アートの終末論から、終末へ

森田靖也(旧表記:オマル マン)氏との対談、第64回目。

K「森田さん、こんにちは。ゲルハルト・リヒターについて。 リヒターとかの息苦しさに気づかずに、「他者」の欲望に連なってただ美術館の「空虚」に吸い込まれていく人間の不幸。 「人は幸せになれない。なぜなら、なりたくないからだ」(フロイト)。 リヒターの顔は、あらゆる現代に生きるアーティストの「不幸」の代表=表象になっている。 一種の生贄ですね。現代アートの、生贄としてのリヒター。」

「リヒターに高額がつくのは、ここから演繹できると思います。一般的、法則なんですね。」

「参照。」

彦坂尚嘉@hikosaka·6月8日
リヒターの展覧会は、まあ、立派に作っていますが、想像以上に、空虚でした。 本当に芸術がなくなって、それを多くの人が気がつかなくて、逆に喜んでいる。 世も末であります。 https://www.youtube.com/watch?v=sLi4SJsNNOA&t=1199s https://twitter.com/hikosaka/status/1534343466221654016

M「加藤さん、こんばんは! リヒターについては、以前「決定版」ともいえる内容の議論をしていますが、今回の展覧会や彦坂氏の反応は、じつに今日的な問題として、あらためて示唆に富んでいますね。リヒターの代表作(「Betty」)は、まるで空虚な代物。裏側はまともに描けていない。顔の無い幽霊。全面だけ金持ちで、背中は全裸のびんぼっちゃま(https://twitter.com/keikai_aqua/status/1534355840182132736?s=20&t=4IQPryOCNFip4RSUQGggFg)。「リヒターに高額がつくのは、ここから演繹できると思います。一般的、法則なんですね」→究極の駄目人間としてのリヒターですね。」

K「確かに、決定版を既に。」

ゲルハルト・リヒター|狂った母を無視すること|加藤 豪 #note https://note.com/naar/n/nf0fa9f5e9a4f

「続編。「Betty」について、具体的に言及。」

逃げちゃダメだ|加藤 豪 #note https://note.com/naar/n/nf0ad20aed910

「究極の駄目人間としてのリヒター。しかし、ここまで祭り上げられたら、引くに引けない。引く場所がない。他のアーティストは(同類でも)「知らない」顔(https://m.dagospia.com/jeff-koons-e-damien-hirst-collaborano-per-una-nuova-mostra-a-londra-121261)。」

「「日米英」から除外された、「ドイツ代表」リヒターという構図(?)。」

M「「差別」ですね。」

K「確かに。露骨。」

M「10年代にその有効性を消失した「ラカン派」も、リヒターを踏み絵にすることで、差別の構造をつくりだしていた。」

K「そうですね。」

「日本国内的には、事情として、「世界の村上」を除外して、日本の業界を形成してきた。リヒター、ボイスに親和的な国内・美術業界の体制。」

 M「上からも差別され、下からもリテラルに、そのシンボルとして使われるという。「究極の駄目人間」の面目躍如というところか。」

K「そこですね。まさに。」

M「ただ、その構造も、ボロボロ...っと崩れてきているという今日の、兆候。」

K「反体制(=ヒステリー)としての差別体制と、親和的な神輿体制との、両輪。両輪が、今日において、ボロボロ...っと。」

M「単純に、「究極の駄目人間」が、増えすぎた。みんなリヒター。」

K「リヒターに酷似した日本人アーティストですね。「村」。」

M「そうですね。村の勢力が、これまでの常識を超えた形で、変わってきてしまっている。ラカン派が呆然自失しているのが、現在。」

K「変わってきている? この間、コロナ禍があり、ウクライナ有事があり・・。常識的に考えて、大変動ですが。ラカン派は、確かに言う事に新しさはない。端的に、何も変化を映してはいませんよね。それは、業界全体的にそうか。この間、何か本当に考えたの?って。「自壊」というものでしょうね。」

M「加藤さんの「感覚」に、時代がようやく追いついてきたということかもしれません。ラカン派は、芋虫の群れだから。」

K「「ただで済むはずはない」(アート)と、私は90年代初期から言っていました。」

M「ラカン派も、やっと「これは、ただでは済まない...」と。この間、30年。90年から、2020年。すさまじい。」

K「リンチ、人員の逃亡、そして人員の(見せかけの)補充ということしかやってこなかった。美術業界にたかった「総会屋」みたいな、「ラカン派」。」

M「これは、コンテンツの世界全般で、同じ現象が起きてます。」

K「それは、驚き。」

M「資本主義、業界が壊れつつある一方で、何がが生まれている。それを見て、焦りまくっている。焦りまくっているのは、業界人。「生まれている」というとポジティブですが、おそらく、きわめて深刻な。」

K「深刻なものが生まれている?」

M「そうというふうに、私は直感しています。」

K「資本主義自体も、危ういと。日本では。」

M「危ういですね。資本主義を土台とした「自由」も。」

K「「自由」な人って、まあいない。「業界の芋虫」。皆。」

M「難しいですが、その通りですね。これまで「自由」の揺り籠のなかで、子供として振る舞っていたリヒター。これが極限の空虚を表現するようになって、顔面蒼白しているのが、今日の業界人。」

