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10 ダヴィッド少年がダルマパーラを名乗るまで~神秘・辺境・ナショナリズム|第Ⅰ部 噺家 野口復堂のインド旅行|大アジア思想活劇

ブラヴァツキー夫人のインド追放

ダヴィッド青年がアディヤールでの短い滞在を終えてセイロンに帰還し、貝葉をめくってパーリ語の習得にいそしみ始めた頃、彼の崇拝するブラヴァツキー夫人は人生最大の危機を迎えていた。彼女の反キリスト的な過激な言動はインドで活動する宣教師たちの目の仇だったが、このとき宣教師たちは彼女の起こした奇跡にまつわるトリックの証言者を担ぎ出し、大々的なスキャンダルに仕立て上げることに成功したのである。暴露担当はブラヴァツキーの家政婦クーロン夫人。彼女がカイロにいた時に知り合った女性で、事業に失敗して食い詰めた大工の夫とともにインドに渡り、ブラヴァツキーに拾われた身の上であった。

一八八四年、神智学協会のインド上陸からすでに五年の時が流れ、彼らの南アジアにおける地位は盤石に見えた。ブラヴァツキーは安心してインドを離れ、ヨーロッパへの旅行に出かけられると判断した。油断といえば後知恵だが、これがいけなかった。「ブラヴァツキーを崇拝することで始まり、最後にはブラヴァツキーを憎むことによって終わった」クーロン夫人は、主人の留守を狙って、『クリスチャン・カレッジ』誌の編集者であるキリスト教伝道師に告白(つまりタレコミ)をしたのである。ブラヴァツキーを憎んでやまぬインドのキリスト教関係者は色めきたった。チャンスだ!

クーロン夫人は「ブラヴァツキーがクート・フーミ(神智学を霊的に指導するマハトマのひとり:筆者註)の人形を造り、月夜にそれを肩にかついで歩き回ったとか、マハトマから届いたと称する手紙を晩餐の席上で、二階の部屋から天井の隙間を通して落とすことによって「超自然的に配達された」かのようにみせた」などなどのスキャンダルを次々に暴露していった。スキャンダルの炎はすぐブラヴァツキーのいるヨーロッパにも飛び火した。

同年、英国の心霊研究協会(Society for Psychical Research SPR)はインドに調査官としてリチャード・ホッジソンを派遣。神智学協会本部への実地調査ののち、心霊研究協会はブラヴァツキーを「歴史上もっとも成功した巧妙で興味深い詐欺師として永遠に記憶に残すに値する人物という肩書きを得た」と決めつける報告書をものす。女傑ブラヴァツキーはいきり立って反論に乗り出そうとしたが、あいにく不摂生と肥満による病気をいくつも併発して満身創痍。いよいよ窮地にたたされた。

ブラヴァツキーに「いかさま師」のレッテルを張った心霊研究協会は主観性と思い込みが命綱の心霊現象に対して、科学者らしき距離を保った心霊研究の権威であった。しかし、ホッジソンの調査がはたして公平なものだったかは疑問が残る。なにせ彼はブラヴァツキーがロシアのスパイであり、インド人たちに「英国支配への反感」を植えつけようと画策した、とまで示唆しているのだから*27。それでも、敵の論証は神智学協会を大混乱に陥れるには充分のインパクトを持っていた。

小康状態を得て急遽インドに引き返し、告訴も辞さないと息巻いていたブラヴァツキーも、組織防衛を図るオルコットらの説得を受けてインドを立ち去ることを決した。一八八五年三月末のことである。近代オカルティズムの巨魁は、こうしてインドから、事実上「追放」された。

Helena Petrovna Blavatsky

ブラヴァツキー夫人、ロンドンに死す

ドン・ダヴィッドは、コロンボに立ち寄った船の上で、ブラヴァツキー夫人ともはや生涯最後となる別れを告げた。もちろん、ダルマパーラは終生一貫して、彼女は単に「バカげた陰謀の罪のない犠牲者」に過ぎず、「仏教徒であり、また仏教徒であるヒマラヤのマスターたちの代行者であった」と信じ続けたけれど。

