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新興宗教からマンガまでを貫く心性とその出離|仏陀再誕はあり得ない ②

仏陀再誕はあり得ない

前編では、ブッダや仏教をかたるさまざまな新興宗教、カルト宗教のネタ元になっている弥勒下生の信仰についてパーリ経典に基づいて論じましたが、今回はズバリ「仏陀再誕」というフレーズについて考えてみたいと思います。以前筆者のブログ*1で断続的に掲載した記事をまとめ直しました。仏教の文脈でこのテーマを論じる上では、決定版になると思います。

再誕する者は仏陀にあらず

二〇〇九年の十月に『仏陀再誕』というアニメ映画が公開されたことはご存知のことと思います。

「幸福の科学」という新興宗教の教祖が制作総指揮を務めた映画です。内容については別に論じる必要もないですが、この映画はタイトルからしておかしいのです。

「仏陀(ブッダ)が再誕する」ということはあり得ない話だからです。*2

ご存知のように、仏陀は地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・天(欲天+梵天)という輪廻の世界から「解脱」を果たした方です。

ですので、絶対に「再誕」などしないのです。この世界が何次元構造になっていようが、その一切から完全に解脱している(乗り越えている)から仏陀なのです。

乗り越えていないならば、仏陀ではありません。

仏陀が「よっしゃ、またちょっくら生まれてくる」などと言って、この世界に戻ってくることはあり得ません。

また生まれる・再誕する、と言うならば、それは「菩薩」でしょう。

仏陀についての基礎知識

菩薩は仏陀になるために無限の輪廻の中で十波羅蜜と呼ばれる修行課題を完成させます(大乗仏教は六波羅蜜)。波羅蜜の完成の直前まで修行すると、兜率天という天界に生まれ変わって、人間として母胎に入るまでの期間、待機するのです。

それで頃合いを見計らって兜率天から、いよっと人間の女のお腹に入って(ちなみに両親はちゃんと性交するんですよ*3)十か月後に生まれてから、やがて出家し、あれこれやって修行を完成し、世尊であり阿羅漢であり正覚者であられるところの仏陀となるのです。

それが、私たちのよく知っているお釈迦様(釈迦牟尼仏陀)です。生まれ変わる(再誕する)のは、

仏陀になろうと修行している菩薩です。仏陀になったら、もう決して生まれ変わりません。再誕しません。仏陀は再誕しませんが、私たちは別にさびしくないんです。教えがありますから。教えが仏陀の代わりです。

ついでに言えば、釈尊の教えが残っている限り、「新しい仏陀」となる人が現れる必要もないのです。だって、諸々の仏陀が説く出離の教えは皆同じなのですから。

長部26『転輪聖王獅子吼経』の末尾には、仏陀の教えが完全に消え去って途方もない時間が経った未来に、弥勒仏陀という仏陀が現れるよと、チラッと書いてあります。前編でも解説しました。

細かいことを言い出すといろいろありますけど、以上は仏陀についての基礎知識です。

「仏陀再誕」はあり得ません。厳密に言えば、二つの意味であり得ないのです。第一、「仏陀が再誕する」という事態は、仏陀の定義に照らして成り立たない。第二、釈尊に続く「現世で仏陀となる菩薩」が出現する客観的な条件がないこと。第三章で詳説した通りです。

世俗に未練を持つものは仏陀ではない

もう一つ付け加えますが、釈尊が誕生されたとき、ある仙人から「彼には将来、仏陀になるか、あるいは転輪王(cakkavattin、全世界の支配者)になるか、という二つの道がある」と予言されたという北伝仏教の伝説*4があります。

パーリ仏典には出てこない後世の伝説のたぐいですが、世俗の支配者であることと、人々と神々を導く精神的な師であることは両立しないという教えを読み取ることもできます。

『仏陀再誕』を製作・総指揮した宗教団体の教祖は、自分は「再誕の仏陀」だと言いながら、政治進出をして世俗の支配者たろうともしたのです。

で、今のところは失敗続きのようです(国政選挙に出て勝利できないのであれば、それは失敗と評しても構わないでしょう)。

転輪聖王が現れると、その徳の力で、おのずと全世界の人民がその支配下に入りたがるといいます。

そういう慶事も起こりませんでした。

以上のことから、一つだけ、確かなことが分かります。

世俗に未練のある人は、仏陀ではありません。凡夫*5です。もしかすると、広い意味での菩薩かもしれませんが、二つの道で迷っている時点で、「最後の生まれ」ではあり得ません*6。これからも生まれ変わって、失敗ばかりする衆生なのです。