K「そうですね。「母親」としての業界人。学芸員、ボランティア等。」

M「これはやりすぎだ!と。2022年。おそらくですが、これ以上の空虚は、もう来ない。今後。使い切ってしまった形。」

K「「ちょっとは、もうちょっとうまくやれ!」と。「ゴミだとバレる〜」と。値段をそう簡単に下げれないぞと。一度上げたものは。そうすると、ラカン派もどうも困っちゃう。運命共同体なので。」

「2022年=空虚。空虚の出し尽くし。最後の、大盤振る舞い。」

M「今後、考えられるのは、その反動。そこらへんを想像して、みんな戦慄している。」

K「戦慄しているのか。それは、すごい事だな。」

M「前回から議論している「無為」とも接続しうる。」

K「「無為」に直結しそうですね。」

M「でも、もし直結したら...。」

K「爆破?」

M「爆破。あるいは、廃墟化?」

K「廃墟化か、私はもう何十年も前から見えていましたが。」

M「なにもフィクションではなく、数百年の美術の歴史では、けっこうあったことですね。「真空地帯」。」

K「そうでしょうね。美術館も税金で賄われているので。いくら主婦が、「現代アート好き!」って言って、少数ボランティアで駆けつけても。「自壊する空虚」は抑えられない。「おお、我が息子」って感じですね。」

M「リヒターの「最後っ屁」って感じですね。20年代は、あたらしい「掟」を捻り出さないといけないフェーズなのでしょうね。うまくひねり出れば、いいのだが。」

「ラカン派が、リヒターを「資本主義的アート」の虚無の極として想定して、 ではリヒター批判をしている本人は、どのような身振りをしているのか?というと。 (想定通りですが)その反対に自己を置くと。 例としてコンセプチュアルアートの回帰という方向で進んでるように見える。 現在だと、YOUTUBEアートとか。そんなに循環史的な態度でよいのか?っていうのが、私の基本的な見方です。 それは、たんなるアートの消費では?と思うのですね。」

K「アートの消費にうずうずしてきましたよね、ラカン派。」

M「見るからにそうですね。空元気的に、はしゃいでる(!?)」

K「そうですね。まるで雨乞いみたいに。」

M「こうなったら、「欲望」に活路を見出すと。本音の本音の部分としては、「村」の引き締めで精一杯ってことなんでしょうが。」

K「「汝の欲望を諦めるな」と。このラカンの格律に縋っているんですね。」

M「やたら「芸術...、芸術...」と言いたがるが、本音としては「ラカン」の方が大事と。」

K「ラカン派としては、「芸術」は消失する方向の方が、実は自己は救われる。しかし、リヒターのような極限の芸術の「無」をやり、そこに大金が流入するという構図は、「終末論」(=絶望の希望)ではなく、まさに「終末」なので、呆然としてしまう。声が小さくなる(笑)。」

M「90年頃から、 ずっと伝統主義でいってた加藤さんが、本人も気づかない形で、今トップに躍り出ている、 というのが、私の見方です。あとは、みんな死んだ。加藤さんこそが、もっとも「無意識」の人。」

K「スタートとしては、私も同級生の会田誠等と同じ「デザイン」(ボイス、初期リヒター路線)ですが、方向性としては、そこから反対へ。」

「そうですね。無意識。なので、10年代に入ってから、内海健が『さまよえる自己』で紹介していた、ベンジャミン・リベットの実験に関心を持ったんですね。リアルだったので、意識よりも、先に無意識が行為を決していると。「0.5秒の闇」のテーマ。意識がそれを、(事後的に)拒否することはできるのだが、その論でいくと、私は拒否しなかったとも言える。自分の無意識を。ラカン派は、「反体制」を装いながら、「体制」の欲望に忠実に。「無意識」を拒否。むしろ、「芸術」は現れてくれるなと。懇願(笑)。」

M 「90年代以降 日本=植民地という状況のなかで、、 「投げやり」に走ったのが会田誠、 ピエロに徹したのが村上隆、 これが2巨頭となって、 あとは、みんな肥溜め植民国ニッポソのなかで仲良く...という。 肥溜め村の元締めが、ラカン派。 みんな「意識」に絡めとられてしまっていた。 殺人的なウィルスが世界的に蔓延するだとか、 戦争が起きるだとか、ことごとく彼らは「まさか...」と。」

「加藤さんは全然違う。 無意識そのもの、 2020年の3月~4月に、自己ベストの個展をやってて(https://www.after-contemporary-art.com/documentary)、 そのときに私は加藤さんを「発見」したのですが、 「この人は、本物だ」と直感。「完全同期」を一人だけ実現。」

K「ありがとうございます。」

M「加藤さん以外の人は「後付け軍師」でしかない。いくらでも、なんとでもいえる。」

K「「後付け軍師」=「外野」ですね。身体がない。」

M「身体が、ない。身体がないから雑です。加藤さんだけが「闘争」をしている。」

K「「飽きっぽい」。「発達障害」=現代美術業界に、(運よく)適応的だった。「部屋が片付けられない」ラカン派。」

M「(笑)。」

K「意識で走っていた人たち。「欲望」「欲望」と空虚を念じて。」

M「まさに。リヒターの人も作品、その他、すべてが「偶然性」(運よく適応的)を「無意識」と勘違いして、そのじつ、意識的におこなったもの。リヒターほど、ふりきれられない、中途半端なラカン派。「リヒター?、あれは反則」と。反則だから、芸術ではありませんと。」

K「それですね。見るに耐えないのです。そこまでやられると。自分たちには金は降り注いで来ない。癒されない「渇望」だけが残った。「空虚」では、同じ地平。」

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