ブラヴァツキーは残りの生涯を主にロンドンで過ごし、当地のオカルトサークルでもトラブルメーカーぶりを存分に発揮しつつ、晩年の大著『シークレット・ドクトリン』を書き上げた。やがて同書の熱心な読者であったアイルランド出身のアニー・ベサント夫人(元はフェビアン協会の社会主義者で、一時はバーナード・ショーの愛人でもあった)と出会い、幸いにも神智学協会の未来を託すべき後継者を得ることもできた。一八九一年五月八日、ヘレナ・ペトゥロヴァ・ブラヴァツキーは六十歳で死んだ。

仏教からメシア信仰へ──神智学協会の「変質」

こののち老将軍オルコットの指導期を経て、政治好きのベサント夫人に率いられることとなった神智学協会は、インド自治運動へのコミットを強めたこともあって次第に仏教色を払拭し、むしろインド多数派であるヒンドゥー教へと傾倒してゆく。また二十世紀に入ると、ベサントはインド人少年ジッドゥ・クリシュナムルティを「世界教師ワールド・ティーチャーの器」として喧伝するメシア思想に熱中し始めた。そのような動きはドイツのルドルフ・シュタイナーなどから痛烈な批判を受ける。神智学協会は絶え間ない内紛と疑心暗鬼を原動力に多数の分派を生み出しつつ、混迷の度を深めていった。

Jiddu Krishnamurti (1895-1986)

一方で伝統的な上座仏教への造詣を深めたダルマパーラは、神智学協会に対して次第に距離を置きはじめる。彼は一八九七年頃、オルコット大佐に向かって『仏教徒神智学協会』の名称から「神智学(Theosophical)」の語を取り除くことを提案したが、大佐は激怒し、撤回せざるを得なかった。ダルマパーラの恩知らずとも思える言動は、ある意味で「養父」オルコットからの「独立」のシグナルでもあった。シンハラ仏教というアイデンティティを確立したダルマパーラにとって、本家である神智学協会の八方美人のシンクレティズムはもう我慢ならなくなっていたのだ。

オルコットとダルマパーラの親子にも似た師弟関係は次第に冷えてゆく。二十世紀の初頭、両者は非難の応酬を繰り返し、一九〇七年にオルコットが死去したのちも、ダルマパーラはベザント夫人率いる神智学協会を「仏教からの逸脱」あるいは「(敬虔な仏教徒であったはずの)ブラヴァツキーの教えからの逸脱」として激しく批判することをやめなかった*28。

スリランカ奥地への旅

ひとまず舞台を十九世紀末、一八八五年に戻そう。ダヴィッドは名家の嫡男でありながらもヘーワーウィターラナ家を離れ、『仏教徒神智学協会』の活動に全エネルギーを投入した。翌年、一八八六年の二月にオルコット大佐と協会幹部のC・W・リードビーターが仏教徒教育財団の募金活動のためコロンボに到着すると、ダヴィッドは二人とともにセイロン全島を回る二カ月間の演説旅行に同行した。旅行用には二階建ての大きな車(牛車?)が仕立てられ、二階にはオルコットとリードビーターが、一階にはダルマパーラが寝起きした。コロンボ生まれの都会っ子(といっても比較の問題だが)だったダヴィッド。彼にとってスリランカ農村地帯への旅は、祖国が置かれた現実に対する危機感をさらに深めさせる体験となった。

「キリスト教の宣教の影響が、いかに広くかつ深いか、そしてそれが人々の核心に食い込み、国民性のあらゆる高貴なものを浸食しているか。」彼が目の当たりにしたのは、ランカーの村人の間で守られてきたはず……のダルマの信仰が、「宣教師やその傭人」の攻撃になすがままに荒らされている光景だった。

シンハラ・ナショナリズムの目覚め

この講演旅行では、ダヴィッドのアジテーターとしてのすぐれた力量が存分に発揮された。彼はそのほとんどが文盲である田舎の聴衆に向かって、オルコットが英語で話す言葉の意味をかみ砕き、ユーモアと素朴な喩えを駆使しながら伝えていった。そしてのちにランカーの獅子アナガーリカ・ダルマパーラの思想の核となった、排外的シンハラ仏教ナショナリズムの片鱗は、この当時の演説のなかにすでに見出せるのである。

