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釈尊の教えは「小乗」だったのか?――上座部仏教派の立場からみた大乗仏教とは

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文:佐藤哲朗

「オカマの釈尊」

仏教伝来から約千五百年を経た平成の世、日本はちょっとした「仏教ブーム」に沸いている。最近、「釈迦如来」を主人公にした小説まで登場した。しかも若者向けのライトノベルだという。ページを開いてみると……。

「あたしのことはシーちゃんって呼んで」
「シーちゃん?」
オカマ坊主は目をしばたかせながら頷いている。
「ニックネームじゃなくて、本名は?」
「シッダルタよ」
(『タイムスリップ釈迦如来』より)

二〇〇五年に刊行されたライトノベル『タイムスリップ釈迦如来』(鯨統一郎)には、なんと「オカマの釈尊」が登場する。王子シッダルタはセックスレスの妻ヤショダラに浮気されて子供まで作られ、嫌気が指して城を飛び出す。出家したものの苦行は辛い。「苦行なんか止めて、もっと楽に生きるべき」と安直な悟りを開いて、怠け者とつるんでいた。そこにタイムスリップしてきたのが二十一世紀の日本人仏教徒(「ダイバーだった」からダイバダッタと命名……)。釈尊の正体に驚愕した彼は、自分の知る仏教の深淵な教義をシッダルタに吹き込み(釈迦に説法!)、怠け者集団を率いて世界宗教に仕立て上げる、というお話だ。

いじられ放題の教祖様

欧米やアジアの仏教国では、釈尊への宗教的「冒瀆」に対して仏教徒が抗議することも珍しくない。しかし同じ「仏教国」たる日本で、釈尊の表現をめぐって騒動になることなど考えにくい。もし日蓮や親鸞、道元など祖師方がネタにされたら物議をかもすだろうし、新興宗教教祖やイエスやムハンマドに到っては、下手に触れば生命に関わる。ひとり釈尊だけは、いじりたい放題なのだ。

そもそも日本仏教において、釈尊は人格性を持った「教祖」として扱われることは少ない。信仰の対象としても、ご利益不明な「真空の存在」に留まっている。だから「オカマ」にされようが、怠け者のエセ修行者にされようが、大多数の仏教徒の信仰心は痛まない。重要なのは、釈尊よりもその周囲で自由に踊る異世界の如来たちや菩薩たちの物語の方だ。釈尊は黙って微笑み、弟子(菩薩や祖師方)を引き立ててくれればいい。

これは無理もない話で、日本の仏教はほぼ100%大乗仏教なのだ。つまり歴史的存在としての釈尊の教えを墨守する「小乗仏教」を乗り越えた「優れた教え」という自負心のもとに成立している。『タイムスリップ釈迦如来』のダイバダッタよろしく、我々は釈尊に対して「より優れた後世の仏教」を「教えてあげる」立場にいるのだ。

大乗仏教が否定した「小乗仏教」とは?

釈迦牟尼仏陀(釈尊)の入滅後百年頃、戒律をめぐる対立から出家教団(サンガ)が厳格派の上座部(ルビ:じょうざぶ)と修正派の大衆部(ルビ:だいしゅぶ)に根本分裂したとされる。根本分裂の史実性は学界で議論になっているが、本稿ではこの根本分裂以前を「初期仏教」、以後、枝葉分裂を重ねた仏教を「部派仏教」と呼ぶ。

さらに数百年経った紀元前後頃、北西インドの部派仏教内部に「大乗仏教運動」が興起し、『金剛般若経』『法華経』『華厳経』『無量寿経』などいわゆる大乗経典が次々と創作された。新たな経典の信奉者は自分たちを大乗(偉大な教え)と称し、既存の仏教を小乗(詰まらぬ教え)と非難した。大乗経典は従来の初期経典を不出来な弟子(声聞)のために説かれたものと位置づけ、最高の聖者たる阿羅漢の権威も否定した。釈尊の教法で悟る「阿羅漢道」よりも、自分も釈尊と同じく仏陀となることを目指す「菩薩道」こそが優れた修行道だと宣揚し、観自在や文殊など超人的な菩薩の存在も流布していった。一方で、苦行を伴う三昧修習で薬師、阿弥陀、阿閃など異世界の如来のビジョンを観得することも説かれた。

大乗経典の創作と経典の「正統性」

新しい大乗の思想を語る経典が次々に「創作」される状況は、伝統的な部派仏教の立場からすれば信じ難い破戒行為だった。大乗以前の初期経典は、釈尊が般涅槃に入った直後、その説法を側近の阿難尊者が口述し、五百名の阿羅漢が承認した「第一結集」の伝承によって権威付けられていたからである。初期仏教~部派仏教という仏教の伝統の中で、権威ある釈尊の言行録を改変することは考えられなかった。事実、所属部派がバラバラなはずの漢訳阿含とパーリ経典はかなりの確率で一致する。

