律蔵に描かれたブッダのサクセスストーリー 知られざる律蔵の世界②
パーリ三蔵読破への道 連載第三回
佐藤哲朗
「犍度」ってなんのこっちゃ?
パーリ三蔵中の律蔵について、今回は犍度(khandhaka,カンダカ)、南伝大蔵経(以下「南伝」)の律蔵三巻と四巻にあたる箇所を読んでみましょう。
犍度とは耳慣れない言葉ですが、片山一良先生の解説を引けば「僧団全体の行事運営に関わる規則とその成立の因縁話を集成した」テキストであり、「犍度とは『集まり』であり、僧団として守るべき規則の集成をいう」(『ブッダのことば パーリ仏典入門』大法輪閣)とのこと。要するに五蘊の蘊(khandha,カンダ)と同じで、分類した要素ごとのまとめ、ということですね。無闇に難しい漢字なので、以下はカンダカと呼びます。
カンダカは大品(マハーワッガ、南伝三巻)十章と小品(チュッラワッガ、南伝四巻)十二章に分かれています。このうち大品の第一章にあたるマハーカンダカ(大犍度)の前半は、お釈迦様(釈迦牟尼仏陀)がウルヴェーラー(現ブッダガヤ)の菩提樹下で無上正覚に達した成道後の足跡が記録されていることから、独立した仏伝文献、つまりブッダの伝記として参照されることもあります。テーラワーダ仏教の法要でよく読誦される『初転法輪経』も、この一部を抜き出したものです。大品マハーカンダカ前半の現代語訳としては、宮元啓一『仏教かく始まりき パーリ仏典「大品」を読む』(春秋社、2005)も出版されています。
途中まではこんなに面白いのに……
実際、大品マハーカンダカは、読んでいて途中までたいへん「面白い」文献です。菩提樹下で真理を説く困難を思っていたところに、梵天の懇請(梵天勧請)を受けてついに伝道を決意し、サールナートで五人比丘に最初の説法(初転法輪)をして、バーラーナシーの富豪の御曹司ヤサとその友人の出家、仏弟子たちの地方伝道、ウルヴェーラーの三迦葉とその弟子集団の改宗、マガダ国の王舎城でのビンビサーラ王の帰依など、初期の「サクセスストーリー」がドラマチックに語られます。
ところが、サーリプッタ(舎利佛)尊者、マハーモッガッラーナ(摩訶目犍連)尊者の出家エピソードが語られる大品の第一章四節が終わると、次からはいきなり、和尚(指導僧)と新米弟子に関する戒律規定、出家比丘の戒律(具足戒)を授ける・受ける際の細々とした条件、規定などが長々と記されるのです。時系列で記されていたお釈迦様の歩みが、いきなり切断されてしまう。ブッダの伝記だと思って読み進めた人は、ここでかなり戸惑ってしまうはず。でも実は、その戸惑いを招くところにこそ、このテキストのツボがあるのです。
出家認定の条件あれこれ
大品マハーカンダカは、別名「受戒の章(受戒犍度)」と呼ばれます。つまり、出家者で構成された釈尊教団における出家認定の「規則とその成立の因縁話」を集めた章なのです。初期仏教の流れを汲む現在のテーラワーダ仏教では、戒壇(シーマー)と呼ばれる議場で出家認定の儀式が行われます。戒壇には原則として十人もしくは十人以上の、出家後十歳を経ている聡明な出家比丘(いわゆる三師七証)が集められなければなりません。戒壇に比丘サンガが集まると議長役の比丘が立ち上がり、「○○出家志願者は××長老より具足戒(ウパサンパダー ここでは「出家入門の許可」を意味する)を受けることを志願しています。もしサンガ(教団)に機が熟したならば、サンガは××を戒師(和尚)として○○に具足戒を授けますが、如何?」と言った意味の言葉を三回繰り返し唱えて述べて、議場に集まった比丘に確認を取ります。そこで誰にも異議がないことを確認して、全会一致で出家入門を認めるのです。これを仏教の専門用語で「十衆白四羯磨具足戒法」と呼びます。頭が痛くなるような用語ですが、要するに「十人で三回確認して承認される出家儀式」という意味です。
初転法輪と最初の出家者
