80年代ニューアカの意味の考察
結果として、そうなった。
Yudai Deguchi氏との会話から。
加藤 豪@_5925263769112·16時間
結局、日本のバブル期の「ニューアカ」が処理できていないんでしょうね、現在も多くにインストールされたまま。それが代々継承されている。ニューアカはまさに「狂気」礼賛でした。
引用
Yudai Deguchi@nas740·20時間
予備校時代、私は油画科の先生の狂気礼賛によって「狂え」という今思うと本当にロクでもない指導を受けた。今もはびこる芸術を狂気の賜物とする考え方というのはじっさい迷惑というほかない。
加藤 豪@_5925263769112·16時間
ドゥルーズ=ガタリがそうだし、浅田彰はフーコーの名前にはfou(狂った)が入っているから凄いとミーハーなことまで言っていた。狂気と言ってもそれは主体が纏う擬似「狂気」なのですが。ドゥルーズ=ガタリはゼロ年代に「表象批判の表象行為」と一度批判されたはずなのですが、どうも延命している。
加藤 豪@_5925263769112·15時間
ダンスで言えば、勅使川原三郎の気色悪い動きがその文化的一つの継承形態と私は見ます。
加藤 豪@_5925263769112·15時間
フーコーは自己の「変容」を唱えましたが本人がやっていたことは単なる麻薬に過ぎない。ジャンキーであることは「芸術」より凄いと本人が言っている。芸術ではなく強烈な快楽こそ欲しているんだと「自己の真理告白」(フーコーの晩年の用語)。要するに現実を呪っているんですね。「つまらない」と。
加藤 豪@_5925263769112·15時間
おそらくこの世に自身が生まれてきたことさえも。面白いのは薬物と、自動車にはねられて臨死体験をすることぐらいだと。自己の体験をそう語っている。物書きとしての自分も、仕事人間でつまらない人間だと。私と一緒に暮らしたい人なんていないだろうと。
https://twitter.com/_5925263769112/status/1707284401628004521
Yudai Deguchi@nas740·15時間
返信先: @_5925263769112さん
芸術が快楽の問題になっているところがそもそも倒錯的ですね。まさに退廃の極みというか。
バブル期からこっち、アカデミシャンがバカに憧れてバカを演じているうちに本当にバカになってしまった。そんな印象があります。バカみたいに快楽を享受したいという欲望というか誤解。
Yudai Deguchi@nas740·15時間
返信先: @nas740さん, @_592526376912さん
坂本龍一の80年代の『音楽図鑑』の書籍版というのがあって、それがほとんどジャンキーの戯言みたいな内容で、これは酷いと思ったことがあります。こんなもの悪影響しかないんじゃないかと。
加藤 豪@_5925263769112·15時間
返信先: @nas740さん
音楽図鑑は私も10代に聴いていました。書籍版は知りませんでしたが、坂本龍一はフーコーにぞっこんな表現をしていましたね。中上健次との対談でエイズで死ぬなんて「俺たちのヒーローだ」と。
加藤 豪@_5925263769112·15時間
返信先: @_5925263769112さん, @nas70さん
ここでも比喩なのですが中上は坂本に「お前はエイズ(ウィルス)になれ。お前は家族にとってのエイズだ、お前の父親にとってのエイズだ」と。フーコー自身は同性愛者という自身のセクシャリティについても若年期から苦しんできただろうし「自殺志願者フーコー」自体は、軽くは扱えないはずですが。
Yudai Deguchi@nas740·15時間
返信先: @_592526376912さん
今の感覚からすると、病/ウィルスがそんなふうにロマンティック(ヒロイック)なものとして捉えられているのに驚きます。エイズとコロナを対比させるとなおさら。
https://twitter.com/nas740/status/1707292492230787253
Yudai Deguchi@nas740·12時間
かつて文学/現代思想がそれだけ力を持っていたということなのでしょうね。
加藤 豪@_5925263769112·12時間
フランスの、ということですが日本では確かにブームだった一定期間。何故なのだろうか?と。「弱さ」だったと思いますね。「弱さとしてのエロさ」と言っても良い。代表はやはり文学と思想を両方やったバタイユ。フーコーも、皆バタイユに影響を受けてやっている。日本人はその弱さ=エロさ好きだった。
加藤 豪@_5925263769112·12時間
おそらく、アメリカのアートに代表される覇権からの「逃走」。その本質の20年代以後のホッパーに代表されるマッシブさからの。60年代全共闘・反米からの(切断ならぬ)引き継ぎ形態。
Yudai Deguchi@nas740·11時間
アメリカからの逃走としてのフランス現代思想(エロさ)というのには非常に説得力を感じます。ホッパーの乾いた素っ気ない力強さとフランス流のエロティシズムとは正反対ですよね。後者は日本的情念(反体制につきまとう)と相性が良い。
https://twitter.com/nas740/status/1707292492230787253
参照。
19世紀末から20世紀初頭、日本もアメリカも美術を学ぶと言った際に自国では賄いきれず、「本場」フランスのアカデミーで学ぶことになるという点では一緒であったにもかかわらず、その学びとその後の探究という点で、アメリカの方が遥かに真面目という風に、ホッパーを検討していると思う。 pic.twitter.com/Oix5sKtJ7w
— Yudai Deguchi (@nas740) September 28, 2023
ホッパーがマネから大きな影響を被っていることは確かだとしても、その平板さは受け継がなかった。登場人物の「虚ろ」という点においても共通しているようでいて、ホッパーの場合、色彩(明暗)対比とマッシヴなフォルムの感覚(空間性)において逆に力強い画面の充実ということが起こってくる。 pic.twitter.com/e0CLskJQfZ
— Yudai Deguchi (@nas740) September 25, 2023
マッシヴウェーヴ。
The Tramp Steamer, 1922 https://t.co/92tkLgLalR pic.twitter.com/KGMPHT3Sg7
— Edward Hopper (@artisthopper) September 25, 2023
追加。先日の後談。
加藤 豪@_5925263769112·9月26日
返信先: @nas740さん
マネとホッパーの対比(=対比的移行)、面白いですね。それはそのままフランスとのちのアメリカの対比に繋がるような。ホッパーが歴史転換のまさに蝶番に位置するこれほど重要な作家とは、私は今回初めて気づきました。
Yudai Deguchi@nas740·9月26日
返信先: @_592526376912さん
ホッパーは昔から好きな画家でしたが、都市生活者の孤独みたいな主題的な面のみ論じられがちな印象があります。フランス→アメリカの「歴史転換のまさに蝶番」というのは言い得て妙ですね。ホッパーにおけるヨーロッパ絵画の継承とアメリカの独自性のバランスの取り方は改めて凄いと思います。
https://twitter.com/_5925263769112/status/1706475068996587679
参照。
エドゥアール・マネについて、再び|加藤 豪 #note https://note.com/naar/n/nd3b97ece9b7c?sub_rt=share_sb
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