法身思想と日本宗教

再誕しない仏陀が再誕してしまう日本

前節では、巷(ちまた)で宣伝されているような『仏陀再誕』は仏教的に見てあり得ない、という話をしました。仏教の常識に基づけば、そういう結論にしかなり得ないからです。

私が書いたような「常識としての仏陀観」は、初期仏教〜テーラワーダ仏教という伝統の中で培われてきたものですが、大乗仏教の影響が強い日本でも(少なくとも釈迦牟尼仏陀に関しては)それなりに共有されています。お釈迦様が生まれ変わると聞けば、「なにバカなこと言ってんの?」とくさしたくなるのはもっともな反応だと、我ながら思います。

しかし、歴史上の仏陀である釈尊(釈迦牟尼仏陀)とその教えを捨象して、釈尊滅後五百年ほどしてから現れ始めた大乗仏教、なかでもインド仏教の最末期に登場した密教の教えだけに立脚して「仏陀(ブッダ)」を論じようとするならば、釈迦牟尼仏陀をかたって『仏陀再誕』を宣言することも、実は不可能ではないのです。

大乗仏教の「法身」思想

大乗仏教の仏陀観に、「法身(Dharmakāya, Dhammakāya)」という概念があります。仏身論といわれる「仏陀の身体*7」をめぐる錯綜した形而上学の中心に置かれている概念です。

要約すると、法身とはクシナーラで入滅された釈迦牟尼仏陀は色身の仏陀(現象として現れた仏陀)にすぎず、法身の仏陀(法身仏)は永遠不滅であるというアイデアです。のちに法身・報身・応身を説く三身論などに発達し、釈迦牟尼仏陀ではなく、法身仏たる大日如来から授かったとされる密教の登場によって完成(病膏肓(こうこう)に入る)に至ります。

この法身仏陀の思想が広まった背景を雑にまとめて言えば、インドで主流派宗教(いわゆるバラモン教、のちのヒンドゥー教)と競合関係にあった仏教が、バラモン教の最高神であるブラフマン(梵天)を蹴落として、その地位に「法身仏」をねじ込む新たな神話体系をつくりあげた、ということになります。

しかし、法身仏=大日如来を中心に据えた密教的な曼荼(まんだ)羅(ら)世界において、釈尊は「大日如来がインドの一時期の衆生の機根(人々のレベル)に合わせて現れた応身仏」にすぎない存在として、曼荼羅の末端に据えられることになるのです。

事実としては、仏教がバラモン教を乗っ取るどころか、「無常・無我」を説くはずの仏教が「永遠不滅の実体」たるブラフマンを奉じるバラモン教と限りなく重なる、「法身仏」を中心とした妄想体系に乗っ取られてしまった、と言ったほうが客観的でしょう。

釈尊が説かれた「法身」の意味するもの

ちなみにパーリ経典にも一か所だけ、「法身」という単語が使われている例があります。前章の最終節で紹介した長部27『世起経』の中で、釈尊が生まれによる身分差別を喧伝するバラモンに対して、

「如来(ブッダ)は法(真理)を身とするゆえに如来である。仏弟子は生まれという身ではなく、真理という身=法身を拠り所にすべきである」(大意)と平等思想を説かれるくだりです。

「生まれではなく真理をアイデンティティにせよ」という釈尊の「法身」の教えは、大乗仏教における「法身」とほとんど無関係ですが、より普遍的でラディカルな概念だと私は思います。仏教に限って言えば、時代を経ることで教えが進化したとは言えないのが悩ましいところです。

日本宗教のスタンダード

さて、釈尊の説かれたラディカルな「法身」はともかく、「永遠不滅の法身から現象としての色身が現れる」という大乗仏教の考え方は、現代ヒンドゥー教やチベット仏教の化身思想に脈々と受け継がれています。でも、これって、真言密教などを通じて、けっこう現代の日本人にもなじみの深い考え方になっているのです。

