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9「ランカーの獅子」の誕生~ミッションスクール・神智学・パーリ語|第Ⅰ部 噺家 野口復堂のインド旅行|大アジア思想活劇

その生い立ち

「ダルマパラなる語は梵語にして漢字に訳すれば「護法」となり。而して法名である。戸籍上の俗名はクリスチヤン・ネームでエッチ・ドン・デビッドで錫蘭セイロン人でありながら亡国の民の悲しさブリッチッシュ・サブゼクト即ち英国臣民であって生れしところは錫蘭島のコロンボで、家は家具製造を職とする。
 島中屈指の富豪の嫡男なるが、生来脚に病あり。二弟をして英国倫敦の大学を卒業せしめ、一は家職を次ぎ、他は官吏たらしめ、自分は不具者故仏門に帰依し、単身無妻にして跛ママ足を曳きつゝ、印度内地の仏趾を歴訪し、当時マドラス市に創立なりし露国婦人マダム・ブラバツキーのセオソフィカル・ソサエチィ即ち霊智学会の第二世たる米国陸軍大佐コロネル・オルコツト氏と相知り、父子の如き交わりを訂し、帰島以後は、同島マリバン・ストリート街の霊智学会支部の長となりて、仏教再興に努力しつゝありたり。……」(「這般死去せし『ダルマバラ』居士が始めて日本に入りし道筋」より)

野口復堂の勘所を押さえた説明を引き取って、本書のもうひとりの主人公、アナガーリカ・ダルマパーラの生い立ちに触れたいと思う。ダルマパーラは一八六四年九月十七日、コロンボのペッター地区で裕福なゴイカマ(農業)カーストであるヘーワーウィターラナ家の長男として生まれた。ちょうど日本では英仏蘭米の四国連合艦隊が下関を砲撃し、長州藩があっけなく降伏した直後。大陸に目を向ければ洪秀全の太平天国が、南京陥落によって滅亡した二カ月後のことだった。

スリランカ南部のマータラで家具工場を経営していたヘーワーウィターラナ家は、その頃のシンハラ人エリートとしては珍しい敬虔な仏教徒であり、一族から高名な僧も輩出していた。ダルマパーラの父ドン・カローリスはヒッカドゥウェ・スリ・スマンガラ大長老と親交を結んでおり、スリランカ仏教の大檀越として知られていた。しかし赤ん坊は当時のシンハラ人エリートの多くがそうであったように「ドン・ダヴィッド」という聖書にちなんだ欧風の名前をつけられた。

https://doncarolis.com/

少年時代の原風景

「私の一族はシンハラ人──二千二百年にわたって途切れることない仏教の信徒──である。私はセイロンの首都コロンボにある、先祖伝来の家に生まれた。年老いた母は、いまだにそこに暮らしている。私の最も古い記憶は、涼しいココナッツの木立のもとでインド洋から吹くそよ風に吹かれていたこと、そして広々としたベランダから、シナモンやオレンジ樹の繁茂し朱色と紫の石楠花・珊瑚樹が深紅に燃え上がる庭園を見おろしたこと。
 庭園は子どもにとって魅力的な世界だった。蜂鳥は大きな果樹花の周りを舞い、陸亀は陽光の下ひなたぼっこをし、さらに蛇がからまった下生えのあいだを優雅に滑り抜けていた。あたかも庭園に住む全ての生き物たちが、この住処は──彼等の棲息を妨げることのない──仏教徒の手によって作られたとわきまえているかのようだった……。」(〝Return to Righteousness〟p682)

かつてのドン・ダヴィッドは、特別長くはないが間違いなく充実していただろう人生の晩期に、自らの幼年期をこう回想している。あたかも、彼の半生を決定づけたイデオロギーと、少年の思い出とを美しく混濁させた「原風景」のように……。筆者はダヴィッドの少年時代の写真や肖像を見たことはないが、おそらく鼻筋のよく通った端正な顔立ちの上に黒々とした巻き毛を載せた、そして褐色の手足は棒のように細い、スリランカの街角のどこでも見かける、典型的なシンハラ少年だったのではないか。

ミッションスクールでの葛藤

ダヴィッドは家庭では父母のもと、伝統的なシンハラ仏教徒の信仰と生活習慣を身につけていた。しかし彼が幼少期を過ごした一八六〇年代、セイロンの学校教育はキリスト教徒に牛耳られていた。ダヴィッドはほんの二年間だけ私立のシンハラ人学校に通ったことを除けば、カトリックやプロテスタントの宣教団が経営するミッション・スクールに通い、バーガー(シンハラ人とヨーロッパ植民者との混血)がほとんどを占める教室で英語によるキリスト教教育を受けざるを得なかった。植民地支配下でシンハラ人がいくばくかの立身出世を目指すための、それが唯一の選択でもあった。

