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釈宗演(洪嶽宗演)

しゃく そうえん/1859~1919年/臨済宗円覚寺派/楞伽窟/『西遊日記』『菜根譚講話』/「禅仏教」欧米進出の基礎をつくる

鈴木大拙の師として、また夏目瀬石の参禅でも知られる釈宗演は、若狭(福井県)高浜の一瀬氏に生まれ、明治3年(1871)、12歳で同郷の越渓守謙を師として出家した。20歳で鎌倉円覚寺今北洪川に参じると25歳で印可嗣法。近代化に取り残される仏教界に危機感を抱き慶応義塾の別科に学び、明治20年(1887)に卒業すると、山岡鉄舟らのすすめでスリランカに3年間留学し、沙弥としてパーリ語と南方仏教の教理を学んだ。滞在中には『時事新報』に詳細な「錫蘭風俗紀」を寄稿し、セイロンの社会・宗教事情などを伝えた。

その後、宗演は引き続きタイに留学し、比丘出家することを希望したが、叶わなかった。明治25年(1892)、今北洪川の死を受けて34歳で円覚寺菅長となり、翌年9月、カゴで開催された万国宗教大会に日本代表の一人として出席し、大乗仏教を欧米に宣揚する。帰国後、弟子の大拙を米国に派遣。明治37年(1904)に日露戦争が勃発すると、司令部付従軍布教師となって日本軍に同行した。この戦役で、宗演は後継者と目していた植村宗光を失う。明治38年(1905)1月、宗演はアメリカ布教のために建長寺・円覚寺両派管長を辞任し、大拙を通訳に全米で「ZEN」を広めた。翌年4月にはルーズベルト大統領を表敬訪問する。

近代禅の祖と称すべき宗演だが、出家のきっかけは跡継ぎの兄の身代わりであった。「高僧(エライヒト)になれば天子様でも法の御弟子にすることができる」と道心篤き兄から聞かされた少年の決心は、果たして禅を近代日本文化の顔に押し上げたのだ。(佐藤哲朗

(初出:『仏教人物の事典―高僧・名僧と風狂の聖たち』学研,2005年3月)

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