法身と呼ばれる永遠不滅の聖なる存在から、その一部の属性が衆生の機根(人々のレベル)に合わせて現世に現れる。

このシンプルで融通無碍な思想は真言密教を揺りかごとして、その日本的展開である神仏習合教をつくりあげ、実は現存する、あるいはこれから現れるであろう、さまざまな新興宗教(仏教系に限らない)の教学をも背後で支えているのです。

仏教思想の歴史と重層性

この法身思想を用いれば、色身としては入滅した仏陀が、再び法身からの流出として再誕するということは言えなくもないのです。言えなくもないのですが、大乗仏教も釈尊が説かれた初期仏典の教えを踏まえて継承してきた面もあるので、法身思想や三身論による「仏陀の化け物化」から、釈尊だけは半ば除外されてきたのです*8。

ただし密教においては、先述したように、釈尊は曼荼羅の隅っこに「大日如来がインドの一時期の衆生の機根(人々のレベル)に合わせて現れた応身仏」にすぎない存在として置かれます。

思想の首尾一貫性ということから言えば、釈迦牟尼仏陀が法身仏から流出して、また法身仏に回収されて、また機会を見て法身仏から流出して……という図式を描けないこともない。しかし、それは釈迦牟尼仏陀のもとの教えと完全に矛盾するので、仏教思想の展開過程と重層性をよく勉強していた大乗仏教の学僧たちは、釈尊の教えと法身思想の矛盾はそのまま触らずにおいたのです。

ブッダの権威を利用したがる新宗教の教祖たちは、そういう仏教思想史に関する知識を持ち合わせていません。知識がないと、人は大胆に行動ができるものです。彼らは臆面もなく、法身・色身という思想の基本フレームだけパクって独自の教えをつくったのです。

『聖☆おにいさん』と「法身」思想

右に述べた法身思想は仏教の枠を超えて、サブカルチャーのレベルでも共有されている、日本人の基本的な宗教観あるいは宗教性(スピリチュアリティ、霊性)と言ってもいいでしょう。ブッダとイエスが立川のアパートで同棲中という突飛な設定が人気を博している、このたび映画化も発表されたギャグマンガ『聖☆おにいさん』(中村光/講談社)が成立するのも、法身というアイデアの賜物であると、私は思っています。

日本の仏教はほとんどが大乗仏教のため、上座仏教のタイやスリランカと違って、歴史的存在としての釈尊に対する信仰・尊敬はそれほど強くありません。大乗仏教の経典の中でも、釈尊は聞き役だったり、ストーリーのまとめ役だったりして、実際に活躍する他の菩薩や如来たちに比べると存在感が希薄です。

釈尊は多くの日本人にとって、「よく知らないけど仏教を始めた人」「花祭り(灌仏、釈尊降誕会)に釈尊の子供時代の像に甘茶をかける」くらいの存在です。むしろ、空海、法然、親鸞、道元、日蓮といった祖師(宗派の祖)のほうが宗教的権威を持っています。

もし仮に、マンガで日蓮をパロディにしたら、雑誌連載の企画自体が通らないと思います。創価学会をはじめ、日蓮を「本仏」と崇める熱心な教団がたくさんありますから。

そもそも、日本で最も普及している釈尊の伝記は、手塚治虫のマンガ『ブッダ』(潮出版)です。

苦悩する「人間ブッダ」として描かれた手塚版ブッダは日本の読書層に広く浸透していますから、『聖☆おにいさん』のブッダ像もあまり抵抗なく受け入れられるのではないかと思います。この日本特有の釈尊観がどのように形成され、定着したかについては第二章で詳しく考察しました。

もう少しうがった見方をすれば、多くの日本人にとって聖なる存在とは人格的存在ではなく、もっと抽象的なシステム(ゆるやかな道徳律を内包した自然)のようなものだと思われます。イエスにせよ、釈尊にせよ、そのシステムから生じてたまたま人格的な形をとった聖人、というとらえ方で、対立せず仲良く共存できると思っているのではないでしょうか?