六歳のみぎり、ペッターのカトリック・スクールに籍を置いていたダヴィッドは、学校を訪問したカトリック司教に額ずき、うやうやしく彼の指輪にキッスをした。「私はそれを断って、『なぜ彼の指輪にキッスしなければならないのか』と問いただすには余りに若すぎた……」しかし、頭の回転が速く議論好きだったダヴィッド少年が、植民地の教育にいつまでも従順だったはずはない。一八七八年、ダヴィッドはコロンボ北部のセント・トーマス学院に入学した。彼はそこでクリスチャンの教師に反抗して五月のウェーサーカ祭への参加を宣言し、懲罰を受けながらも毎年、意固地にウェーサーカ当日の欠席を続けたという。

ダヴィッドは読誦を強いられたバイブルを、その美しい韻律に酔いしれつつも、若者らしい批判精神を発揮して丹念に読み込んだ。「ねぇ、神が第一原因だというのならば、神はいったい誰が創造したんだい?」「もし『汝殺すなかれ』という戒めがあるのなら、どうして十字軍が起こったのですか、先生?」……キリスト教の不合理と矛盾をあげつらい、学友や宣教師に論争を吹っかけることは、ダヴィッドにとって一種の趣味となっていた。また、彼がのちに欧米で仏教布教を始めたとき、聖書に対する造詣の深さは大いに役立った。

神智学との出会い

ダヴィッド少年がセント・トーマス学園への道すがらよく通ったコタヘーナ寺院には、一八七三年のパーナドゥラ論戦で名高いグナーナンダ長老がいた。聡明なダヴィッド少年は当然、グナーナンダのお気に入り。グナーナンダ長老はその頃、パーナドゥラ論戦を縁にブラヴァツキー・オルコットとの通信を続けており、ダヴィッドもまた、コタヘーナ寺院への訪問を通じて神智学協会への興味を抱き始めていた。

「少年時代から神秘的な修道生活に惹かれていた私は、アラハット(阿羅漢)とアビンニャー(神通)の科学についてニュースを探し求めていた。セイロンの比丘たちはアラハットの悟りについて懐疑的であり、彼らは「アラハットは過去の存在だ。修業によって現世でアラハットの悟りを得ることはもうあり得ないことだ」と語っていた。それからのち、私は(神智学協会の機関誌)『神智学徒(The Theosophist)』の定期購読者になった。」(同 p699)

天性の宗教家気質を持ったダヴィッドにとって、欧米からもたらされた新しい「オカルト・サイエンス」は若者らしい性急で短絡的な「真理への渇望」を容易に満たしてくれる、魅力的な存在にみえたのだろうか。

二人の白人オカルティストがスリランカで仏教に帰依してまもなくの一八八〇年六月、ダヴィッドは父と叔父に連れられてオルコットの演説会に出かけた。学校からコロンボの講演会場まで、てくてくと歩いていったダヴィッド。この講演会は、彼に生涯消えない強烈な印象を与えたようだ。「私はあの人たちといて、共に『さようなら』と握手を交わしたときの感激をいまだに記憶している。」神智学徒との出会いから半世紀以上の後、自らの死を目前にしたダルマパーラ(かつてのドン・ダヴィッド)は感慨深げに回想している。そしてダヴィッド少年は、短い会見のさなか、直観的に、ブラヴァツキー夫人に溺れてもいた。

アディヤールヘの旅

さらに三年が過ぎた一八八三年三月、コタヘーナ地区で勃発したカトリック教徒と仏教徒の衝突事件(カトリック教徒の襲撃により仏教徒一名が殺される)をきっかけに、ダヴィッドは激昂した父の命でセント・トーマス学園を退学してしまう。大学受験資格を取得する前だったので、彼は植民地支配下のシンハラ人にとって当時望み得るエリートコースからこの時ドロップ・アウトした。

「ダヴィッド、我々はセイロンへ君に英語を教えに来たのではない。君をキリスト教へ改宗させるために来たのだよ」

「先生、僕は新約聖書は好きです。でも旧約聖書を信ずることはどうしてもできません」

こまっしゃくれのダヴィッドに手を焼きつつ愛してもいた同校のワルデン・ミラー師は、退学する異教徒の教え子のため成績優秀の証明書を渡すことを厭わなかった。

その後、ダヴィッドは教育省の下級事務官として働くかたわら、ペッター図書館で独学に励んだ。彼の読書領域は倫理学・哲学・心理学・伝記・歴史(あ、文系だ)へとやみくもに拡がった。夢見がちな青年らしくキーツやシェリの詩に耽溺してもいる。フェイバリットは叔父貴の書斎で偶然見つけたシェリの『マブ女王』。彼のベースとなったのは誇り高きシンハラ仏教徒の文化だったとしても、青年期の思想はもっぱら英語で書かれた書物によって形成されたのだ。孤独な読書を通じて、神智学の教義(オカルト・サイエンス)はますます強くダヴィッドを捉えていった。

