浅田彰から、椹木野衣へ

「ルッキズム」について最近耳にすることが再び多い。私自身はこの語を使うのは今回が初めてだ。少し前だと、10年代半ばに丹生谷貴志氏がTwitterで「経済格差(所謂二極化)についてはよく言われるが、恋愛格差は一体どうなるんだ?」と。80年代以来の文化人でルッキズムに関して私が最も激しい印象があるのは浅田彰氏。それは「批判」とは真逆の反応だった。ロバート・メープルソープの容貌の端麗さに言及し、対して自分は容貌が悪いのでニューヨークに行っても全くモテないと。浅田氏は自身がバイセクシャルであることを公表している。私にはこれは浅田氏の意図的な「ルッキズム批判」外しという印象がある。ゲイの世界ではモテるモテないは外見で決まってくる、これが現実だと、自身の経験から。ロラン・バルトもフランスでは特にと、年をとってモテなくなるゲイの生存の厳しさについて深刻に語っている。フーコーはそれからの「解放」としての、アメリカ西海岸の可能性に期待を持ったと。浅田氏はおそらくこれらから学んで、日本において、意図的な「ルッキズム批判」外しを敢行していたと思われる。曰く村上春樹は顔が片岡鶴太郎みたいだからダメだとか、三島由紀夫の楯の会の青年には美青年が一人もいなかったと、まるで田舎の青年団みたいなダサさだという。いかにも薄っぺらい見解だが、盛んにこの手の発言をしていたので、影響はある層には強いと思う。イメージだけで物事を処理していくというのは、ファシズムの美学にも通じる。大衆を操作するのに最も有効なのはイメージだと。曰く「ポップであることの重要さ」が語られるのもこの文脈であり、この浅田が引いた路線は、90年代以後おそらく椹木野衣氏に主に継承された。本質は、「象徴界」の無さ。

[追記] 上記に関連して。

表層を滑っていく自己陶酔的な紀行文形式は、浅田彰・椹木野衣に共通だが、例えば今日は何々を観劇した後で誰々と落ち合い車で移動しながら最近読んだ何々について意見を交換しまた互いの目的地に向かうべくどこどこで別れるといった類の。疾走感が強調されている訳だが、当然ながら深みも高みもない。

絵画で言えばフェルメールだが。実はここには「空間」がない、息苦しい「一枚の布」だけがある。

これについての類比的・精神医学の参照項は、かつては「分裂症」だったが、主にゼロ年代以後「双極性障害」を経て、現在は「自閉症スペクトラム」に回収された感がある。私からはたから見ていると。

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