これはおそらく、日本の主流派宗教のバックグラウンドにある「法身から色身が流出する」という考え方のサブカルチャー的展開です。『聖☆おにいさん』はそのような日本人が慣れ親しんだ定番思考に沿ったマンガなので、広く受け入れられているということも言えるでしょう。

日本人多数派の宗教性(スピリチュアリティ)

前節で、「聖なる存在とは人格的存在ではなく、もっと抽象的なシステム(ゆるやかな道徳律を内包した自然*9)のようなもの」と書きました。これは、日本人の多数派は決して宗教性(スピリチュアリティ)は薄くないのに、なぜ現実の組織宗教を忌避する傾向が強いのかという、よくある疑問への私なりの解釈です。

つまり「自然じゃない」から嫌なのです。排他的に他の宗教を攻撃したり、特定のライフスタイルを押しつけたりする教義に対しては、多数派の日本人はおろらく「自然じゃない」と感じるのです。

「イエスにせよ、釈尊にせよ、そのシステムから生じてたまたま人格的な形をとった聖人」なので、その則を超えて自己主張する組織宗教に対しては、「それ、ちょっと違うんじゃない?」という違和感がふつふつとしてしまうのです。

「不自然」な人々に宗教性を感じない。日本人の多数派はそんな敬虔(けいけん)で頑固な宗教観を持っているからこそ、(自分たちがイメージする)宗教性の欠如した組織宗教を毛嫌いするのでしょう。

言葉をかえれば、無色透明を偽装した「自然」の名のもとに行使される無意識的な同調圧力というやつですね。

「自然」という価値基準

というわけで、日本人の宗教嫌いは、「日本人の宗教性の表れ」と言うことも可能なのです。これは、テーラワーダ仏教という「外来仏教」の微妙な立ち位置を半ば内面化している、私なりの印象批評です。

多くの日本人にとって、教えが「自然」というキーワードに適うかどうかは、「法身」から流出した色身の聖者・神格であるかどうかの価値基準になっているのではないでしょうか。もちろん「自然」という言葉で示されるものの内実は、時代によって変化しているはずです*10。でも主観的には、古来から一貫した概念だとマインドコントロールされています。だからこそ、宗教性として機能するのです。たとえそれが、「渇愛に囚われた者たちの煩悶し動揺したこと」(長部1『梵網経』)にすぎないとしても。

ということで、仏教の教理そのものから離れて、そこからスピンオフした「日本人の宗教性」という視点で分析すると、少し違った結論を導き出せます。

仏教が社会的権威や情報発信力を失い、サブカルチャー化してしまった現代社会において、その仏教に胚胎していた思想の一部からできあがった日本人の宗教性をそのままダラダラ敷衍させると、仏教についての基礎知識を持たない夢想家の中から、うっかり『仏陀再誕』をかたる人が現れることは充分にあり得ます。そして、仏教の基礎知識を持たないまま大人になってしまった人々が、それに引っかかって信じ込んでしまうという事態も当然、起こり得ます。

しかし、その宗教の教えが日本人の宗教性に適ったものとして、社会全般に広く認められるかどうかは、また別の話ですが。今、瀬戸際かもしれません。

とにかくここでは、大乗仏教の思想から生まれたスピリチュアリティ(日本的霊性)のおかげで、日本という国は仏教にとってやっかいな障害を抱えた国になってしまった、という逆説を指摘しておきたいと思います。

天上天下唯我独尊の続き

釈尊降誕時の言葉

日本では、釈尊がインドのルンビニーでお生まれになったとき、七歩あるいて「天上天下唯我独尊*11」と宣言した、というエピソードがよく知られています。

しかし、この釈尊誕生時の言葉には、実は大切な続きがあることをご存知でしょうか?

中部123『希有未曾有経(Acchariyaabbhutasutta)』というお経があります。この世で仏陀となる菩薩が出生する際に現れる、十七の奇跡的な瑞祥(希有未曾有法)を列挙した経典です。

この十七項目はほとんどが神秘的な内容ですが、その一つに、

菩薩は生まれるとただちに完全な両足をもって大地にしっかりと立ち、北に向かって七歩、交互に進み、白傘がさし掛けられると、あらゆる方角を眺める。そして、〈私は世界の第一人者である、私は世界の最年長者である、私は世界の最勝者である、これは最後の生まれである、もはや二度と生存はない〉と堂々たる言葉を語る。

*12

とあります。これが初期仏教経典における「天上天下唯我独尊」の出典なのです*13。

省略された後半の言葉

釈尊が生まれた直後に言葉を発したという神話的記述をどうとらえるかは別として、ここでは釈尊にまつわるこの伝承が何を言わんとしているのか、ということに注目したいと思います。