「ヒマラヤのマスター(ヒマラヤの聖域に住み、神智学徒を霊的に指導しているとされていた仙人)から直接に指導を受けたい……」という、ダヴィッドの渇望は増すばかりだった。この年の十一月、ダヴィッドはブラヴァツキー宛ての封書に「ヒマラヤのアデプト」への切々たるメッセージを同封した。そして翌一八八四年一月のオルコット来島を機に、彼はマリバン通の臨時神智学協会本部において、晴れてこのオカルト組織への正式入会を果たしたのである。

ちなみに当時スリランカの神智学協会総裁はダヴィッドの祖父が務めていた。アナガーリカ・ダルマパーラを生んだ富豪ヘーワーウィターラナ家は、その後十九世紀末から二十世紀前半にかけて、のちに触れるごとくさまざまな悲劇的な犠牲を払いつつも、まさに一族ぐるみでスリランカの仏教復興に献身してゆくのである。

同年の十二月、ダヴィッドは神智学協会の二人の創設者に従って、インドのアディヤールへ赴くことになった。ダヴィッド青年の目前に、ヒマラヤのマスターへの奉仕の道がようやく開かれたのだ。しかし出発の直前、不吉な夢を見たダヴィッドの父親(彼は占星術のエキスパートだった)は、血相変えて息子のインド行きに猛反対し、祖父やスマンガラ大長老もこぞって彼を引き止める騒ぎとなる。

オルコット大佐もダヴィッドの同行を半ば諦めた時、同席していたブラヴァツキー夫人は「もしあなた方が彼を行かせなかったら、この子は死にますよ。私はどうしても、彼を一緒に連れていきます。」*25と言い放ち、半ば力づくでダヴィッドをアディヤールへ連れていった。

オカルトからパーリ語へ

ダヴィッドは当然、アディヤールの神智学協会本部で「ヒマラヤのマスター」たちに通ずる神秘主義を学ぶ心づもりでいた。肉体的にも精神的にも純粋うぶだった彼は、すでに十九歳の時、自らの一生をオカルト・サイエンスの考究に捧げることを決意していたのである。しかし、ブラヴァツキー夫人はある日ダヴィッドをそばに招き寄せると、彼に祝福を与えつつ、意外な言葉をささやいた。

「あなたが生涯を人類への奉仕に尽くしたいなら、オカルティズムを学ぶ必要はありません。パーリ語を学ぶなかで、必要なすべてをそこに見出せるはずです」(同 P687)

彼をインドに誘ったのはブラヴァツキー自身である。それに彼女が構築した神智学の「太古の叡智」のパンテオン(カタログリスト)では、南アジアの上座部仏教に最高の評価が与えられていたわけではない*26。彼女の意図が那辺にあったかは不明だが、いずれにせよ、ブラヴァツキーの謎めいたこの言葉はダヴィッドの人生に大きな転機をもたらした。

彼を怪しげなオカルト・サイエンスから「パーリ経典の教え」へと転回させたのは、近代オカルティズムの祖ブラヴァツキーだった。その原体験ゆえか、ダヴィッドは「仏法の守護者ダルマパーラ」を名乗るようになって以降も終生、ブラヴァツキーを「真の仏教徒」と信じて、思慕し続けた。

アディヤールでのわずかな滞在ののち、彼はスリランカに戻りパーリ語の学習を始めた。パーリ語の書物はまだ一冊も印刷されておらず、彼はシンハラ文字で記された伝統的な貝葉写本(ヤシの葉に記された写本。パーリ語には独自の文字は存在せず、上座仏教を信奉する各国のアルファベットを用いて記載される)を用いて学んだ。

語学の習得と並行して、彼は当代きっての学僧・論客であるスマンガラ大長老、グナーナンダ長老らから伝統的な上座仏教教理について教えを受けた。ダヴィッドはいま、次世代のスリランカ仏教を担う「ランカーの獅子」への一歩を踏み出したところだ。


註釈

*25 〝Return to Righteousness〟P.687

*26 インド上陸からまもない頃、ブラヴァツキー夫人はスリランカ仏教についてこんな悲観的な評をしている。
「後代、優位にたったバラモンによって、インドから追放され迫害された仏教徒は、セイロン島(現スリランカ)に最後の拠点を見つけました。そこに今日仏教徒は、伝説のアロエのごとく花開いています。その伝説とは、アロエは枯れる前に一度だけ花を開く、根は死に、その種は発芽しても雑草にしかならない、というものです。」(『インド幻想紀行 上』P227)

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