立花の内的体験

オマル マン氏との対談、第16回目。
前回、立花孝志についての続き。

K「ふと思ったのですが、評価されるべき、政治家の一つのマニフェストを貫いてゆく姿勢(立花氏の場合は「NHKをぶっ壊す」)、山本太郎氏のように(オマル マンさん曰く)「あまりに品数が多く、どれから箸をつけていいのかわからない旅館の朝飯」のようにならずにという。方法論としてはそれで良いと思うのですが、(同じくオマルマンさん表現の)立花孝志が対峙する「巨大すぎる敵」というのは、当然そこだけに留まるものではない。象徴的にNHKが選ばれてはいるが、国政を(間接的に)動かしているテレビ、あるはマスメディア全体の問題であると。マスメディアからの「ズラし」に関しては、池田信夫氏という独立例・先例がある。奇しくも、両者ともに元NHK職員。しかし、池田氏と立花氏が共闘ということは、およそ考えられない(池田氏は立花氏の手法に関して、2019年参議院選時、AMEBAで隣に同席し直接的に批判をしていた)。およそのこれらについて、オマル マンさんの考えをうかがっても良いでしょうか?」

「付け加えると、立花氏は現在参議院議員・一名を擁する略称・NHK党の党首、そして次回参議院選の準備をしている立場、後者の池田氏はTwitter、自身が運営するAGORAでの発言は広く読まれてはいるが、その内容が国政に現実にどの程度影響を与えているかについては、見えにくいものがあるという、この対比点もある。」

O「池田信夫については、けっこう前になりますが、加藤さんと意見交換したことがありましたね。立花孝志と池田信夫とが同席して、やりあっていた動画は、リアルタイムで見た記憶です。たしか、池田が、立花孝志の政治実践の「法的、形式的な問題」という切り口で。あの時には、池田の真面目さが垣間見れた印象がある。
立花孝志の方がはるかにふざけている(=破廉恥)、それこそが「政治」なのでしょうが。「挑発」はメディアのお家芸なので、あの座談会では、むろん、メディアは立花の肩をもっていた。メディアは、同類の側の肩を持つ。」

「池田は「トンチンカンなお爺ちゃん」ということにされてしまった。AMEBAっていうメディアは、一体、何なのか?」

K「そうですね。AMEBA、面白い見ものの出演者の取り合わせをするが、司会のコメントと全体の持って行き方の質が。」

「池田氏の真面目さは、一つには、「学問」的な興味が何よりも優先している(当初、ブログを始めた時も、読書等の思考のメモがわりに使っていたのが、想定外に読まれたと)。そんなに計算づくで行動するタイプではない。立花のように、鬱病になってNHKを辞めたわけでも。基本に、自身が語るところのパスカルからの影響が強くあり(「人生とは暇つぶしだ」と)、その割には発言には本気度が高く(身体レベルで)熱い。」

「対して、立花は理性的な計算を、どんな行動にも事前に綿密にするが、客観的には一つ一つの行動が、(オマルマンさん曰く)「何を本当に意図しているのか分からない」。」

O「その見方は、盲点ですね。立花が「計算的才能だけ」の人物とも思えない節もあるんですけどね。個人的には。ただ、一方で、立花は金儲けは上手な人なんですよね。YOUTUBEの初期はパチスロチャンネルで、伸ばしていた。パチプロとしても一流と聞いたことがある。」

K「「計算的」だけだったら、朝倉未来も同じだし。つまり「銭」だけだったら。」

「そうですね、パチプロとしても。本人曰く。」

O「そうですね。「国家」との距離感ですよね。朝倉とは志の高さに雲泥の差が。朝倉が「自由人」だとしたら、立花は「テロリスト」ですから。雲泥の差でしょう。」

K「計算的なのは、一種の自分の「症状」が、一体果てはどこに向かうのか、自分でも分からないという恐怖がもしかしたらあるのかもしれない。だから、逆に目的設定をはっきりする。」

「池田信夫は、自身にそういう危機的なものは感じていない。」

O「パスカル読みですからね(意味深)。」

「池田にこそ「血」を感じますね。濃厚に。戦争が起きたら、いの一番に戦場へ行くのは池田。立花はわからない。朝倉は国外へ逃げそう。」

「立花はたぶん、226みたいなことをする。」

K「池田氏はNHKにいるときも、例えば紅白のプロデューサーが出演者側に枕営業を要求していた歴史も、当たり前のようにあったと言い(「幸か不幸か自分はその目に会わなかったが」と)、悩まないが、その点、立花の方が、その種を身に染めても、後に「症状」レベルで、抑えようもなく出てくる。」

「だから、立花の「破廉恥」には深刻さがあり、可能性でもあるのか。」

O「真の破廉恥を体現してますね。こう振り返ると。加藤さんの問題提起が的確です。」

K「ありがとうございます。」

O「破廉恥の名に恥じない破廉恥。立花。」

K「(オマル マンさんの予言通り)立花は2・26を本当にやってもいいのか?、という問題。」

O「そこは、キャラクターの性質なんだと思うのですよね。「内的な体験」から始めるのか、そうではなく、一歩引いた客観的観点からなのか。」

「文学史には「テロリストの手記」っていうジャンルがあって、みんな一様に、似ている。内的な体験から、記述が始める。突撃隊の隊長の手記は、完全なモノローグだし、一方で、同じ軍人でも参謀だと、非常に客観的な記述となる。」

K「『内的体験』って、バタイユの1940年代の戦中日記を、私は20代に読んでいましたが。」

O「バタイユ、あと三島。」

K「例えば「歯が痛い」ということを、大袈裟な筆致で書いているんですね。」

O「それで、バタイユの文体は緊張感がものすごい。」

「C神父とか。」

「あの緊張感は、戦後はプッツリ切れてしまう。思うに、その後どんな文学にも見られない。祈り、かな。一言でいえば。」

K「「内的体験」って、神経剥き出しになる状態のことなので、耐えられない。」

O「バタイユ的なものと、東洋的なものがあると感じます。立花には。」

K「キリストの身体を自身に、しかも歴史から切り離されて、自身の個的な現実の(例えば自分の彼女・妻と罵り合うなどの)生活空間で「体内化」する、一種の修行。」

O「⇒立花(それは、褒めすぎかもしれないが笑」

K「今、バタイユ の話ですが、戦後はそれがなくなったと。でも、人が「症状」化するっていうのは、そういうことだと私は思います。「救済」がない状態で。」

O「バタイユに似ているのって誰なんだろうと、思ってたんですよね。今。」

K「隠れて、みんなそうですよ。私に言わせれば。」

O「そうですね。私も、そう。それでももう100年近くたっている。時間が。だから、我々は。「バタイユだけ」ではないし、そうなるわけにもいかないとは思う。異なる身振りを模索しなければならないでしょう。」

K「バタイユは必要ないですよね。象徴的人物は。それが現代だと思う。」

O「まったく。そうだと思う。」

K「立花について付け足せば、私は内心、立花を「症状化」させたくなかった、と。2019年末に、一度路上のシーンで垣間見た記憶があるので。その反復は。」

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