私は世界の第一人者である、
私は世界の最年長者である、
私は世界の最勝者である、
Aggohamasmi lokassa
Jeṭṭhohamasmi lokassa
Seṭṭhohamasmi lokassa

Acchariyaabbhutasutta

とは、漢訳仏典で「天上天下唯我独尊」とまとめられている言葉です。我一人のみが、「輪廻からの解脱」という目標の最終地点に立っている、という宣言です。その意味において、釈尊は確かに「世界の第一人者、世界の最年長者、世界の最勝者」と述べる資格を持つ方だったのです。

そしてもっと重要なのは、日本では省略されてしまっている後半部です*14。

これは最後の生まれである、
もはや二度と生存はない。
Ayamantimā jāti
Natthi dāni punabbhavo

Acchariyaabbhutasutta

仏陀になったら、もう決して生まれ変わらないのです。決して「再誕」しません。

だからこそ、菩薩として最後の生を受けた直後、釈尊は「これは最後の生まれである、もはや二度と生存はない」と宣言したと伝えられているのです。

『仏陀再誕』と仏教の衰退

この釈尊の教えが人々の間に染み込んでいる間は、世間に『仏陀再誕』などという世迷い言がはびこることがありませんでした。

前節で触れたように、大乗仏教思想がエスカレートすると、仏陀はヒンドゥー教の神とほとんど同義語になってしまいます。

それでも、「これは最後の生まれである、もはや二度と生存はない」と生まれた直後にわざわざ言明した釈迦牟尼仏陀の「再誕」を自称するような宗教家が現れる余地は、最近まで日本には存在しなかったのです。

『仏陀再誕』をかたる宗教家が発生したことは、明治初年に始まる廃仏毀釈の輝かしい成果と言ってもいいかもしれません。私たち現代日本人は、仏教の基礎知識に関しては、江戸時代のご先祖様よりもはるかにバカで愚か者で常識知らずになっています。

そういうバカで愚か者で常識知らずの知的水準を前提にして、新しい宗教をつくろうと妄想する輩が頻出しているのが現代です。

仏陀は死ぬまで嘘をかたり続けたのか?

考えてみてください。もしも釈尊が「再誕」するというならば、釈尊は生まれてから死ぬまで、ずーっと虚偽をかたり続けたことになります。二千六百年の仏教の歴史は、丸ごと「釈尊という詐欺師」に騙され続けた歴史になるのです。

二千六百年前に生まれたとたん嘘をついた人が、また生まれ変わって何かを言ったとして、そんな嘘つきの言葉に耳を傾ける必要はあるでしょうか? 何度も騙されるなんて、バカみたいじゃないですか?

しかし、もし釈尊が二千六百年前に虚偽をかたったのではないとすれば(ほとんどの人はそう考えると思います)……答えは明白ですよね?

仏教が信用に足る教えだと言えるのは、今日まで伝承された釈迦牟尼仏陀の言葉が正しいと信頼する場合のみです。仏陀が「再誕」するならば、釈尊は降誕から般涅槃まで、ずーっと嘘をつき通したことになります。二千六百年前に嘘をついて多くの人々を騙した御仁が、再度生まれ変わって何か述べたとしても、信用できるわけがないのです。

これは、妥協を許されない選択です。

釈尊の教えのみが正しい、という結論を選ばない限り、世界中の仏教は丸ごと汚辱に塗(まみ)れることになります。

結論。

釈尊に始まるブッダの教え=仏教と、『仏陀再誕』の宗教は、決して両立しません。

『仏陀再誕』のない明るい世界

仏教の立場から批判すべきは批判する

ここまで、いわゆる『仏陀再誕』という言説について、検証してみました。結論から言えば、「仏陀は再誕しない」です。どのように考えてもそれは「あり得ない」、上品に言うならば「成り立たない」話です。

ただ成り立たないと言い切るだけでは埒(らち)があかないので、常識的にあり得ない『仏陀再誕』という成り立たないはずの言説が成り立ってしまう日本的な事情についても、それなりに分析しました。

ついでに、あまり知られていない釈尊にまつわる神話的な伝承の意味についても考察してみました。日本宗教の構造の振れ幅として、『仏陀再誕』というような言説がわいて出る「可能性」は否定できません。しかし、それは仏教の教義上は「成り立たない」ことであって、仏教の知識が社会的に共有されている限り、一顧だにされない非常識でしかありません。

