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SNSにおける写真の価値観について

最近、昔ほど風景を撮りにいく頻度が減ったので、あれこれ考える時間が増えた。
そして先日、海外の風景雑誌のインタビューを受けた際、特に考えさせられたことについて、自己紹介もすっとばしてこっちでも書いてみようと思います。
(※あくまで個人の意見なので聞き流してもらえれば)

価値のある写真とは

風景において、SNSで映えるような稀有な気象条件を捉えた風景はもちろん良い写真だと思うし、その人にしか撮れない、その人にしか行く事ができない場所の写真は間違いなく価値があると思う。

前の自分は風景に”格好良さ”を求めてたのでその時の自分にとってはそれが正解で、人と違う場所で捉えて撮るのが楽しかったのだ。しかし最近よく思うのは良いと思える写真を詳細に思い出せるか?ということ。
例えば、好きと思える写真があったとしても、雰囲気しか思い出せないような写真は良い写真だろうか?
写真の構成について特に語りたい部分や写真から伝わるメッセージなんかがあっただろうか?
経年による記憶の風化はあるとしても、詳細を思い起こさせる写真って意外と少ないかもしれない。
自分の関わる写真なら”思い出補正”があるけどね。

昨今のSNSにおいて、分からない人に向けて分かりやすく表現した写真っていうのは受け入れられやすく反応も良い。写真を共有する方法としては良い方法の一つだと思う。
しかし、SNSの競争的な性質と絶え間ないコンテンツの洪水によって日々消費されるその写真の価値はどんどん希釈されていく。

SNSのアルゴリズムに従って”ウケる写真”の強制的な増加は、より高い需要に応えるために細部に注意を払う時間が減り、必然的に品質の低下につながる。一部のアーティストは”アウトプット”に関心を置くようになり、もはや"自分で作品"を作成することさえ気にせず、AIで生成し、次第に目的と手段が入れ替わるようになる。故にそういった写真は記憶に残りにくい。
日々絶え間なく流れてくるほかの写真と大して変わらないから。

目を留める写真


個人的に、良いと思える写真、記憶に残る写真というのは
目を留める写真だと思うようになった。写真を見て一目で良い!っていう写真より、なんだこれ?と見て疑問符が浮かぶ写真
少なくともそれで注意を引くことができるし、写真に対して思考を巡らせることができ、写真に込められたメッセージや解釈などを閲覧者に委ねることができ、結果的に記憶に残りやすい。

でもそういう写真ってなかなか評価がされにくいんだよね。分かりにくいから。もはや何も分からないのかもしれない。
しかしSNSの全てを否定しているわけではないのである程度の妥協は必要なんだと思う。
側からみるとSNSで成り上がったやつが何を言ってるんだと思う。自分でも思う笑
SNSがなければ自分もここまで写真を続けてたとは思えない。
でも自分がSNSを始めた頃と今では時代は徐々に変わってきているし、約9年、ここまで写真を続けてきておかけで気づけたことが良かったとも思う。

だから、真にやるべきことは自分の撮りたいものを投稿し続けることなんだと思う。その写真が良いか悪いかに限らず。
見ている人全てが自分の写真を受け入れてくれるわけではないし、期待していない。少なくとも自分を騙し続けるのではなく、数少ない自分の写真を好きだと言ってくれている人、コミュニティに写真を共有できればそれで良いなと思うようになった。

オリジナル


そしてSNSを通して見える、流行りやプレッシャーの中でも、常に自分が撮りたいものに集中し、自分の内なる声に従うことが非常に重要だ。
一般的な意見を自分の作品に組み込み、大衆に迎合しようとしない。

芸術や写真は創造的なプロセスであり、そのプロセス自体が報酬であるべきなのだ。お金、名声、賞賛は常に作品の結果であるべきであり、決して原因になってはならない。これらが主な動機になると、心はもはや写真に集中できなくなり、イメージは当たり障りのない、ありきたりで意味のないものになってしまう。

私たちは皆、異なる場所、時代、状況で育ったので、それぞれがユニークである。私たちにはあらゆる点で同じ人はいないはずだ。私たちの作品が私たちの内側で思っていること、起こっていることを反映している限り、私たちの作品は、他人が考え出したアイデアやビジョンではなく、常にオリジナルの写真として見なされる。訪れた場所について、独自の世界、独自の目を通してどのように見えるかを、写真として共有、見せていきたい。


#写真 #風景 #風景写真 #創作


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