大乗経典にはさまざまな潮流があったが、いずれも従来の経典結集の伝承の外で編纂されたテキストだ。新たな経典がさかんに創作された時代、すでに初期仏教~部派仏教の経典(三蔵)の権威は確立していた。大乗菩薩道を説く新しい経典は、内容以前に文献としての正統性を厳しく問われたのだ。

初期経典に出番のない「菩薩摩訶薩」

菩薩の存在自体は、初期仏教経典の周辺部にあたるジャータカ物語(本生譚)で説かれている。しかしそれは主に釈尊の前生を賞賛するための物語であり、経典の本筋である漢訳阿含やパーリ経典のどこを見渡しても、経典の対告衆(説法の相手)として菩薩摩訶薩など登場しなかった。部派仏教時代に確立した過去仏信仰においても、諸仏の教団は比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷の四衆によって支えられると明記されていた。過去・現在・未来を貫く伝統仏教の神話体系に、様々な菩薩摩訶薩の活躍を説く、大乗菩薩道の新たな形而上学が入り込む余地は少なかった。龍樹(ルビ:ナーガルジュナ)に仮託された『大智度論』でも、作者は「蔵外経典」たる『大般若経』の権威を守るため、「(大乗経典は)秘密の教え」「人間ではなくて神々が聞いていた経典」云々と苦しい弁明を行っている。

ちなみに大乗経典に現れる如来たちがなぜ「異世界」の仏かと言えば、初期経典のなかで「正自覚者(仏陀)が世界に同時に二人現れることはない」(パーリ中部115『多界経』)と定義されたためである。三昧修行によって感得された諸仏に「正統性」を与えるためには、経典の穴をついて「世界の外」にいる如来とする必要があった。大乗経典の作者たちは、初期仏教~部派仏教を否定しつつ、仏教徒としての意識も持ち続けていた。それだけに、従来の経典の文脈を踏まえながら新しい思想を説くことにも腐心していたのだ。

アビダルマは天界で説かれた?

公正を期すために付け加えると、部派仏教~上座部仏教で編纂されたアビダルマ(論)も、「釈尊が天界で説いた教えを舎利弗が聞いた」という権威付けによって経典に準じる扱いを得た。そのため後世にはアビダルマの権威が経典のそれを凌駕するという現象も起きた。後述するように、仏教神話にはインド社会の性差別思想が反映されていた。そのような「前科」も大乗経典という伝統からの「飛躍」の一因であろう。

当初は権威を持たなかった大乗経典の作者は、教えの継承に不安を覚えていた。そのため大乗経典では、受持者にしきりに経典の書写を勧めた。人々が大乗経典を捨てて従来の初期経典に回帰することを恐れ、「そうなったら悪魔のしわざだ」とまで警告していた(『大般若経』魔事品)。

大乗仏教の登場は仏教に思想上の新たなる発展を促し、中観・唯識の二大宗派が台頭して部派仏教やインド他宗教と論争を繰り広げた。しかしインド本土における大乗の勢力は微弱で、西暦四~五世紀になっても伝統的部派仏教に寄り添う形で存続していたようだ。やがて大乗教団が自立しても、部派仏教との違いは大乗経典を読誦し、菩薩を礼拝する程度に留まった。大乗仏教は、部派仏教の戒律とアビダルマ(論)を前提とした上で、菩薩道を実践、あるいは賛嘆した。のちにインドから大乗仏教を輸入した中国でも、後期インド大乗を継承したチベット仏教でも、基本的に同じスタイルが踏襲された。

大乗仏教の「純化」と日本仏教

大乗派や部派の護持してきた経典は、シルクロードを通って主に大乗派の僧侶によってバラバラに中国文化圏へ伝えられた。インド初期仏教~部派仏教の引力圏を離れ、大乗仏教は自由の新天地で花開く。さらに、先進国である朝鮮や中国から仏教が社会制度の一部として輸入された日本では、仏教の自律性を担保していた部派仏教的要素(戒律とアビダルマ)を軽視し、もっぱら大乗経典を崇拝する傾向が強くなる。浄土三部経や『法華経』など、特定の大乗経典を選択し、祖師の思想によって敷衍して発展させた「祖師仏教(祖師教)」も隆盛を極めた。これは大乗仏教の「純化」と言えよう。そうして伝統仏教の制約を外れて独自に発展を遂げた「日本大乗」を大乗仏教の精華とする識者もいる。

はるか時が下って十九世紀後半、明治の開国後、日本人は大乗仏教以外の仏教、約二千三百年前にアショーカ王のミッションを通じてスリランカに上陸し、東南アジア全域に布教された「上座部仏教」と初めて出会う。大乗・小乗という区分に慣れ親しんだ日本の仏教徒は、彼らをためらいなく「小乗仏教」と呼んだのだった。

(初出:『図説ブッダの道――偉大なる覚者の足跡とインド仏教の原風景 (NEW SIGHT MOOK Books Esoterica エソテリ)』,学研,2008



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