彼はシンハラ人の高貴な伝統(と彼が信じたもの)にそぐわぬ異国の習慣が村人の生活に入り込んでいることを見て、烈しく憤った。そして「若々しい熱心さで古代の繁栄を賛美し、現代のランカーの衰退を嘆いた。彼は肉食の習慣をどなりつけ、外国風の名前や衣類を用いることを罵った。」*29 彼が聴衆から喝采を受けたのは、「シンハラ人がマレー人から取り入れた、頭の櫛くしを捨てさせた」ことだった。

ダヴィッドはこの旅行の後、教育省での事務員の仕事も辞職してしまった。彼は仏教復興運動の若きリーダーとして、シンハラ語の週刊新聞『サンダレーサ』の発行責任者を引き受け、英文紙『ザ・ブッディスト』(一八八八年十二月創刊)の発行準備に熱中し、仏教学校の支配人、仏教擁護委員会の事務長補佐といったいくつもの肩書きを抱えて働きまわった。その過程で、彼はヨーロッパ風のダヴィッドという名前を捨て、『ダルマパーラ』(仏法の守護者)と自ら改名した。奇しくもちょうどその頃から、ダルマパーラと極東の島国・日本との接点が結ばれたのだ。

「我が愛する同交の信者よ。予は貴君らが日本において仏教哲理の弘布に尽力せらるゝを喜び、今こゝに我々が仏教のため錫蘭セイロンにおいて運動の履歴を述ぶる……予は恵みある宗教の進歩に向って力らの及ばん限り凡ての勤務をなすべく幸を被むれり。我が仏教は人類に成仏の真の望みを与える所の教旨なり。尚再信を望む。」*30

Srimath Anagarika Dharmapala at the age of 29 (1893)

註釈

日付は一八八八(明治二十一)年一月。ダルマパーラが日本の仏教関係者に送った、おそらくは最初期の書簡である。

*27 『英国心霊主義の抬頭』ジャネット・オッペンハイム、五五一頁注釈

*28 スリランカには仏教教育の普及運動としての『仏教徒神智学協会』とダルマパーラの『大菩提会』が並行して存在していたが、ダルマパーラはその後も「神智」の名称の削除を主張していた(MBJ. Vol.21-6, Jun-e,1913, P.126. 参照)。

*29 〝Flame in Darkness The Life and Saying of Anagarika Dharmapala〟Sangharakshita, Triratna Granthamala, 1995, p48

*30 「ダンマパラ、ヘバビタラナ氏書信」一八八八(明治二十一)年一月インド発。西本願寺普通教校の教職員らによって創刊されたばかりの『海外仏教事情』第一集(明治二十一年十二月十八日)に掲載された。ダルマパーラは本書簡でこう述べている。
「錫蘭に日本僧興然と称するものあり。自ら仏教の哲学を勉強せり。予の私見にては当国の仏教と(浄土)真宗の教義とは少しく差違する処ありと思う。されども自他感情の合同せるとには此の差違も全く消するに至るべし。併ら根本の説においては両ら同一なり。」
 同じ号に掲載された「四月インド発」の書簡では、ダルマパーラはオルコット招聘運動の進捗状況につき問い合わせるとともに、自らの改名の経緯について、
「(仏教徒の地位回復運動に関して)現今殊に主張する所は改名の一事にて、元来我輩仏徒は蘭人の強迫に依て従来の仏称を廃し、耶称を以て其姓名を呼ばざるを得ざる次第なりしが、自今は断然耶称を排棄し仏称を回復せんとの趣旨に有之……拙生は衆人に率先して其姓名を改め此迄ドンダビット(耶蘇教名)と称し来りしを当時の名称ダンマペラ、ヘバビザラナ(仏教名)と相改め候……」
と述べている。
 ダルマパーラが日本についての知識を得たのは、一八八七年、〝Fortnightly Review〟という隔週紙に掲載された記事がきっかけだったというが、同じく「四月インド発」には「此頃貴国へ我会長オルコット氏御招請の義は平井金三氏の発起にて当時其計画中に有之由に候。右は如何相成は哉。拙生よりも数月前赤松(連城)氏に宛一書を呈し置き候。嘗て「フォルトナイトリーレヴュー」(二週一回発兌の雑誌)と云える雑誌を閲覧中其紙上にて同君の尊名を見当り候。」とあるから、彼が読んだのは日本の仏教に関する記事だったのだろう。

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