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河口慧海

かわぐち えかい/1866~1945年/慧海仁広/黄檗宗/『チベット旅行記』『在家仏教』/日本最初のチベット旅行者

和泉国(現大阪府)堺市の樽桶職人の息子。夜学時代に読んだ『釈迦一代記』を縁にして仏教を知った。明治21年(1888)、上京して哲学館に入学。2年後には寄宿先の黄檗宗五百羅漢寺にて得度、住職となるがすぐに辞職。黄檗宗の宗門改革を叫んで大暴れするも、嫌気がさして放り出す。

漢訳仏典に頼った日本仏教に疑問を抱いていた慧海は、チベット大蔵経を請来することを志し、明治30年神戸を発ってインドへ上陸した。約一年半かけてチベット語文法・会話を習得した慧海はインドを出て、明治34年3月、日本人として初めてチベットの首都ラサに入った。セラ寺に入門し、漢方薬知識を活かしてダライ・ラマ13世に謁見したが、日本人だと露見して翌年5月末、ラサを脱出した。

明治36年の帰国後、慧海が口述筆記した新聞連載『チベット旅行記』は面白すぎて、チベット入り自体を疑われる始末だった。ちなみにインドで同書の英訳草稿を読み、出版を強く勧めたのはアニー・ベザント夫人である。明治42年マドラスの神智学協会から刊行された『チベットの三年』によって、慧海の欧米での評価は定まった。

インドで万全の準備を整えたのち、大正2年(1913)慧海はシッキム経由で再びチベットに入った。当時ラサには西本願寺の青木文教・多田等観そして冒険家の矢島保次郎もいた。この旅行で膨大な数の仏典や文化財・標本等を請来した慧海は、野口英世と並び「精神界の冒険的世界事業」と讃えられた。一方でチベット大蔵経の所有権を巡って、青木文教との間に深刻な紛争「大正の玉手箱事件」も起きた。(佐藤哲朗

(初出:『仏教人物の事典―高僧・名僧と風狂の聖たち』学研,2005年3月)

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