この十衆白四羯磨具足戒法が出家認定の儀式として確定するまでには、かなり変遷がありました。お釈迦様がサールナートで最初に(成功した)説法をした五人は、次々に預流果の覚りに達しました。彼らは、「私は世尊のもとで出家して、入門したい(具足戒を得たい)です」と願い出ます。それに対してお釈迦様は、「来なさい、比丘(比丘たち)、真理は善く説かれました。正しく苦を滅ぼすために梵行(八正道)を修行しなさい」と応じました。これが最初の出家認定で、専門用語では「善来比丘具足戒」といいます。「『来なさい、比丘(比丘たち)』というブッダの言葉で成立する出家」という意味ですね。お釈迦様の初期の弟子たちは、みなこのようにお釈迦様と直接対面して、出家を許可されたのですね。
この善来比丘具足戒による出家認定の時代は、その後しばらく続きました。お釈迦様はバーラーナシーの大富豪の息子ヤサとその友人五十四人を教化し、彼らは出家して阿羅漢(修行を完成した聖者)となります。先にサールナートで出家して阿羅漢になっていた五人と釈尊をあわせて、「そのとき、世界に阿羅漢は六十一人となった」のです。
そこでお釈迦様は六十名の修行完成者を集めて、
「比丘たちよ、私は一切の輪廻の束縛から脱しました。比丘たちよ、みなさんも一切の輪廻の束縛から脱しました。比丘たちよ、旅立ちなさい、人々の利益と安穏のために、世界への同情のために、人間と神々に意義と利益と安楽をもたらすために。二人でともだって旅してはいけません。
比丘たちよ、初め善く、中ごろも善く、終り善い、有意義で論理の通った真理(法)を説きなさい。完全に円満で完全に清らかな梵行(八正道)を明らかにしなさい。生命の中には、心の汚れ少ない者がいます。もし真理を聴かなければ堕落してしまう彼らも、(聴けば)真理を覚ることができるでしょう。
比丘たちよ、私はまたウルヴェーラーのセーナ村に行って法を説きます」(スマナサーラ『日本人が知らないブッダの話』学研)
と述べて、最初期の出家グループを一度解散します。
お釈迦様の直接認定はもう限界に
バーラーナシーから、苦行時代から馴染み深いガヤー近郊のウルヴェーラーに戻ることにしたお釈迦様は、途中で三十人の王族(賢衆)に法を説いて出家させます。ウルヴェーラーに腰を据えたお釈迦様は、同地の有名なバラモン教団を率いていたカッサパ三兄弟(三迦葉)に対して、(後には禁じ手とした)神通力などを用いた激烈な折伏をしかけ、バラモン教の信仰を放棄させます。カッサパ三兄弟の弟子は一千人(概数でしょう)とされており、彼らがブッダに帰依したことで、お釈迦様の教団は一気に規模が拡大しました。
その一方、お釈迦様の指示を受けてインド各地に散った六十人の弟子たちも、それぞれの土地で教えを説き、帰依者を集めていました。その中には当然、出家して修行に専念したいと願う者たちもいました。しかし、当時はお釈迦様の教団で出家するためには、直接お釈迦様から「善来比丘具足戒」の形で許可を受ける必要がありました。地方伝道した阿羅漢方は、出家志望者たちをいちいち、お釈迦様のところに連れていって許可をもらったのです。
しかし、インドの各地方から徒歩でウルヴェーラーに出向き、お釈迦様に出家の許可をもらうということは、阿羅漢方にとっても、出家希望者にとっても、かなりの負担でした。そこで思案したお釈迦様は、諸国に派遣した弟子たちがそれぞれの活動地で希望者を出家させることを許可したのです。
その場合は、はじめに頭髪やひげをそり、袈裟を正しく着けて、比丘たちの足を礼拝し、蹲踞し合掌して、
「ブッダ(仏)に帰依いたします。ダンマ(法)に帰依いたします。サンガ(僧)に帰依いたします。二たびブッダに帰依いたします。二たびダンマに帰依いたします。二たびサンガに帰依いたします。三たびブッダに帰依いたします。三たびサンガに帰依いたします」
と唱えることで出家を許可する、と定めました。これは今でも私たちが「ブッダン、サラナン、ガッチャーミ……」と唱えている三帰依とまったく同じ文章ですね。お釈迦様が定めた新しい出家認定の方法は、「三帰依具足戒」と呼ばれます。「比丘サンガのもと三帰依することで成立する出家」という意味です。この変更の結果として、仏弟子のサンガ(僧団)はインド各地で発展していきました。
出家認定儀式の完成まで十年以上かかった?