ですから、仏陀を開祖とする伝統仏教(これには当然、テーラワーダ仏教やチベット仏教など諸外国の仏教も含みます)の立場から、『仏陀再誕』という言説を批判するのは当然のことです。

「反応したら負け」なのか

しかし、この問題について仏教関係者の発言は少ないようです。おおむね無視、珍奇なネタとして見守る、といった態度だと思われます。確かに「反応したら負け」かもしれませんが、『仏陀再誕』の名のもとに仏教を丸ごと否定するような教説が、テレビCMなどを含めて大々的に宣伝され、その教えを奉じる宗教団体が政治にも影響を及ぼそうとしている中、仏教者が沈黙し続けるのはいかがなものかと思います。

『仏陀再誕』を掲げる宗教団体は、大衆動員や訴訟による出版社への圧力がきついので、他団体に比べても取り上げにくいのだと聞いたことがあります。また、業界にとっても、構造的な出版不況、マスメディアの地盤沈下著しい中、大盤振る舞いで広告出稿してくれるならば、どんな神様でもありがたいでしょう。

でも、金のために、金さえ払えば、これまで日本が千数百年かけて育んできた仏教国としての良識・常識を明け渡してしまっていいものなのでしょうか? 文化産業に携わる者として恥を感じないのでしょうか?*15

悪循環を断ち切るために

現代日本で『仏陀再誕』などという言説が批判も受けずに横行してしまう元凶として、伝統仏教の影響力の低下、仏教受容を通して培われてきた日本人の伝統的教養の崩壊・空洞化があると思います。この現状に対して、仏教界にも大きな責任があるでしょう。

この悪循環は、いい加減、断ち切らなければなりません。率先して悪循環を断ち切る責任があるのは仏教者であり、仏陀の教えから恩恵を受けて生きる一人ひとりです。

くどいようですが、現代日本で『仏陀再誕』という言説が流通したのは、仏教衰退という原因が招いた当然の結果です。

仏教が廃れたことで、仏陀という言葉の定義さえ一般人が知らない不幸な状況に至ったことで、『仏陀再誕』というトンデモ言説が、「仏教国」であるはずの日本に蔓延(はびこ)ってしまったのです。ある意味、『仏陀再誕』は日本の不幸の象徴です。この不幸を克服して、「仏陀が再誕しない理性的な社会」を築くことが、心身ともに参っちゃっている日本を復興させる第一歩かもしれませんよ。


追記

本稿の元になったのはブログ「ひじる日々」(http://d.hatena.ne.jp/ajita/)で、記事は勝間和代さんの「三毒」論への批判とあわせてけっこうアクセスを稼ぎました。残念なことに日本の仏教界からは、くだんの映画に対する批判が聞かれなかったので、しっかり活字に残しておくべきだと思いブラッシュアップした原稿を掲載しました。蟷螂の斧かもしれませんが「反応したら負け」というチンケなプライドに引きずられて、仏祖への侮辱を放置するのは勇気のないことです。仏教で飯を食っている人たちは、そういう怯懦の積み重ねが日本における仏教の地位をどんどん弱めていることに気づいてほしいと思います。

弥勒に関する論考と、最後身の菩薩の降誕に関する論考に分けたのには理由があります。私のブログが読まれたせいとは思いませんが、「釈迦牟尼仏陀が現代に再誕する」という主張があまりにも無理筋であることに気づいた教団は、途中からしきりに「再誕の仏陀は未来仏、つまり弥勒仏陀の下生である」とほのめかしていました。『仏陀再誕』wikipedia記事に「過去七仏、仏陀再誕の言い伝えがある、インドのアジャンター村の石窟寺院の第17窟に、未来仏を含めた「八仏」が描かれている。」と写真を載せていたこともあります(現在の版では削除)。写真の右端に王族の装束を着た未来仏が描かれていることから、インドの仏教遺跡が「スーツを着た仏陀の出現を予言していた」と言いたかったようです。

もちろんこれは、仏教美術に対する無知の表現にすぎません。未来仏として受記された弥勒に限らず、すべてのブッダはその菩薩としての最後の生の直前は、トゥシタ天で過ごすことになっています。まだ菩薩で、天界では出家しているわけでもないので、姿かたちはインドの王族に取材した菩薩の格好です。アジャンターの石窟に描かれているのは、弥勒菩薩の「現在」の姿でしょう。菩薩はそう描かれると決まっているだけの話です。

