を怖がって、口を閉ざしていたガキンチョ達が、ちょっと歳をとって、Twitterでワァワァ言っている。」

K「見えますね。」

O「問題は「抑圧」が不在っていう、問題。」

K「「ラカン(再)評価」の失効。」

O「繰り返しになりますが、以降は、目に見えての地盤沈下。」

K「抑圧の対象が、リーマンショック以後「なんちゃって(=有吉)」化したので、抑圧から(これも仮想的に)解放されると同時に。地盤沈下。」

O「恐らくはそのもっと深い部分、致命的な部分で「判断」の問題がある。以前、加藤さんとお話をした美術の「判断」。あれとつながっていると、私は考えているのですよ。」

K「芸術「判断」は必要ないと。」

O「芸術の先端では、仰る通りなのですが、と同時に、SNSでは、都度、「判断」が必要というジレンマがある。その潜在的な恐怖感を抱いている。今の言論人は。」

K「ふんふん。」

O「つまり、メディア有名人が芸術に(奇妙に)コンプレックスを抱くの話なのですが、今言及した文脈において、これは典型的な症状なのだろうなと。」

K「可哀想な気もします。私は。「判断」できないでしょうから。無理に形だけしなければならない(=症状化)。」

O「「判断」をしたくないなら、黙って作品を出していけばいい。例えば、加藤さんはそうすればいいのです。でも言論人はそうじゃない。「判断」し、言語表出しなければならない。それを止めたら、=死。だから、致命的な問題なのです。これは。SNSが、待ったを許さなくなった。」

K「「致命的」ですね。どうするんだろう? 「症状」は止まらない。」

O「構造上、彼らはいつかは死ななけばらないと個人的には感じます。でも、しぶとい奴らもいます。それこそ、症状を対処療法的に緩和するような「メソッド」が、Twitterには出来つつある。」

K「「罰ゲーム」みたいな感じですね。知識人は、そう考えると。改めて。」

O「そのメソッドの精緻化が、加藤さんが最初に提示された問題意識「なんちゃっての拡散と希薄化」とつながっていると考えているのです。だから、病んでるじゃないですか。」

K「そうですね。「象徴界」。」

O「こう言い換えてもいい。(とりあえず)「判断」はしないとけない。だが、下した判断により、都合の悪いことが起きたら、徹底的に無視する。あるいは詭弁を多発させて、一定数の大衆を言いくるめる。勝者のポーズをして「勝利宣言」。まあ、地獄ですよ。ほんと。」

K「知識人は、特にアートについては、「抑圧」として少しでも機能しなければならないと、それを止めたら自らの「死」だと。苦しいですね。苦しみ逃れの対症療法。例えば「ブロック」。」

「最終的に、体に現れるから。」

O「Twitterでもいいですし、他のSNSでもいいですが、「スイミー」になってしまった人たちは。自分の素を出せなくなる。「スイミー」としてのキャラ、そしてキャラとしての「判断」をしなければならない。だから嘘なんですよね。根本から嘘が入っている。」

「この世で、「判断」に嘘が入りようがないものが二つあって、芸術作品。もうひとつが、宗教の信仰。ラカン派が失効した後は、つまり今ですが、シンプルになっているという気がする。知能の高低で、(つまり嘘をどれだけ巧妙化できるか?)で差がついている。「嘘つき」にとって芸術は抑圧として機能する。」

K「自身の「救済」を誰よりも望んでいるのが、知識人だと私は思います。「芸術」からは逃れられない。知識人である以上。」

「また、知識人は、自身の救済のために「生贄」を求める。最も激しく求める。」

O「彦坂氏のABテストは、そういう意味では発明だった。あれほど知識人たちから「憎しみ」を買うものは、ない。」

東京ヤーコブ・ローゼンバーグ派
https://jakob.exblog.jp/155450/?fbclid=IwAR2qZiqQbsMMhg8j442saZOKalS4_g-Bv00atpp1I52JGsNGIE3ChvP4sCs 

画像1    レオナルド・ダ・ヴィンチのデッサン(より詳細な画像)

K「そうですね。そういう意味での、「彦坂尚嘉封印」は、私は反対です。A氏の一件。」

O「圧倒的な殺意を向けてましたね。A氏。A一派も。」

「ゾワ~っとなって、我慢できずに、という感じが伝わった。A氏。アレルギーの症状でしたね。」

K「私もそう感じました。」

「ここに、何か凝縮している。なぜか、ここに凝縮した。」

O「あらゆる意味ではA氏は、時代の尖端を走っている...」

「だから、あの類いの人たちはアーティストを舐めていたのですよ。今まで。その意識は改まってきている。逆説的ですが。」

K「そうですね、そういう意味では、私も美術家としてここを刮目して見なければならないという、責務すら感じる。」

O「「触れたら、いつか必ず大けがをする」という認識に。」

K「改まってきているとすると、上記点に展開がありますね。注視しようと思います。」

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