この「三帰依具足戒」からいくつかの段階を経て、比丘サンガの出家手続きとして完成したのが、最初に紹介した「十衆白四羯磨具足戒法」です。お釈迦様なきあとの仏教教団では、すべてこの方法で出家がなされるようになりました。
「三帰依具足戒」が破棄され、「十衆白四羯磨具足戒法」が確立されたのは、大品大犍度の四節で語られる、釈尊教団の王舎城(ラージャガハ)入城以降のことです。それまで片田舎のウルヴェーラーを拠点にしていたお釈迦様は、旧友でもあるビンビサーラ王の統治するマガダ国の首都に進出を果たしました。竹林精舎の寄進を受け、王の庇護のもと、お釈迦様は次々に在家信徒や出家者を獲得してきました。王舎城周辺の沙門集団を率いていたサンジャヤの二大弟子、サーリプッタ尊者、モッガッラーナ尊者が、釈尊の最初期の弟子であるアッサジ尊者と出会って、ブッダに帰依するに至る物語はあまりにも有名です。
この王舎城での成功で、釈尊教団は一気にメジャーになりましたが、その反面、出家を希望する男性が続出したため、「沙門ゴータマが来て、(親を)子なき状態にし、(妻を)寡婦にさせ、家系を断絶させる」との非難がわき起こりました。この非難は七日を過ぎて滅したといいますが、実際には時間をかけて対応策が整えられたのではないかと思います。具体的には、二十歳未満の者、両親の許可を得ない者は出家を認めない。十五歳以下の子供を沙弥(見習い比丘)としないなど、の規定が定められました。また、さまざまな利益を得るために、てっとりばやく食うために、社会的トラブルから逃げるために、差別や貧困や病気を逃れるために、犯罪者の隠れ家とするために、出家しようと考える人々をブロックし、釈尊教団を俗世間の非難から守る対策も取られました。
お釈迦様が王舎城に進出したことで、禁欲的な沙門生活を経ず、いわば「ノリ」に任せて出家教団に飛び込む一般人も増え、行儀作法のなっていない比丘が続出しました。そこでお釈迦様は、出家者は必ず指導者(和尚)を立てて、最低五年(聡明でないものは一生)は指導者のもとに留まって仏道を学ぶべし、という規則を定められ、指導者と弟子それぞれの心得を細かく説かれたのです。
出家規則も、比較的簡易だった「三帰依具足戒」は破棄され、「白四羯磨」(議場で出家者が三回確認して承認)という形式を中心にした具足戒へと変更されました。他にも、大品大犍度の五節以下で出家の条件が細かく規定されています。その中に、具足戒を授ける資格を持つ出家者の条件に「出家後、十歳(十年)を経ている聡明な出家比丘」という記述がある。つまり、釈尊教団の出家規定が完成したのは、お釈迦様が伝道活動を始めて十年以上経った後だったのです。
律蔵が歴史エンタテインメントになった理由
律蔵カンダカの冒頭に、ブッダ成道から初期仏教教団成立までの歴史を記した理由は何だったのでしょうか。まず「善来比丘具足戒」から「三帰依具足戒」、そして「十衆白四羯磨具足戒法」の完成に至る流れを網羅することには、さまざまな形で「出家」した人々で構成されていた比丘サンガのメンバーはすべて正式・正統な出家者であると証明する意味がありました。出家の仕方は違っても、それらはその時々お釈迦様は認めた出家方法であると明言することで、サンガ全体の和合をはかる意図があったのでしょう。『お釈迦様の成道』という原点から始まった出家儀式の制定の歴史物語を共有することで、出家サンガの一体感をますます高める効果もあったと思います。
また、出家認定の方法が変更されたときには、必ず釈尊教団の地理的・規模的な拡大(地方伝道の進展、王舎城への進出)が関わっていました。そのような背景までも丹念に説明したことで、大品マハーカンダカは図らずも歴史エンタテインメント文学のように読める作品に昇華されてしまったのです。律蔵文献を整えたお坊さんたちも、ちょっとその辺の演出効果を狙っていたんじゃないかなと思いますけど。
《追記》
知られざる律蔵の世界①②は、スマナサーラ長老『日本人が知らないブッダの話 お釈迦さまの生涯の意外な真相』(学研、2010)のために用意したメモをもとに起稿しました。少々下世話なエピソードも混じっているけれど、パーリ三蔵の豊穣さを知るきっかけになれば幸いです。この路線のまま、釈尊が苦慮させられたコーサンビーの比丘サンガ紛争の話などを紹介しようかと思ったのですが、インターネット上で全文が公開されている釈尊伝研究会(代表:森章司先生)による『原始仏教聖典資料による釈尊伝の研究』(http://www.sakya-muni.jp/)に直接アクセスしてもらうほうがよいと思って止めました。同サイトの論文「コーサンビーの仏教」森章司・本澤綱夫(http://www.sakya-muni.jp/monograph/14/19/)は「事件もの」として読んでも超面白いです。
(初出:サンガジャパン Vol.3(2010Autumn) ,サンガ,2010/9/25、単行本『日本「再仏教化」宣言!』サンガ,2013/12/27収録時に加筆修正)
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