ところで、弥勒の章で紹介した「人類の寿命が十歳になる」というおぞましい未来像は、楳図かずおの長編マンガ『14歳』や短編「Rojin」にも登場するのですね。このうち「Rojin」は、人間の寿命が縮み、みな二十歳で死んでしまう世界で五歳の子供が穴に落ちた「老人」と初めて出会う、という近未来ホラーです。いくつかの楳図アンソロジーに収録されていますが、ちょうど『転輪聖王獅子吼経』を通読した直後にこの作品に触れ、強い衝撃を受けたことを憶えています。楳図かずおは、初期仏典に説かれた、しかし宗教家も含む大部分の凡人は気づかない、根源的な「生存にまつわる恐怖」を見事にくみ上げることに成功しています。天才と称えられる所以でしょう。

note版追記

2013年12月に本稿を掲載した『日本「再仏教化」宣言!』(旧サンガ)が刊行されると、幸福の科学系のメディア「ザ・リバティWeb」(2014.01.13)に長文の批判記事記事が載った。

この批判記事に対する筆者のコメントを以下のブログ記事(2014-01-14)に発表した。

2023年3月に「幸福の科学」総裁・大川隆法氏の死去が報じられた。故人の冥福をお祈りしたい。


註釈

*1  http://d.hatena.ne.jp/ajita/

*2 いつもは「ブッダ」で統一しているが、本章では当てつけがましく「仏陀」と表記する。

*3 パーリ経典には「正念・正知をもって母胎に入る」とある(長部16、中部123、増支部4集127、他)。状況を想像すると、ちょっとユーモラスな感じがする。

*4 求那跋陀羅訳「過去現在因果経」(大正蔵No.0189)など

*5 経典ではbāla, duppañña(バーラ、ドゥッパンニャ)。愚者、愚人、闇者、小兒、癡眷属などと訳される。蔑称ではなく、覚っていない限り誰もが愚か者という意味。

*6 しかしジャータカ註には「じつに菩薩には、殺生も不与取も邪淫も飲酒もある場所においてはあり得るが、道理を破壊する虚偽の言葉を選んで嘘をつくことは、決してあり得ない」と明言されているので、そのような好意的解釈は極めて難しい。

*7 「身(kāya)」にはシステムという訳もある。仏身論は「ブッダというシステム」に関する論議と言い換えることも可能だ。

*8 例外は久遠実成本師釈迦牟尼仏を奉じる日蓮系の宗派で、ここでは釈尊は無敵の絶対神のような扱い。これが「菩薩の受記(どこかの時代の仏陀が志願者に『お前さんはいついつどこどこで何たらとゆー仏陀になるから、頑張れ』と印可すること)」というツールを使って、下々の衆生の隅から隅まで網の目のようにご縁をつくって一乗成仏道を請け合ってゆくというのが、『法華経』の壮大な形而上学である。

*9 先述のように、システムとは「身(kāya)」の訳語でもある。

*10 そもそも論で言えば、自然(じねん)は仏教語である。物事の本性、実相という訳もされている。

*11 出典は義浄訳「根本説一切有部毘奈耶雑事」(大正蔵No.1451)

*12 訳文は片山一良・訳『中部(マッジマニカーヤ)後分五十経篇〈1〉』(大蔵出版、二〇〇一年、三八〇頁)より。十七の奇跡的な瑞祥(希有未曾有法)の解説はアルボムッレ・スマナサーラ『日本人が知らないブッダの話』(学研、二〇一〇年)の第二章に詳しい。そもそも同書の企画は、現代日本人の間で、釈迦牟尼仏陀に関する基礎知識が欠如している現状を少しでも改めたいということから始まった。

*13 ほかには長部14『大本経(Mahāpadānasutta)』にヴィパッシー仏の事跡として同じリストが出てくる。

*14 根本説一切有部毘奈耶雜事では、「此即是我最後生身 天上天下唯我獨尊」と倒置した訳になっている。正確には前半部が省略されたと言うべきか。

*15 トーハンビル内にある仏教書総目録刊行会が刊行している『仏教書総目録』の索引に『仏陀再誕』を見出して恥を感じない出版関係者はいないと信じたいものだが……。


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